意地悪
クロッキー帳を手に、庸介が何度目かの嘆息をついた。
「のらないのなら 休んだらどうですか」 稔は言った。
時計に目をやり、なんならお茶にしてもいいなと思う。
だが庸介は首を振った。「のらないんじゃない。むしろ逆だ。
気持ちがのりすぎて手が動かない。すごくもどかしい」
「いずれにしても気分転換した方がいいのでは」
「気持ちを切りたくないんだ」
それでも鉛筆を置いて稔を見た。
久しぶりに受ける、真っすぐな視線。稔も正面に受け止める。
「新伍さん ですか」
ネット販売を通し、直接注文服を依頼してきた顧客や、
新伍から紹介された新規もいる。だがここまで拘る相手は新伍しかいまい。
「やっぱさ… 欲が出るじゃない。もっと上をって気になる。
あんなんを見せつけられると 限界のその先を目指したくなる」
これまでにない活力を、庸介から感じる。
歓迎する気も応援する気持ちもあるが、嫉妬もある。
庸介をそうさせたのは新伍だ。稔には為しえなかった。
見返す視線に、思わず力が籠った。
庸介は、はっとしたように表情を変え、目を逸らした。
それを受けて稔は腰を上げた。
「邪魔してすいません。どうぞ続きをなさってください」
「稔…っ」
「発送準備をしてきます。それから在庫整理も」
「稔!」
「はい?」
庸介は少し苛ついた様子で机の端を掌で叩いた。
その横に立てということだ。稔は肩を竦めた後、従った。
庸介を見下ろし「何か」と問う。
「眼鏡を」
「はい?」
「だから …弁償するから 作ってきてくれないか」
「不要だと 言ったはずですが」
机に置いたままの手の、人差し指を曲げて庸介は音を鳴らす。
「庸介さんに何か不都合があるんですか?
僕が何かミスをしましたか? 眼鏡がないことで?」
「いや」 庸介は口ごもる。「そういうわけじゃ…」
稔は上体を倒し、
顔を庸介に近づけて「じゃ どういうわけで?」と言った。
嫉妬が焦燥めいた苛立ちに転じ、怒りが攻撃性を帯びる。
熱が、胃から喉を上がっていった。頬が紅潮する。
荒くなりそうな息を抑えるが、呼気の温度までは下げられない。
庸介は身体を固くして一点を見据えていた。
「庸介さん? 僕の目に 何か支障ありそうに見えますか?」
「いや…」
「近くて見てみたらどうですか」
「素人が どう見たって分かるわけ… 当人に分からないのに…」
「じゃ どうして眼鏡が要ると? それは何の …誰のため?」
庸介は一度唇を一文字に絞り、意を決したように稔を見た。
「なんでそんな意地悪なんだ!」
子どものような、剥き出しの感情と声、だった。
愛しさが込み上げる。
それでいて、「意地悪」な気持ちは募るばかりだ。
「何が? 何が 意地悪 ですか」
庸介は絞り出すように「勘弁」と言った。
「は?」
「何を怒ってるか知らないけど 勘弁してくれ。
気に障ったことがあるなら謝るよ。直せるとこなら 直す。
努力…する。できることならなんでも」
「なんでも…?」 稔は更に、顔を近づけ、囁くように訊いた。
効果を狙ってのことではなく、喉が詰まって声が出なかったのだ。
しかしどう受け取ったのか庸介は更に身体を固くした。
稔は生唾を呑み込む。
これは賭けだ。分かっている。負ければすべてを失う。
分かっていて誘惑を退けることはできなかった。
稔は最後の距離を詰めた。顔を傾げ、すくい上げるように唇に触れた。
庸介の肩が小さく痙攣した。微かに顎を引くが、そこで止まった。
稔は触れただけで、身を引いた。唇を外し、顔を上体を離した。
沈黙が、落ちて来た。ふたりを押し包み窒息させる。
稔が限界を感じた時、庸介の口が動いた。
「…家族」
「…え?」
「これで 家族になれる…のか」
安堵なのか落胆なのか分からない感情が、稔に溢れた。
拒絶ではない。嫌悪ではない。けれど。
これは生殺しだ。稔は思う。怒りが込み上げてきた。
感情の起伏に覚える疲弊が拍車をかけ、
どうしようもなく庸介を傷つけたくなる。
「こんなことで?」 稔は侮蔑を込めて言い放った。「たかが?」
「こんな…こと じゃ どんな」
「今のキスは 何?」
「キス…」
庸介はそこで初めて、行為の意味に気づいたように指で唇に触れた。
その仕草は稔の最後の糸を切った。
「新伍さんの気持ちを知りたいのなら ちょうどいい。
あなたも自分の性別を超越してみればいいんだ」
「え …え?」
稔は庸介の胸倉をつかむと上体を浮かせ、乱暴に唇を重ねた。
先刻の窺うような接触ではない。
荒々しく侵入し、舌を貪った。かつて自分が受けた中で一番に
圧倒的な優位を見せつけるやり方で、庸介を攻略した。
壊したい。衝動を抑えられなかった。
あんなに大切に思っていた人なのに。
その気持ちに変わりはない筈、なのに。
可憐な花を摘みたくなるような、新雪の上に足跡を残したくなるような。
庸介の純粋さを踏み躙りたい、と同時に自分たちの清廉な関係を壊したい。
その衝動だけで、稔は動いていた。




