前編
「リーンベルク帝国騎士家のエミリア・オドリック、貴殿を我が帝国の108番目の妃候補として迎え入れることをここに宣言する!」
そのように言い放ったのはリーンベルク帝国後宮省帝都域採用官局長であった。
とても肺活量があり、声に張りもある。きっと式典などで映える声をしているのだろうが、残念ながら彼の職務は皇帝陛下の寵姫を探すものであり、式典に参加する機会は皆無であった。
しかし、それにしてもエミリアが妃候補になるなど夢にも思っていなかった。エミリアは最大の懸念を口にする。
「あのう、わたしの家は帝国貴族の末席の末席、騎士の位しかない名ばかり貴族なのですが、後宮に上がることは許されるのでしょうか?」
「それについては心配はない。後宮には騎士どころか平民の娘もいる」
安心せよ、がっはっは、と採用局長殿は豪語するが、ちっとも嬉しくない。
「身分はどうにかなるようですが、この黒髪黒目はいかがでしょうか? この国では黒髪黒目は不吉の象徴と言われています」
「その代わり賢い女の代名詞でもある。陛下は賢いお子をお望みだ。だから頭のよい娘を集めよとのことであった」
「……ああ、だからわたしに白羽の矢が立てられたのか」
納得せざるを得ない。
自分でいうのもなんであるが、エミリアは賢い。どれくらい賢いかといえばこの歳で大学入学を検討するほどに知識と教養で満ちあふれていた。ちなみにエミリアは御年16である。その賢さは帝都の下町に響き渡っており、下町の裕福な商人たちはこぞってエミリアを自分の子弟の家庭教師に雇った。エミリアは5つも家庭教師を掛け持ちし、家計を助け、進学費用を捻出していた。もう少しで大学進学費用が貯まりそうであったのに、パン屋にパンを買いに行った帰りに採用局長殿の目に止まってしまったのだ。
「馬車の中から偶然見かけたときは驚いた。貴殿はとても美しい。それに聡明な目をしていた」
採用局長は賞賛する。
「部下に調べさせれば貴殿は帝都の下町で黒髪小町と呼ばれているそうではないか。とても頭がよく、気立てもいいと聞く」
たしかにエミリアは下町でも有名な存在で、「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」と呼ばれていた。近所のクソガキ――もとい男子どもから「将来、嫁にしてやる」と言われたことは一度や二度ではないし、年長者からの評判もいい。我が家の嫁にするならばあのように賢い娘がいいと直接間接問わず何度も言われたものである。
「まさか、帝都の下町にこのような美姫がいるとは思わなかった。陛下の後宮に相応しい人材だ」
ちなみにこの国には後宮という制度がある。他の国にはない珍しい制度だ。この国では皇帝は何人もの妃を持つことが許されている。現皇帝は107の妃と妃候補を持っているそうだが、数代前の皇帝は3000もの寵姫を養っていたそうな。
まったくお盛んであるとしか言いようがないが、自分がその中のひとりとなると薄ら寒さしか感じない。エミリアの年頃の娘ならば後宮に入って皇帝の寵姫となり、皇帝の子を産んで国母となることを夢みる娘も多いだろうが、生憎とエミリアにはそんな乙女チックな願望は一切なかった。帝国大学に入学し、司書の資格を取って、慎ましく生活するのがエミリアの夢なのだ。
だからこの中年採用官に「貴殿は名誉ある後宮の一員に選ばれたのだぞ」と興奮気味に言われても全然嬉しくなかった。というかどうやって断ろうか、脳細胞を総動員させているのが現状であった。
エミリアは恐る恐る尋ねる。
「あのう、皇帝陛下の妃候補に選ばれるのは光栄なのですが、辞退することはできないのでしょうか?」
「なんと、辞退じゃと。まさか、貴殿、この話を断わる気か?」
明らかに機嫌が悪くなったので、「はい、そうです」とは言わずに探りを入れる。
「あはは、まさか。一応、可能性のひとつとして尋ねたまでです」
「以前、後宮入りを断わった帝国騎士の家はお取り潰しとなった。騎士の位を取り上げられ、帝都への立ち入りを禁止された」
「なんとまあ厳しい」
「帝室の名誉を著しく傷つける行為だからな――それで貴殿は後宮に入るのがいやなのか」
「まさか、そのようなことはありません。しかし、恥ずかしながら我が家はわたしの稼ぎで持っているのです。わたしが家庭教師をしたお金で生活をしているのでわたしが後宮に入ると家族が困ります」
「そんなことを心配しておったのか。おまえが後宮にいる間は下賜金が提供される。男爵家相当の収入が保証されるぞ」
「幼い弟と妹が寂しがります」
「同じ帝都に住まうのだ。頻繁には会えないだろうが、陛下に上奏をすれば年に数度は面会も叶おう」
「…………」
この中年の官吏にはどんな論法も通じないと分かったエミリアは、「ふう……」とため息を漏らすと、
「分かりました。不肖の身ですが、この身、陛下に捧げます」
棒読みの台詞を口にした。
「おお、決断してくれたか。それは有り難い」
採用局長は我がことのように喜ぶ。なんでも採用した娘が寵姫になればそれが彼の成績に繋がるのだそうな。採用局長は文字通り小躍りすると規定の日に後宮に参内するように告げた。
11月17日。
エミリアはその日を頭の中に刻み込み、採用事務所を去るが、平凡な人生を諦めたわけではなかった。
採用事務所から自宅までの間、思考を巡らせる。
まったく、まさか自分が後宮に入れられるなど夢にも思っていなかったが、選ばれてしまったものは仕方ない。もはや逃げ出すという選択肢は用意されていなかった。もしもここでエミリアが逃げ出せば家族が酷い目に遭わされる。それにこの大陸は端から端までリーンベルク帝国のもので逃げる場所などなかった。
「他の大陸に行くという手もあるが、わたしの夢はあくまで帝国図書館の司書になることだからな」
家族に迷惑を掛けず、帝国図書館の司書になる道も諦めない方法、エミリアは道中、必死に考えるが、帝都の繁華街に差し掛かった頃、名案が浮かぶ。
「そうだ。陛下の意に沿わぬ女になって後宮を追い出されればいいのだ」
現皇帝は黒髪の賢い女を求めていると言った。ならばエミリアが黒髪の脳足りんになれば必然と追い出されるのではないか、そう思った。
「要は馬鹿を演じればいいのだな。あほうになればいいのだ」
そのような結論に達したエミリアは早速、馬鹿になりきることにした。
表情を緩め、あほうっぽい顔を作るが、馬鹿っぽく見えるだろうか、道行く少年に尋ねると彼はぴゅいっと逃げてしまった。上手く演じられているようだ。
エミリアは少年の背中を見ると不敵につぶやく。
「ふふふ、能ある令嬢は爪を隠す」
それがエミリアの今後の基本方針であった。
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