真菜穂さんのすることに間違いはない
「ミルクを作るわ」 真菜穂は唐突に立ち上がった。
新伍は初音を抱いてベビーベッドに向かう。
ちらと秀幸の方を見る。
秀幸は心得たように、
ベビーベッドが視界に入らない場所へと移動した。
新伍がおむつを替え終わるまで、秀幸はそこで気配を消していた。
真菜穂が哺乳瓶を手に、キッチンから戻った。
新伍がソファに座るのを待って、手渡す。そしてその横に座る。
秀幸も寄ってきて、肘掛椅子に座った。
「ミルクなんだ?」
「足りないから」
「うん。いいんじゃない」 真菜穂の攻撃性を受け止めつつ、
流すように秀幸は言った。「哺乳瓶にも慣れてて」
「さっきから気になっているんだけど」 思わず新伍は言っていた。
「うん?」
「赤ちゃんに慣れてる? 年の離れた弟妹がいるとか」
「弟はいるけど 高校生。スティ中にシッター講習を受けたんだ」
「ステイ?」
「高校の時に留学して 大学に入ってから その時の家にステイ」
新伍は真菜穂を見る。真菜穂は首を振る。
家族のことは話題には出なかったらしい。
「ステイ先の子がシッターのバイトするって言ったから
講習だけ一緒に受けたんだ」
でも と言い足す。全く実地経験がないわけでもない。
自分は子どもに好かれる とも言った。
「好きだから?」
「というより 勘がいいんだ。感性の問題だね」
真菜穂が、ふんと鼻を鳴らした。
「だから」 秀幸は言う。「そっちにもメリットはあるよ」
「メリット?」
「無償のシッター」
そこで初めて気づいたように真菜穂は目を見開いた。
逆に新伍は目を閉じる。
「何をたくらんでるの」 真菜穂は語尾を上げずに言った。
だから秀幸は、今更には応えない。
「君は今 自宅生か」 新伍が言った。
「寮を転々と。それはそれで面白いから」
「家 出てるの」 真菜穂が少し、意外そうに言った。
「居心地いいとは言えないからね。誰かのせいとは言わないけど」
「やな感じ」
「まあね」 秀幸は笑い、両手で膝を叩くと立ち上がった。
ふたり、初音を入れると三人を見下ろして「とにかく」と言う。
「こちらの要望は伝えた」
「言うのは勝手だわ」
「そうさね。でも言わないと始まらない。連絡先 要る?」
「要らない」
「今日はごちそうさま」 そして初音に「ばいばい。またね」。
ふたり、もしくは三人に何を言う間も与えず、出て行った。
玄関のドアが閉まる音の後、暫く沈黙が続いた。
初音も、室内から消えた気配を探るように黙って宙を見据えている。
「何を考えてる?」 破ったのは新伍だった。
「新伍が想像してるとおりだわ 多分」
「事態は好転すると 思える?」
「今より悪くなる?」
「彼は信用できる?」
「あの子が言っていることは 信じていいと思う。全部本音よ。
敢えて言わないことはあるだろうけれど 嘘は言っていない。
嘘を言うくらいなら黙っている」
「それは 父親譲りの気質? 彼は …父親に似てる?」
言ってから、新伍は軽く後悔した。
だが真菜穂には分かるだろう。嫉妬ではないことぐらい。
「全然。むしろ真逆ね 全てが」
「外見から性格から?」
「あの人はもっと凡庸だった」
それは主に外見が? 新伍は訊きたい思いを呑み込む。
郷田秀幸は、美醜を云々する前に「目立つ」存在だった。
「目的は何だと思う?」
「寮を出て ここに下宿する。違うの?」
「そう だよ そう だけど どうしてここに拘るのか」
そこに真の目的がある。
「それが 私たちの不利益になる? なるとしたらどんな?」
想定され得る不利益とはなんだ。新伍は考える。
現実的には、いろいろあるだろう。
彼は大人が不在の時に、家中を漁るかも知れない。
しかし真菜穂は宝飾品はほとんど持たず、現金も置かない。
秀幸がこの家で得ることができるものなど何もない。
そもそも彼はそんな俗物だろうか。
新伍と同じ思考を辿ったのだろう、真菜穂は言った。
「あの子がそんな欲得で動くとは思えないわ」
確かにそうだろう。しかし。
金銭的不利益が生じなくても精神的不快は充分生じうる。
けれど。
真菜穂にとっての「益」はそれをも凌駕するものなのか。
新伍にとってただ得体のしれない存在の秀幸も、
真菜穂にはもっと、とはいえなくてもいくらかは、身近な
かつ有益な人物たりうるのか。つまりはそれほどに、
育児の手助けを必要としている、ということなのか。
「真菜穂さんが 決めることだ」 新伍は言った。
言ってから、突き放した口調になってしまったかも知れないと、
「真菜穂さんがいいと思うことなら 大丈夫だ」と言い足した。
「なに それ」
「真菜穂さんは間違えない。聡明な人だから」
真菜穂は一瞬呆けた顔をして、それから笑った。
「おとうさんのすることにまちがいはありません」
「なに?」
「そういう童話があるの。善良なだけの おバカな夫婦の話。
どうとでも解釈できるけど 新伍なら どう読むかな?」




