01) プロローグ 「犀潟智也の死んだ理由」
――犀潟智也は腑抜けになった――
彼を知る者全てがそう評する様になったのは、今年の六月の事。元号が平成から令和に変わって丁度ひと月経った頃には、それまで“秀才”と持て囃されていた智也の評判は過去のものとなり、評判は落ちるところまで落ちてしまった。
智也が秀才の冠をなぜ頭上に戴いたのか、それには誰もが納得出来るだけの理由がある。推薦枠ではなく一般入試で私立城ノ岬高校に合格を果たした智也。スポーツにおいてはイマイチで、中学時代の成績も「上の下」程度だった彼なのだが、高校入学後の一学期において、この私立高校の系列高の生徒全てを含めて開催される全国統一学力試験において、同校の推薦・選抜クラスの生徒たちをごぼう抜きにしてしまったのだ。『推薦・選抜のエリートクラスを超えた生徒』の話題は瞬く間に学校内を駆け抜け、智也は一躍“時の人”となった。だが、一般入学者の学年トップと言う驚愕の試験結果は、あっという間に過去の伝説となって封印されてしまったのである。
犀潟智也が死んだと言われる理由はある、誰もが認める確固たる理由がある。それは依田真衣香の死によるものであり、この依田真衣香の死と言うのは抽象的表現における“死”ではない。彼女の心臓が止まり、医師が死を宣告する本当の死だ。
智也の隣家である依田家の一人娘である真衣香は同じ年で、幼児の頃から今の今まで智也と一緒に人生を歩んで来た。彼女は俗に言うところの幼馴染であり、智也にとって彼女は一番深い存在そのもの。時に恋人であり時には妻、そして時には妹であり姉であったりと、彼には決して欠かす事の出来ない自分の半身のような存在だった。
――だが、今年の六月に悲劇が訪れた。 同じ幼稚園、小学校、中学を卒業し、予定調和のように同じ高校に進学した二人。まるで産まれた時から夫婦になる事を運命付けられたような二人であったのだが、運命の赤い糸はここでプツリと千切れてしまう。たまたま別々に下校した際に、信号を無視して交差点に飛び込んで来たダンプトラックに真衣香が轢かれ、グチャグチャになってしまったのである。
真衣香が恥ずかしげに提案して来たのだが、今年の夏は泊りがけで海に行く約束をしていた。それはキスの予感を遥かに飛び越えて、互いに握った手が一つに溶け合う様な、甘くて鮮烈な二人の思い出になるはずであった。だが、そんな甘酸っぱい約束も真衣香の肉体から魂が去った事で全てが有耶無耶になってしまったのだ。
ダンプトラックが彼女の身体を吹き飛ばしつつ、トドメを刺すかの様に巨大な後輪タイヤに彼女を巻き込んだ。その衝撃と圧力で、全身の骨は粉々に砕けて内臓は飛び出し、潰れた顔面と飛び出た脳漿は修復に難しく、哀れとしか表現出来ない死に様だった。
警察での検死も終わり、無言の帰宅を果たした際は、棺に納められた彼女はエジプトのミイラよろしくギチギチに全身に包帯を巻かれて、別れのキスすら出来なかったのである。
気丈に彼女を見送ったと言うよりも、呆然としたまま親に背中を押されて葬儀を終わらせたと言った方が正しい表現なのだが、全てが終わったその夜に智也は泣いた。泣いた。嘔吐を繰り返しながら泣いた。そして赤ん坊の様に泣き叫びながらベッドの上で暴れ、勉強机の上に飾る二人のツーショット写真を見ては自分の頭と顔をガシガシと殴りながら更に泣いた。そして自分の半身を失うと言う事がどれ程恐ろしい事なのか悟ったのである。――自分は自分のものだけでなく、彼女の存在があって初めて自分たらしめているものだと、深く深く再確認したのだ。だがそれも既に時遅し、真衣香は二度と戻って来ない。
無気力と言う“無”の世界の住人となった彼は、過去を懐かしむために今を生きる自分に成り果てた。そして前を向かない自分を嘲りながらも、それでも過去を懐かしむ事でしか生きる意味が無い日々を送り始めたのである。
『犀潟智也も死んだ』
クラスメイトや教師たち、そして両親や真衣香の両親までも、智也に同情しながらもそう評した。――それはまた、智也が乗り越える事を期待した声でもあったのだが、彼にそれが届くまでには、まだ幾ばくかの時間がかかる事となる。