靴
「靴が」 新伍は言った。
「はい?」
「靴がありません」
稔はその意味を考える。
「家の中だけで着るつもりだったから考えてないのよ。
店で着るとなると裸足というわけにいかないでしょう」
真菜穂に言われて理解した。そうだ。靴が要る。
そしてそこに言及するということは、新伍にそのつもりがあるということだ。
「靴。いいですね。それこそ注文しないと 思い通りのものは手に入りません。
知人が靴工房にいます。よかったら紹介しましょう」
稔は工房の名前を新伍に告げた。
「靴から攻めるという方法もありますね。ね 庸介さん」
「えっ」
「まず 靴を作りましょうよ。その靴に合う服を考えましょう。
靴のラフを見て 服のデザインを起こせばいい。
新伍さんのお店も一度伺わないと! 新伍さんをもっと知る必要がある。
そう ブロカント。新伍さんのブロカントへの拘りを理解しなければいけない」
「新伍が淹れるお茶も飲んだ方がいいわ」 真菜穂が言う。「店で」
「そういうことです。採寸は終わりましたね?」
「うん」 手にしたまま忘れていたメジャーを稔に差し出した。
真菜穂が部屋から出て行った。
庸介は新伍に座るように言う。そして自分もソファに戻った。
それから膝の上で両手の指を組み、話題を探している。
突然、庸介は新伍が客である前に義弟であることに気づいた顔をした。
一緒に運ばれてきたサンドイッチとパフェを前にしたような。
その戸惑いは新伍にも伝染したようだった。落ち着きなく視線を動かす。
「名刺」 庸介はポケットを叩いたが、何も入っていない。
入れていないのだから当然だ。稔も所持していない。
新伍は両掌を前に出し不要であることを示す。
「挨拶が遅れてしまって 申し訳ないと思っています」
「どうせ まなが必要ないとか言ったんだろう」
図星だ。「それは言い訳にはなりません」
「入籍したって 式は?」
「真菜穂さんは挙げたくないそうです」
「君 ……新伍くんはそれでいい? 親御さんも?」
「兄たちが挙げてますから。僕はみそっかすの末っ子なので」
「末っ子」 庸介は稔を見た。「稔も だよね」
「下に妹がいますよ 僕は」 指で眼鏡を押し上げながら言った。
兄弟の話などしただろうか。あまり覚えていない。最初の頃にしたかも知れない。
庸介は一瞬間をおいて、顔を新伍の方に戻す。
「当人たちがいいのなら 俺がとやかく言う問題じゃないよな。
ま 俺も面倒なのは嫌いだし。花嫁の兄って柄でもない」
そう軽く流して話題を変えた。
「あ じゃ 家の前の車は新伍くんの?」
「ええ 通勤に使います。荷物もあったりするから」
「可愛いね」
「どうも」
「ああいうのが好きなんだ」
「好き……というより 憧れです。自分には全く無縁なので」
稔は横目で庸介を窺う。なにげなく会話しながら探っているのだろうか。
扉が開く。
真菜穂がトレイを手に入ってきた。
新伍が腰を浮かすのを、真菜穂が目で制する。
テーブルの端にトレイを置き、カップをそれぞれの前に置いていく。
配り終えると、真菜穂は掌で勧めた。稔はソーサーを持ち上げた。
鼻先を湯気が掠める。香りに誘われ口をつけようとし、手を止める。
指に持ったカップを目の高さに上げた。
「新伍の店の。私はよく分からないんだけどね」
「僕も分かりませんが 好きです」 稔は一口含む。「うん お茶も美味しい」
庸介は砂糖を入れて、理科の実験のように丁寧に掻き混ぜている。
更にクリームを垂らし、今度は掻き混ぜずにカップを持った。
「教えてもらった靴工房 ね」
真菜穂が自分の携帯を新伍に渡しながら、稔に言った。
「人気ね。一年待ちとあった。評判がいいのは安心だけれど 一年は待てない」
でしょうと新伍を見る。新伍は画面から目を上げて、ゆっくり瞬きした。
稔は共感を示すように頷き返して言った。
「友人は見習いです。といっても独立はもう決まってます。
独立前の最後の仕事として頼もうと思ってます。道具は工房のものが使えるし
親方の指導を受けることも出来ます。いい仕事をする奴ですよ」
「あら」
「勿論 提案に過ぎません。よく考えて……相談して 決めてください。
僕の方に連絡をくだされば 仲介します。一応知人の方にも打診はしておきますが」
真菜穂は新伍に言った。「私は好きよ」
「どうも」 稔は軽く頭を下げ「ご連絡 お待ちしてます」とだけ言った。
新伍は携帯を真菜穂に返し、お茶を一口含み、稔を見た。
「その時は 同行して頂けるのですか」
「僕? ええ はい」
あまりにも真っ直ぐに見つめられ、稔は動揺する。
防壁となる筈の眼鏡が、役に立たない気がした。
ふと、今日の稔の同伴も新伍が望んだことだったのではないかと思う。
カップを掌で包んでみる。ブロカント。掌に馴染む曲線に心を落ち着かせる。