始動
「あ……」
稔が着信を見て声を出すと、庸介も反応した。
何?という顔をするので、稔は画面を見ながら応える。
「新伍さんから です。靴工房の件」
「あ ああ。頼むって?」
「はい」 返信を打つ。日時の打ち合わせをしなければならない。
稔は原則いつでも可だ。靴工房の知人、林田勉も定休日以外休みはない。
新伍の指定通りになるだろう。
「任せてしまっていい?」
「僕が言い出したことですし」
庸介は何となく指を組み「まあ 助かったよ」と言った。
「はい?」
「ちょっとまだ 混乱していて。なんて言うか なんだ」
「妹さんの結婚と その相手の女装衣装依頼。公私とも整理が要りますね」
「うん」 指を回しながら頷く。「女装するのに どうして結婚だ?」
にわか雨の最初の一滴が掛かったように瞬きし「ああ」と稔は言った。
「混同されがちですが 女装趣味と性的嗜好は別ですよ?」
「え」
「女装する あるいは したいという願望の理由はそれぞれです。
女装するという行為によって すべて女性化するわけじゃありません。
新伍さんの場合 恋愛対象は女性で ご自分が女装したいというだけで
普段は男装なさっているようですし もしかしたら女装も今回が初めてかも。
趣味としてならば 伴侶である真菜穂さんが容認しているなら構わないのでは?
おにいさんとはいえ拘る必要はないと思います。
庸介さんが問題とすべきは仕立屋としての見地なんですが
……体形的には無理はないです。顔立ちも地味ながら化粧映えしそう。
仕草も上品で 動作も大きくない。物静かな語り口で声も柔らかい。
お店で扱った品だと言うカップの色合いとか 素敵でした。センスもいい。
相手の体形に合わせ 難点を補うという点で高齢者向けの仕事と同じ。
でも ファッションの幅はもっと広い。
これまでにない境地で 楽しめそうな予感がします。どうですか?」
ふうんと息を鼻から抜き、庸介は下唇を突き出して天井を見上げた。
その目が泳ぎ始めるのを見て、稔は入ったかなと思う。
記憶の中の新伍に筆を入れている。
あとは待つだけだった。稔は自分の作業に戻った。
伝票の整理をしていると、新伍から希望の日時が届いた。
林田に送って了解を得たところで、庸介が言った。
「店に 行かなきゃな」
手を止めて庸介を見る。
「ええ」
庸介はきっと、新伍の依頼に夢中になる。
現在の高齢者を対象とした仕事がつまらないとまでは言わないが、
売上が安定した今となっては、冒険的要素はない。
それに対して、男性をいかに美しく装わせるかという課題は、
制作者をわくわくさせるに違いない。
「いい素材かもなあ」 新伍が独り言ちた。
それから表情を引き締め稔に身を乗り出す。「俺さ 中高男子校だったんだ」
知ってます。稔は呟く。
「中等部で学園祭にさ 劇でだったか女装した奴がいてさ。
いや それは別段珍しくもない。俺の周囲にもちらほらいたし。
気持ち悪いのもあったけど 中にはこう なんか理想の女性像っての?
ほら 少年をモデルに描いた婦人画みたいな 美人とは違う 佳人?とも違う。
なんて言ったらいいのかな。でも難しいな。難しいけど 難しいから」
「腕が鳴りますか」
庸介は笑った。
義妹の電撃結婚はそれほどの衝撃でもなかったようだ。
義弟の女装趣味にもさほどの抵抗はなかったようだ。
両方を同時に唐突に突き付けられたて動揺しただけのようである。
「……が先か」
「え?」
「靴工房に行ってから 店に行くのがいいかな? 逆?」
「先ほど連絡がありまして。次の定休日に靴を見に行くことになりました」
「ということは ええと」
「ええ。今度の火曜日 明後日ということになります。
だから庸介さんの 新伍さんのお店訪問はその後ですね。
いずれにしても工房での感触を見てからの方がいいんじゃないでしょうか。
新伍さんも その方がイメージが固まるような気がします」
「そう そうだな。その間に他の仕事 頑張って進めておこう」
稔は頷いた。それから一呼吸おいて、言った。
「それで明日の月曜日なんですが」
「おう」
「午後 抜けてもいいですか。林田 その工房の知人が林田というんですが
暫く会っていないので 来店前に一度 顔を合わせておこうかと。
先方もそれを望んでいるようなので 応じておきたいです」
庸介は首を大きく振りながら「ここんとこ俺に付き合ってろくに休んでないだろ。
午後と言わず一日でもいいぞ。ゆっくりして来いや」と言った。
ゆっくり過ごしたい相手でもないと内心で思う。
それくらいなら庸介の傍にいたい。本音を呑み込んで礼を言う。
片付けなければならない用件のひとつふたつはある。
午前中は親の家に顔を出し、その後雑用を済ませて林田と会おう。
面倒なことは一度に終わらせる。そして自分も新伍の依頼に集中しよう……