気持ちの悪い笑み
「気持ちの悪い笑み、やめてくれない?」
初対面のとき、女の口から発せられた言葉であった。
最初、俺は自分の耳が不具合を起こしているのではないかと疑った。だってそうだろう?初対面の相手に対して、それもこれから世話になる人間を前に、最初に発せられた言葉が罵倒だなんて有りえない。
『……申し訳ありません。どうもよく聞こえなくて。もう一度お願いしても──』
「その気持ちの悪い笑みをやめろって言ってるの」
菫色の瞳が俺を突き刺す。
このとき俺は思ったんだ。ああ、こいつは面倒臭い奴だと。そして嘆いたんだ。こいつの世話役にならなきゃいけないのかって。
◆
「──ちょっとっ!聞いてるの!」
俺は隣に座る女に目を向ける。女は頬を膨らませながら、菫色の瞳で俺を睨んでいた。
俺と女は校舎の屋上で同じベンチに座り昼食をとっていた。
俺は祖父である玄一郎の命令で女の世話役を任されているため、基本的に女の側にいなければいけない。もちろん食事のときも例外ではない。全くもってふざけている。俺には自由はないのか。
「聞いてる聞いてる。弁当の中身をくれ、だろ」
全く女の言葉を聞いていなかった俺は適当なことを言って誤魔化す。
膝に置いていた弁当箱の中からミートボールを箸で取り出し、彼女の膝に置かれている弁当箱へと移した。
「違うよ!もうっ!全然話聞いてないじゃん!」
女はそんなことを言いながらミートボールを口の中へと運んだ。違うなら食べるなよ、なんてことは言ってはいけない。もしそんなことをしようものならば、女の口から機関銃のように言い訳と文句が飛んでくるだろう。
女とはまだ一週間ちょっとの付き合いであるが、何故か女の行動が手に取るように分かってしまう。全くもって腹立たしいが。
「明日の校外学習のことだよ! 私まだ班決まってないんだよー!」
校外学習。その単語を聞いて思わず顔を歪めてしまう。
世間的には学校行事の中で比較的当たりになるであろうそのイベントは自分にとっては苦痛でしかない。校外学習なんて槍でも降って中止になってしまえばいいのに。
「え、どうしたの。そんなに嫌な顔して。私が朝起こしに来たときと同じ顔してるじゃん」
「そうか、そんなに酷い顔をしているのか。なら相当だな」
「いやー、それほどでも」
「……」
いちいち反応するのも面倒になり、無言を貫く。
俺が女の行動に反応を示せば、絶対に女は付け上がる。そんなことになれば、只でさえ限界な俺の心は爆発してしまうだろう。そんな事態は絶対に阻止しなければならない。
「……ねぇ、何か反応してよ。じゃないと何だか……恥ずかしいじゃん」
「──驚いた。お前に恥ずかしいなんて感情が存在していたんだな」
全くもって意外だ。この女に恥ずかしいと思うだけの知能があったなんて。
そんな風に感心していると、背中に衝撃が飛んできた。女の顔を見てみるとほんのりと赤みがかっていた。背中への衝撃の正体は女の平手だったようだ。どうやら本当に恥ずかしかったらしい。そんなに恥ずかしいならツッコミ待ちのボケなどしなければいいのに。
「四門家の娘ともあろう人間が暴力行為に走るとは」
「うるさいなー!これ以上変なこと言ったら玄一郎さんに言いつけるよ!」
余りの恥辱に耐えかねた女は切り札を切ってきた。こうなってしまえば俺はもう黙るしかない。客人をいじめたなんて祖父に報告されれば俺はどうなるか分からない。全くもって不本意だが俺は謝罪の言葉を口にした。
「……悪かったよ。許してくれ」
何に驚いたのか女は目を丸くする。俺のことを馬鹿にしているのか?少し腹が立った俺は語気を強くして女に問いかけた
「なんだ、何かおかしいことでもあるのか?」
「あ、いやー。本当にこの言葉、君に効くんだね。玄一郎さんにはお礼言っておかないとなー」
「……あの糞ジジイ」
女の話したことは俺にとって最悪と言って過言ではないことだった。あの男が自分の名を出して脅すことを許可するというのは相当のことてある。あの野郎、俺の行動を縛るためには何でもするつもりか?何だか糞ジジイの薄ら笑いが見えた気がする。
そんな風にジジイに対して恨み節を唱えていると隣からクツクツと笑う声が聞こえてきた。
「なんだ、俺が苦しんでいる姿はそんなに面白いか」
「いやいや、そんなことないよ。ただ……仲が良いんだなと思って」
「頭でも沸いているのか?」
どうやらお嬢様は本当に頭がおかしいらしい。玄一郎の行為は明らかに俺に対する嫌がらせだ。断じて仲が良い訳じゃない。
俺は抗議するように女を睨み付けるが、動じる様子はない。それどころか微笑みを浮かながら俺のことを見つめていた。
なんとも言えない居心地の悪さが嫌だった俺は女に話の続きを催促した。
「……で、校外学習の話だったか?お前はどうしたいんだよ」
どうやら話を忘れていたようで、女は少しハッとした後考え込み始めた。
「うーん、一応クラスメイトに声をかけてみたんだけど、みんな班決まっちゃってるみたいでね」
「まあ、そうだろうな」
当然だ。そもそも校外学習の班決め自体は女がこの学校に転校してくる前に終わっている。従って、他の班に頼み込んで、班に入れてもらわなければいけないのだ。だがそれはあまりにも難しい。田舎の人間は警戒心が強い。悪く言えば非常に排他的なのだ。田舎に住む人間は全員よそ者に優しいなんて言うのは幻想なのである。
ましてやよそ者に加えて良家の令嬢という特性を持ち合わせた人間など、はっきり言ってクラスで浮くに決まっている。まあ、本人には絶対言わないが。
「だからさ、君の班に入れてくれない?」
つまり、女に残された選択肢はこれしかないというわけだ。俺は溜め息をつく。
「ごめんね。……嫌だったら別にいいよ!」
女は何を勘違いしたのか謝ってきた。この女は何も悪くないというのに。本当に気に入らない。何より、無理矢理笑顔を作っているのが気持ち悪い。初対面のときに自分が発した言葉を覚えていないのだろうか。
「いいよ。入りたきゃ入れ」
「え、本当!嘘じゃない?」
「何で嘘つかなきゃいけないんだよ。担任に伝えとけよ。黒上の班に入りますって」
「や、やったー!」
女は足をバタバタとさせて全身で喜びを表現していた。大袈裟な奴だ。こんなことでこんなに喜べるなら人生薔薇色だろう。
ふとスマホの画面を開く。12時50分。あと10分で次の授業が始まってしまう。
「おい、もうすぐ授業始まるぞ」
「はーい!」
女は素早い手つきで弁当箱を直し始める。
俺は何となくその様子を見つめる。……それにしても小さい弁当だ。弁当は四門家の方から送られてくるらしいが、ここまで小さな弁当箱だとは思わなかった。
じっと弁当を見つめていたのが気になったのか女は不思議そうに俺に問いかけた。
「どうしたの?私の弁当、何か変だった?」
「……いや、やけに小さい弁当箱だと思っただけだ。」
「分かってないなー。最近の女子高校生は少食なんだよ? 」
女はやれやれといった様子で首を横に振った。いちいち動作が鼻につく奴だ。
「よく言ったものだ。渡したミートボールを容易く口に運んだ女の言葉とは思え──」
ここまで言葉を口にして、自分の行動の過ちに気付く。しまった、さっきあれほど言ってはいけないと思っていたはずなのに…!
恐る恐る女の顔を確認する。菫色の瞳は俺のことを睨んでいて───
「───!」
どれくらい時間が経っただろうか。俺は言葉の弾丸を浴びながら時間を確認する。
13時25分。
再び女の方に視線を戻す。女は未だに誰も聞いていない言い訳と文句を垂れ流している。
「なんて言い訳しようか……」
俺は遅刻の言い訳を考えながら女の説教のような何かをひたすら聞き流していた。