新伍と真菜穂
「お疲れさま」
ふたりを見送った後、椅子に沈み込んでいる新伍に真菜穂は言った。
新伍は慌てて身体を立て「違うよ」と返した。
「力が抜けただけ」
「緊張した?」 真菜穂はいたずらっぽく、笑う。揶揄を消して。
「うん」
片付けを始める真菜穂を、新伍は柔らかく止めた。「僕が」
「これくらい」
「休んでいて。真菜穂さんこそ疲れたでしょう」
「まさか」 そしてそのまま手を動かし続けた。
新伍はリビングを出てキッチンに向かう。
一階部分はLDKではなく、独立したリビングと、
居間の機能も備えたDKという構成になっている。あとは和室と浴室。
二階には主寝室、寝室、客間。シャワー室。収納は各所に。
キッチンに入って新伍は夕食の支度に取り掛かった。
既に生活は始まっており、分担もなんとなく出来上がっていた。
土日休みの真菜穂に対して、新伍は平日の定休日と半日休が二日。
仕事がない方が主体となって家事を回す。
新伍は家事が嫌いではない。特にこの家でのそれは楽しくさえ、ある。
目新しさもあるが、機能的な箇所と遊びの部分がほどよく混じり合い、
家事もまた、効率重視で進めるものと趣味的に凝る場面とがあって、
飽きることも疲れることもない。
注文住宅の設計に真菜穂という女性の目と手が入っていることが原因だろう。
「任せてもいい?」 トレイを持って入ってきた真菜穂が言った。
「勿論。食器もそこに置いておいて」
「ありがとう」 真菜穂は言ったが、キッチンを出て行こうとはせず、
食卓椅子を引き出して腰を下ろした。
新伍は肩越しに真菜穂を窺うと「休んでいればいいのに」と繰り返した。
「ここがいいの」 背もたれに掛けた手に顎を乗せる。「新伍 見てる」
「何も面白くない」
「背中 きれいよ。知らないでしょ」
新伍は肩で笑った。
「どんな服が出来るかしら。どんな新伍になるかしら」
「真菜穂さんも頼んだらよかったのに」
「何を 誰に」
「おにいさんに服を」
真菜穂が驚いたように背を伸ばすと、新伍は身体ごと振り向いた。
「マタニティドレス。おにいさんにまだ言っていないでしょう」
肩を竦め、また顎を手の甲に乗せた。
「どうして?」 新伍が問う。
「それこそ どうして言わなきゃいけないの。生まれるのは先よ。
庸介に頼まなきゃいけないようなことは何もないわ。目立って来てからで充分」
「喜んでくれると思うのに」
「心配もするでしょ」
「心配 かけたくない?」
真菜穂は瞬きする。新伍の言葉の真意を探り、唇をゆるめた。
「させても仕方ない。言ったでしょ 庸介に出来ることは何もない」
新伍は再び真菜穂に背を向け、作業に戻る。
「それでも待つ愉しみというものはあると思うけど」
「あるの? 新伍も?」
「真菜穂さんには悪いけど 僕には愉しみしかない。負担はないから」
悪阻に始まる、身体的負担は全て女性のものだと新伍は言いたかったのだが、
真菜穂は黙っていた。舌で唇を舐め、その場所を噛み、それから口を開く。
「後悔 ……してない? 負担がないなんて そんなわけ ない」
新伍の手が止まる。一瞬だけ。すぐにまた動き始める。
水音に紛れさせるように、言った。
「後悔しているとしたら 真菜穂さんの方じゃない」
「そんなわけ……!」
「だったら」 新伍は少し乱暴に野菜の水を切った。「やめよう」
手を拭いて、静かに言った。
「僕は後悔なんてしていない。これからもしない。真菜穂さんもそうなら
もうそんなこと 言わない。僕は絶対! 後悔しない。今だって感謝で一杯だ」
「新伍」
振り返る。
「考えれば 分かる。僕は望みもしなかったものを いくつも手に入れたんだよ。
手に入れて行くんだよ。自分で この幸運が信じられないくらい幸せだ。
分からないかな? 今の 感謝と幸福感があれば 一生後悔なんてしない」
「感謝?」
「真菜穂さんに と言っても真菜穂さんは聞かないだろうから 人生に。運命に。
あの日あの時 真菜穂さんと出逢わなければ 何も始まらなかった」
「あの日 新伍がショーウインドウにオルゴールを飾らなければ」
「前日 オルゴールが届いていなければ」
そして新伍は知っている。あの日の真菜穂の状況が違っていたら、
真菜穂は彼の店の前を通らなかっただろうし、オルゴールなど視界に入らない。
店内に入ったとしても新伍と会話しなかっただろうし、
名刺を渡したりは決してしない。
「僕の負担って何? 真菜穂さんが何を挙げても 僕は否定するよ」
真菜穂は根負けしたように笑った。
「そうね まずは 今日の夕食づくり。何を作って下さるの?」
同じように笑いながら新伍は言った。
「緑黄色をスープで摂ろうね。メインは肉と魚どっちがいいだろう?
サラダにキーウィと八朔を入れると 果糖の摂り過ぎになるかなあ」
料理は好きだ。人のためとなればもっと好きだ。しかも相手は「ひとり」じゃない。
負担になるわけが、ない。
真菜穂は真剣な目で「そうねえ」と言った。