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二輪挿し  作者: 星鼠
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『知る』

「眼鏡さあ とらない?」 突然、庸介が言った。

納品書に目を通していた稔は、一瞬何のことか分からない。

「伊達 なんだろ それ」

「だから乱視が」

「なくてもいいんだろ それ」

「もう体の一部なんです」

「いいじゃない」と手を伸ばしてくるのを、のけ反って避ける。

「なんなんですか いきなり」

庸介は手を引っ込め「素顔で話したいから」と言った。

「素顔って…」

庸介が言わんとしていることは分かっていた。

ガラス越しの会話が嫌なのだ。

稔の眼鏡は容姿を隠すためと同時に、

相手との間に障壁を設けるためのものだった。

家族になりたいと思う庸介には、それがもどかしいのだろう。

「家族になりたい…家族のような存在になりたい って

思ってるのは俺だけか? けど 稔 言ったよな。

居ついてもいいのか みたいなこと言ったよな。

それは居つきたいってことだろ。ずっとここにいたいってことだろ」

もう相思相愛だよな」

「え」 

そういう意味で使っていないと分かっていて、動揺する。

「俺 稔のこと 知りたい。本当の稔を知りたい」

庸介の真摯な目が迫ってくる。稔は混乱する。焦る。

思わず口走っていた。

「きゅ…旧約聖書で」

「へ?」 唐突に聞きつけない単語を言われ、庸介は間抜けた顔をした。

圧が消える。稔の緊張が解けた。背中から力が抜ける。

「きゅう…やく?」

「いえ。何か格言があったような気がしたけど 勘違いでした。

話の腰を折ってすいません。眼鏡 ですね。必須でない時は 考えます。

でも 難しいかと… なかなか習慣にできない気がします」

「まあ 眼鏡がどうこうってわけでもないんだろうけど」

庸介は言葉を濁す。自分で言いたいことがまとめきれないのだろう。

もともと弁が立つ男ではない。

距離を縮めたいというのは分かる。稔にそのつもりがないわけでもない。

ただ自分の願望を把握し切れないでいる。

彼と一緒にいたい。それだけならば、何も迷うことはないのに。

旧約聖書では。

言いかけた言葉を反芻する。

『知る』ということは『性的関係をもつ』ということなんですよ。

アダムとイブはエデンを出て、そこで互いを『知った』。

そしてカインとアベルが生まれた。

ソドムの街で市民が天からの使いの客人を『知りたい』と迫った。

そして滅ばされた。

つまり そういうことなんですよ? 庸介さん 分かってます?

稔は自嘲する。何を言おうとしたんだ?

「なんだよ」 庸介が言った。

「え?」

「何 笑ってるの 俺? 俺が言ったこと?」

「違います。思い出し笑いです ごめんなさい」

ふうんと拗ねたように口を尖らせ仕事に戻る庸介を眺め、

稔は可愛いと思う。

頼りなさや子どもっぽさはこれまでも感じていたが、

それらがより愛しく胸に迫ってくる。

彼が好きだ。それは分かっている。

彼といたい。それもずっと同じ。

彼に何も求めない。それは主に性的なものを。

他の男たちと彼は違う。他の男たちと同じ目で稔を見ない。

それが心地よかったはず。それゆえの安寧だったはず。

『知る』の意味はそのままの意味でしかない。

そのまま…?

「庸介さん」

「ん? 何?」 期待に満ちた声が返ってきた。

「知りたいのはどんなことですか たとえば」

「たとえば」

「僕の過去? 僕の生い立ち…僕の学歴 僕の」

「稔が話したいと思うことだよ」 庸介は遮った。

「話し たい?」

「好きなもの嫌いなもの 食べ物でも映画でも本でも色でも。

なんだっていいんだ 稔をもっと身近に感じたいだけ。

今はまだ友人ですらないだろ」

居候。正式ではないが雇用者。その域を、稔も出ようとしていない。

その関係であれば壊れることがないからだ。

「稔が思い出話や愚痴を言いたいなら 過去の話題もいいよ?

でもどんな話も無理して喋ることはない。俺だって嫌だし。

ただ…そうだな この前みたいに 夜のあいた時間を一緒に過ごす

そんな機会をこれから多く持ちたいんだ」

「なんか…ぐいぐいきますね」 じっと見つめられ、稔は目を逸らす。

レンズでは撥ね返せない。「庸介さんらしくない」

「うん」 そこは自覚があるのか、素直に頷いた。

「何か心境が変化するようなことでも?」

「服をね… 新伍くんの服を描いていてね 実感したんだ。

対象を知るということは大切なことなんだ。

これまでも一対一で服を作ってはきたけど

相手の要望や体形を服作りに反映させていただけだった」

「新伍さんの場合は違った…」

「そうなんだよ! 世界が変わった気がする。楽しいんだ。

同じ人間でも変化していく。だから服も変わっていく。

当人の要望だけじゃなく 自分の衝動がデザインに浮き出ていく。

最初の一枚は夢見がちだった。俺も新伍くん自身も浮ついていた。

初音が生まれてから しっかりした色が入るようになって

一番最近のは現実的過ぎたけど けど そういう失敗すら楽しい」

「よかったですね」

「うん」 庸介は手元のファイルを閉じた。「そう思うだろう?

対象を知ることは人生を豊かにするんだ」


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