本音
それは彼の問題であって自分のではない。
秀幸の言う「彼」の名を聞く気にもなれなかった。
「それを僕に話しても仕方ないんじゃない?」
フォークを置いて口を拭った。
「旨かった。試すだけの価値はあった」
「それはなによりです」 秀幸もほぼ同時に食べ終わっていた。
満足げに頷いて言った。「僕も試せてよかった。評判通りでした パイは」
「は?」
稔を見る。「僕はあなたに何も感じませんでした」
理解をするのに数瞬を要した。稔は不快げに眉を寄せたが、黙っている。
「理由はなんだと思います?」
「そんなこと僕に分かるはずがない」
想定内の答えだったらしい。独り言のように続ける。
「僕の側にあるのか あなたの方にあるのか。両方か」
一度言葉を切り、喉を潤した後、身を乗り出した。
「僕はねえ 今 新伍さんのことで頭が一杯なんですよ。
だから どんな餌を前に出されても食指が動かない
これがひとつ。すいません 餌だなんて」
「今更。ではそういうことなんだろうね。僕の方に心当たりはない」
「庸介さんですよ?」
「は?」
「稔さんにも好きな人がいて それが防壁となっている可能性。
その相手が庸介さんだと考えるわけです。そのうえで或いは」
「或いは?」
そこで言い淀む。「言っていいのかなあ…」
「それこそ まただ。今更」
「庸介さんへの感情の形 というか 発露の形が変化した」
「意味が分からない」
「分からないうちは分からないままでいいんです。
僕は決定的なことは口にしたくない。僕と話しづらいのはそのせい。
核心を避けているうちに 迷路に入り込んでいく。
自分でも困っているんだけれど 仕方ない。
子どもの頃からの習慣なんだろうなあ…
本音が分かっていても口に出せない。出しちゃいけないと本能が言う。
だから僕はそれを隠そうとする。でもね 僕はまだ軽症ですよ。
僕は少なくとも 自分の本音を自覚している。
でも たとえば あなたは自分の本音を 認識すらしていない。
幼少期から口にできないできた。傷つきたくなくて
自覚することすら放棄してしまった」
「つまり 僕は本音では庸介さんが好きだと」
「違いますか」
「最初に言った通りだよ」
まあいいや と秀幸は口の中で言った後、
両手をテーブルの端に当て体を押すように突っ張らせて言った。
「問題の根源はすべてそこにある気がしないでもないんだけど…
関係者全員が なにか抱えている。隠している」
「関係者?」
秀幸は肘を弛め、今度は首を回した。
「あなたと 庸介さんと真菜穂さん 新伍さん。
誰も本当に欲しいものを知らない。知ろうとしない。
禁忌なのか 自分を暗示にかけてまで封印しようとしている。
あの家…真菜穂さんたちの家のことだけど あそこの居心地がいいのは
浮世離れしているからだ。住んでいる人たちが現実と乖離している」
初音も と言い足して、くすりと笑った。
「彼らが己れの本心と向き合っていないからじゃないかな」
それならば 自分は違う と稔は思った。
庸介が好きだという自覚はある。
一緒に居たい気持ちも、庸介が同様である以上、押し殺す気もない。
「自分は違う って思ってるでしょう」
秀幸がくすくすと、言った。
「あなたと庸介さんの生活も 似たようなものかも知れないのに」
細い矢が当たったように、心臓に痛みを覚える。
秀幸は追い打ちをかけた。「あなたは自分を知らない」
「君に見せていないだけだよ 僕はちゃんと自分を把握している」
「あなたが言うのなら そういうことにしてもいいけれど でも。
…そんな人間いるかしら」
秀幸は呟きを流し込むようにカップを空にした。
稔もまたカップを持ち上げ、飲み干す。
「この会合の 落ち処はどこにあるのかな。僕は約束通り来た」
「たとえ来なくても 僕は他言はしませんでしたよ。これからも決して。
僕は ただ確かめたかっただけです。自分の気持ちと考え方と
それとあなたに伝えたかったのかも知れない。あなたと話したかった。
そして 話せてよかった。そう思いませんか」
「分からない」 稔は言った。本心から出た言葉だった。
それは伝わったのだろう。秀幸は頷くと、立ちながら伝票を取った。
自分がと手が動いたが、思いとどまる。
多少年長であろうとも、同じ学生、立場にたいした差はない。
そして呼び出したのは彼だ。
レジに向かう秀幸の背中を数秒眺めた後、席を離れた。
店を出たところで「ごちそうさま」と言った。「旨かった」
「僕も試せてよかったです」
言った後で「メニューをですよ」と付け足した。
互いに相手の向かう先を読む空気が流れた。
秀幸は「寄るところがあります」と指さし、
そちらに足を向けた。
稔は反対側に踏み出し、ふと立ち止まる。
今になって訊きたいことが浮かぶ。
しかし「今」でよかったと思う。
そのまま歩き出した。答えは自分で見つけるしか、ないのだ。




