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番外編3 (新作投稿しました)

後宮に入って三日目の夜、エミリア・オドリックは布団の中でぱちりと目を開けた。


眠れなかった。


慣れない寝台、慣れない天蓋、慣れない共同生活。なにより、周囲の妃候補生たちが放つぴりぴりとした空気が、彼女の安眠をことごとく妨害していた。


「お腹も空いたな……」


ぽつりと呟く。


夕食は出た。出たのだが、貴族令嬢向けに上品すぎて、量があまりにも少なかった。下町育ちのエミリアとしては、あの三口で消える肉料理を夕食と認めるにはまだ精神的準備が足りない。


パン屋の前で生まれ育ったわけでもないのに、彼女はやけにパンのある生活に親しんでいた。というより、安くて腹持ちがよく、弟妹も喜ぶ食べ物といえばまずパンだった。よって、空腹の夜に脳裏へ浮かぶのも当然パンである。


「厨房に行けば、パンのひとかけらくらいあるかもしれない」


不穏な決意を固め、そろそろと寝台を抜け出した。


廊下に出ると、夜の後宮は昼間とは別の顔を見せていた。燭台の明かりは弱く、白い壁は青く沈み、物音ひとつしない。昼間は女たちの視線と香水の匂いでむせ返るようだったが、夜は夜で妙に厳粛で、まるで大きな獣が眠っている腹の中に迷い込んだようだった。


そのとき。


「あ、あの……エミリアさん?」


蚊の鳴くような声がして、エミリアはびくりと肩を揺らした。


見れば、廊下の角から銀髪の少女アイシャが顔を出していた。寝巻き姿である。彼女はもじもじと指先を合わせている。


「アイシャさん。どうしたのですか」


「それが、その……少し、お腹が空いてしまって」


「奇遇ですね」


「あなたも?」


「ええ、とても」


二人はしばし見つめ合い、それから同時に頷いた。


これぞ友情の始まりであった。


「厨房、行きますか」


「はい……でも、怖い噂があるの」


「怖い噂?」


「真夜中の厨房には亡霊が出るって……白くてふわふわしたものを被って、ううう、って呻きながら歩くんですって」


「それはたぶん料理人です」


「そうかしら……」


「あるいは粉袋です」


エミリアは大真面目にそう言ったが、アイシャはまったく安心できない顔をした。


ともあれ二人は足音を忍ばせて厨房へ向かった。途中、見回りの女官に見つからぬよう柱の陰に隠れたり、曲がり角でぶつかりそうになって慌てて引き返したりしつつ、どうにか厨房の手前までたどり着く。


すると、そこから本当に妙な音が聞こえてきた。


ごと……ごとり……。


さらさら……。


「ひっ」


アイシャがエミリアの袖をつかんだ。


「ほ、本当にいる……」


「落ち着いてください。亡霊は普通、さらさら音を立てません」


「そういうものなの?」


「知りません」


「知らないの!?」


小声で騒ぎながら、二人は扉の隙間から中を覗いた。


厨房は薄暗かった。窓から差し込む月明かりが作業台を照らし、その前に、たしかに白くふわふわしたものを頭から被った人影が立っている。


人影は棚を漁り、なにやらぶつぶつ言っていた。


「ない……どこに隠した……わたくしの蜂蜜……」


「亡霊じゃなくて生者ですね」


エミリアは即座に断定した。


「しかも、ずいぶん俗っぽい用件です」


二人が思い切って扉を開けると、白い人影がぎゃっと悲鳴を上げた。


正体は亡霊ではなく、妃候補生のひとり――昼間からいかにも勝ち気そうな顔をしていた赤毛の令嬢、ベアトリスであった。頭から被っていた白いものは、料理用の布である。


「な、なによあなたたち! 見たわね!?」


「ええ、見ました」


「見事に見ました」


エミリアとアイシャが素直に頷くと、ベアトリスは真っ赤になった。


「わ、私は別に盗み食いなんてしてないわ。ただ、ここに置いておいた蜂蜜壺が消えていたから確認しに来ただけよ!」


「厨房に私物の蜂蜜壺を置いていたんですか」


「悪い!?」


「いえ、だいぶ図太いなと」


「あなた、初日から思っていたけれど、口が遠慮ないわね!?」


赤毛の令嬢が憤慨する一方、エミリアは作業台の上を見渡した。


たしかに蜂蜜壺らしきものはない。しかし、床には細い線のように、なにかべたついた跡が奥の戸棚まで続いていた。


「……妙ですね」


エミリアはしゃがみ込んだ。


「なにが?」


「蜂蜜の跡です」


「えっ」


「壺ごと消えたなら、普通はこんなに綺麗に筋はできません。運んだ途中で少しずつこぼれたのでしょう」


彼女は立ち上がり、戸棚へ歩いていく。取っ手のあたりにも、わずかに琥珀色の汚れがついていた。


開けると、中から壺がひとつ転がり出てきた。


「あっ、私の蜂蜜!」


ベアトリスが歓声を上げる。


「どうしてこんなところに?」


「たぶん昼間の料理人が急いで片付けたのでしょう。甘味料をまとめて仕舞う棚のようですし」


戸棚の中には砂糖壺や乾果も並んでいた。


アイシャが感心したように息をつく。


「また解決してしまったのね、エミリア……」


「いえ、今回は推理というほどのものでは」


「十分すごいわよ!」


だがベアトリスは蜂蜜壺を抱えたまま、ばつの悪そうな顔になった。


「その……さっきは叫んで悪かったわ。亡霊だと思って」


「お互いさまです。こちらも少し期待していましたし」


「亡霊に?」


「いえ、パンに」


その返答に、アイシャが噴き出した。


つられるようにベアトリスも笑う。昼間はあれほど棘のある顔をしていたのに、笑うと年相応の少女に見えた。


「……ねえ、せっかくだし、少しだけ食べていかない?」


そう言って彼女は棚から丸パンを取り出した。


「厨房の隅のパンは夜食用に置かれているの。女官には内緒だけれど、昔から妃候補生たちがこっそり食べてるって聞いたわ」


「なんと素晴らしい伝統」


「そういうところだけは妙に目を輝かせるのね、あなた」


三人は声を忍ばせながら、丸パンを分け合った。ベアトリスの蜂蜜を少し垂らし、温めてあった牛乳まで見つけたときには、もはや秘密の晩餐会である。


貴族令嬢だの妃候補だのという肩書きは、そのときばかりはどこかへ消えていた。


「……こうしていると、少しだけ安心するわ」


アイシャがぽつりと言った。


「昼間はみんな怖い顔をしていて、息が詰まりそうだったもの」


ベアトリスも頷く。


「私だって、本当はあんなに気を張りたくないわよ。けれど家の期待を背負っているし、負けたら終わりだもの」


エミリアはパンをちぎりながら答えた。


「ならば、せめて夜くらいは休戦にしましょう」


「休戦?」


「ええ。昼間は敵でも、夜食の席では戦わない。蜂蜜を独占しない限り」


「最後だけ妙に現実的ね……」


三人はまた笑った。


その笑い声は小さく、小さく、けれど確かに厨房を温めた。


そしてその頃、厨房の外の暗がりでは、見回りの途中だったひとりの青年が足を止めていた。


簡素な外衣をまとっていたが、その立ち姿には隠しようのない威がある。皇帝アルベルトその人であった。


隣に控えるエドガーが小声で言う。


「どうやら例の黒髪の娘は、亡霊退治までお出来になるようです」


「違うな」


アルベルトはくすりと笑った。


「あれは退治したのではない。腹を空かせた令嬢を二人、味方につけたんだ」


「では、やはり賢い」


「ああ。しかも本人は、それを大したことだと思っていない」


厨房の中では、エミリアが真顔でこう言っていた。


「ところで、この丸パン、あと三つほど持ち帰るのは流石にまずいでしょうか」


「やめなさい」


「発想が庶民なのよ」


即座にたしなめられ、彼女はしゅんと肩を落とす。


それを見たアルベルトは、声を殺して笑った。


「面白い娘だ」


「陛下、完全にお気に召しましたね」


「いや、まだだ」


そう言いながらも、その目は愉快そうだった。


「だが少なくとも、真夜中の厨房でパンをめぐって真顔になれる女は、そうそういない」


月は高く、後宮の夜はまだ長い。


そしてエミリア・オドリックの波乱に満ちた日々もまた、始まったばかりであった。

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