06) 今は私の指示に従え!
春休みは新学期を待つだけの長期休みではなく、出会いと別れの季節である。そんな春休みを機に環境が変わるであろう不安と期待は、多くの人々を良い意味でセンチメンタルにさせる。そして他の同世代同様に、四月より私立城ノ岬高等学校に進む犀潟智也と依田真衣香も、当時は感傷的な気分が高まっていたのか、普段以上にその距離は近くなっていた。
城ノ岬市の新市街にある市立図書館で一緒に勉強した後に、駅前デパートでウインドウショッピングを楽しんだ二人は、バスに揺られながら旧市街へと戻り、自宅まで続く海岸沿いの旧道を出来る限りゆっくりと歩く。
「海風が穏やかになって来たね」
真冬の海岸通りを歩こうものなら、真衣香の長い髪はビュオオと音を立てながら超能力者の覚醒シーンのごとく逆立ち荒れまくるのだが、今の彼女は夕陽を浴びてピンクブラウンに輝く髪をサラサラと揺らしており、春風と相まってその姿からも穏やかな時期を感じさせている。
「春だね、高校生活も楽しみに感じて来たよ」
「私も。智也は部活何やるか考えてる? 」
「無趣味でここまで来ちゃったからなあ、今から考えてもね。帰宅部のままで良いや」
「私もそうする、高校行ったら一緒に帰れるね」
智也に振り向きにっこりと微笑む真衣香。その含むところの無い笑顔にやられながらも、いやいやちょっと待てよと慌てる。
「私もそうするって……弓道は続けないのか? 」
「うん。奥は深いけど私にはもう良いかなって。勉強で智也について行くなら、私には他に習わなきゃいけない事があるから」
「他に習う事? 」
熱心に練習に明け暮れていた弓道を封印すると言う事は、それだけの葛藤や覚悟があったのだろうが、運動や文化のセンスが無くて結果勉強しか出来なかった智也にしてみれば、額から滴る汗を輝かせながら無になって的を狙う姿は神々しく、まさに真衣香は女神にも見えていた。身近な彼女を通じて女性の美の真骨頂を垣間見て来たとも言えたのだが、それが何故今になってリタイアするのか……と目をまん丸にしながら不思議がる。
そんな智也に対して一度答えるのを躊躇するも、やはり自分の気持ちを伝えたいと思ったのか、頬を赤らめうつむきながら真衣香はこう答えたのだ。
「もうお母さんにもお願いしたんだけど、私ね……料理を習う事にしたの」
「りょ、料理を? 弓道をやめて? 」
「うん。だって智也は間違い無く東京の大学行くでしょ? だったら智也の健康を気遣うのは、私の役目だと思ったから」
今は清い付き合いを深める。頑張って学力の均衡も保ち、二人で同じ都会の大学を目指す。二人で話し合いを重ね、大学卒業後は都会に残るか城ノ岬に戻るか決める。そして晴れて社会人となったら結婚する。
――これらがもう、二人の既定路線としてプランが出来上がっている以上、真衣香は部活に費やして来た貴重な時間を改めて振り分けたのだ。智也の食生活が管理出来るようになろうと。
真衣香の気持ちを受けて胸が甘く締め付けられる智也。足をピタリと止めて彼女に振り向き、夕焼けにその表情を輝かせながら、春の海風に甘美な香りを乗せる真衣香に向かって穏やかに宣言した。
「俺さ、お勉強だけが得意の男にはならない。真衣香が誇りに思えるような、立派な社会人になるから」
……うん。
小さくうなづいた真衣香は、微かに瞳を潤ませて智也の気持ちを受け入れる。そして智也を見上げて目を合わせながら、自分の緊張を打ち消すかの様なぎこちない笑顔で智也に言ったのである。
(智也はもう、私の誇りだよ)
ザザアッ、ザザアッと寄せては返す夜の海岸。旧道に並ぶ街灯の灯り、その心細い灯りが波打ち際の白波だけを照らし出し、視界の遥か先には暗黒の世界が広がるだけ。
――その思い出の波打ち際に今、犀潟智也がいた――
時間は既に深夜を越えており、寝静まった母親を起こさぬ様にそろりそろりと外出。昼夜逆転している事から目が冴えに冴えている彼は、自転車を転がして新国道にあるコンビニへ赴いていた。
バックヤードで店員が品出ししているのか、人っ子一人いない店内。智也はマンガ雑誌やゲーム誌をペラペラめくるも、今まで好んで読んでいたものなどまるで無く、良くわかんねと呟きながら立ち読みを諦める。結局ものの十分もかからず炭酸とカップラーメンを選び会計を済ませて退店し、自宅への帰路についた。
その帰路自体で真衣香との思い出がふと蘇ってしまったのか、余韻に浸れば再び自分が傷付く事を承知の上で自転車のブレーキをかけて停止。自転車を旧道の脇に止めて海岸に降り、ぼんやりと海を見詰め始めたのだ。
砂浜と言うよりも砂利浜と言っても良いこの浜辺は、日本海沿岸においてはそれほど珍しい質の浜では無い。その砂利浜の中に点在する大きな岩に座り、海風に当たり始めた智也は、家まで我慢しようとしていた炭酸ジュースを手に取りプシッ! とキャップを開ける。
……ゴクリ、ゴクリ
あまり炭酸は飲み慣れず、強いて言うならお茶ばかり飲んでいた智也。新しいものにチャレンジしたつもりで購入した強炭酸入りオレンジジュースを、味わう事無く胃に流し込んでいると突如、彼の身体に異変が起きる。
「ゲ、ゲフウッ! カッ、ゴホゴホ……ケホンケホン! 」
なんと、喉を流れ落ちる炭酸ジュースが気管支に入ったのか、口と鼻からジュースを逆流させながら激しく咳き込んでしまったのだ。
……ケン!ケン! ……ゴホンゴホン……
打ち寄せる波の音をかき消す咳の音。不思議な事にその咳き込む音が消えるにつれて、今度はグスッ、グスッと言う鼻水をすする音と、ウウ、ウウと横隔膜が震える音がその場を支配する。
「……情け無い、情け無いな俺……」
呟く声も不安定なほどに、智也は泣き出していたのである。
ひとしきり泣く、とりあえず泣く。泣いて解決する事など無いし、泣く事を我慢したとしてもスッキリはしない、結局はいつかまたこうなる。
そう思ったのか定かではないが、智也は両手で顔を覆いながら大きな声で泣く……まるで子供のようにだ。
やがて嗚咽を続けて疲れたのか横隔膜の痙攣も収まり、感情の爆発も徐々に落ち着いて来た。
「情け無い、本当に情け無い……」
彼女の後を追う度胸が無い、だからと言って彼女のいない将来に希望も見い出せない。何かに没頭して彼女を忘れる事も出来ずに、自分だけが時間が止まるこの孤独感ーーそれを打ち破る気力すら湧き出て来ない自分自身。
総じて情け無いと言う言葉だけが智也の口から出て来るだけなのだが、泣くだけ泣いて一先ずは胸の溜飲は落ちた。とりあえずすっきりしたのか、目をこすりながらぼんやりと立ち上がり、帰路につく。
だがここで気付いた。誰か懐中電灯を持った者が旧道からこの浜辺に向かって駆けて来るのだ。
いかん、こんな夜更けに未成年が出歩いていれば、不審に思われて注意される……そう思った智也は、泣き顔がバレないようにゴシゴシとこすり、何気ない表情を作って懐中電灯に照らされるのを待つ。
その時だ「犀潟智也か!? 」と、聞き覚えのある女性の叫び声がした。
婦警さんかな? そんな事有り得るかな? と不審に思いながら僕ですと答えるも、その人物が近付く事で心臓が止まるほどに衝撃を受けた。
懐中電灯の灯りが放射状に輝き目も眩む中、その灯りの切れ間から見えた人物が、絶対にあり得ない人物であったのだ。
「……真衣香、真衣香なのか? 何で、何で君が!? 」
「犀潟智也、話は後だ。やってもらいたい事がある、今は私の指示に従え! 」