彷徨う
突然、我に返る。
頭の一点が急に醒め、全体にそれが広がった。
栓が抜けた樽のように、全身から力が抜けていく。
庸介の服を掴んでいた指がほどけ、腕が落ちた。
「…稔?」 怪奇映画を指の間から覗く視線で、庸介が見上げてきた。
稔は軽く首を振りながら庸介から離れた。
「稔?」
「じゃ…お言葉に甘えて」
「え?」
「時間を頂いて 眼鏡…見てきます」
「稔?」
「戻ったら 在庫整理と発送業務 とりかかります。
僕がいない方が 庸介さんも集中できるますよね。
もう邪魔はしませんので どうぞ」
「ま… 稔 待てって!」
伸びて来た手から逃れるように稔は身を翻した。
椅子にかかった上着を手に部屋を出る。
声が追いかけてきたが振り返らない。
外に出ても息が切れるまで足を止めなかった。
限界を感じて立ち止まり、壁に手をついた。
肩で呼吸を繰り返して周囲を見回す余裕が出た。
商店街の、眼鏡店とは別の方に来たことに気づく。
方角を定める余裕もなかったのだが、眼鏡を買うつもりもなかったのだろう。
肩を回して背中を壁に預けた。
建物の間に広がる空を見る。途端、行き場のない虚しさに襲われる。
庸介に抱いた怒りや衝動が抜け落ちた空洞に、冷たい空気が満ちていく。
それでいながら、腰に漂う熱は消えない。
どうしよう。どうしたら?
通り過ぎた人影が振り返るのに気づき、稔は身体を伸ばす。
真っすぐに立って息をつく。
内に残る熾火を持て余しながら、歩き始める。
風に吹かれたぐらいで消えるわけもない。
どうしよう。どうしたらいい。どうしたいのだ。
実現や可能性を考えるな。どうしたいのだ。
庸介が欲しい。あの衝動のまま突き進みたい。
庸介が欲しい。庸介を失いたくはない。
求めるものは同じだが、とるべき行動は違う。
すでに失ってしまった可能性がないわけではないが、
稔を引き留めた庸介の言動を思うと、
今後の稔の在り方次第だと考えられる。
どうすべきだ?
脳裏を、林田の顔が過る。
瞼の奥で瞬きをする。林田がくっきりと姿を現した。
そう…そういう方法もある。
これまで無自覚に彼を、『彼ら』を利用してきたではないか?
生理的な発散。不可欠ではなかったそれが、今不可欠になったのだ。
稔は上着に手を入れ携帯を探った。
その指先が振動に触れた。慌てて引っ張り出し、画面を見る。
息を呑んだ。
林田、その人だった。
「…はい?」
「久しぶり」 幾分硬い口調で林田が言った。
確かに日は開いているが、そんなことを意識する男ではなかった。
背景を探ろうとし、そんな余裕などないことに気づく。
「そう…かな そうか」 なんとか朗らかな声にしようと努める。
「今 いい? 急ぎじゃないんだが」
「いいよ」
「さっきまで新伍さんが来ててさ。いや よく来てくれるんだ。
真菜穂さんと来た話はしたよな? あれからも何度か…
今回も 新しいお客さんを連れてきてくれた」
ああ とも そう ともつかぬ声を洩らす。
「前にも紹介してくれた人も いい顧客になった。
いずれも男性だよ 女装までいかなくても 中性的な雰囲気の
既製品には望めない味の靴を という希望でさ 面白い仕事だった。
これからの市場だとも思うよ。性差がなくなってきている。
って話はさておき 新伍さんのおかげで商売が広がった。
直接的にも間接的にもね。彼を紹介してくれたのは稔だから
報告とお礼をしておこうかな と思ってな ってのはまあ 口実だけど」
「順調ならなによりだよ。…それで?」 掠れる声を、唾を飲んで潤す。
「新伍さんから聞いた」
「…何を?」
「眼鏡を外したってな」
「…ああ」
「すごく変わったって言ってた。そうだろうと思う。
稔が眼鏡を外す気になったんだからな。相当な変化だろう」
「眼鏡をしなくなったのは たまたま壊れただけだ。それだけだ」
「必要なら買う。どうせ伊達だ 簡単だ。買わなかったのは
眼鏡を必要と思わなくなったからだ。違うか?」
そのとおりだ。返す言葉はない。
「新伍さんも言ってた。別人のようだって。
端正なことは眼鏡越しでも分かっていた。でも容姿じゃないと。
印象に影響を及ぼしているのは 内面的なことだと。
俺…実際に会わないと 確かなことは言えないけど…けど
俺…今会う自信はない」
稔は携帯を持ち替えた。浅く息を吸い、次の言葉を待つ。
「ちょっと寂しい反面 意外と嬉しいんだ 稔。だけど」
「……」
「稔」
「なんだ?」
「…稔」 林田は次の言葉を言い出せないでいる。
躊躇いの息の中に感じた。稔には分かった。
彼が言い淀んでいる言葉が何であるか。
或いはそれは、稔を蹂躙してきた男たちを代表する声かも知れない。
「分かった」 稔は言った。「分かったよ」
「稔… 俺 俺な」
「分かったから」
通信が切れたかと思うほどの沈黙が流れた。
林田の息を吸う音がした。
「とにかく ま ひとこと言っておきたかっただけ。ごめん 急に」
「いや …全然」
互いにぎこちなく挨拶を交わして通話は終わった。




