郷田秀幸
庸介らの後押しを受けた新伍だが、完全に吹っ切れたわけではない。
初音の機嫌がよかった日や、いろいろ順調に進んだ日はよいが、
歯車が狂った時は「やっぱり自分が仕事を諦める」と考える。
実行に移さないのは、稔が指摘したとおり、
真菜穂を苦しめることになると分かっているからだ。
それでは意味がない。
ないのだが、このまま彼女を育児に縛り付けておくことも、
よしとは思わない。
真菜穂がどれほど優秀な女性であるか、一緒に生活していれば分かる。
注文住宅である自宅の設えも調度も、整えられた日常全てが、
彼女の有能さを物語っている。
会社などの組織の中でこそ、十全に発揮される能力だ。
真菜穂を家から解き放ち、社会という海で泳がせてあげたい。
新伍は自分の指先を見る。
きれいに整えられた爪。なめらかな肌。
真菜穂の手は荒れている。頻繁な手洗いの度に保湿などしていられない。
新伍は着飾って仕事に就く。
真菜穂は天然素材の洗濯が楽な服しか、着ない。
「仕方ないわ」と真菜穂は言う。「今 あなたの身体は資本なんだもの」
個人的嗜好が収入の手段となった。
美しく装うという夢の実現が、もうひとつの夢に繋がった。
ブロカントの店を開く時、周囲は「趣味の延長だ」と言った。
細々と商いを続けてきたものの、軌道にのるには至らなかった。
ブロカントという名称がよくないと言われた。
アンティークや大正ロマンを看板にした方がいいと。
だが新伍は「ブロカント」に拘った。
アンティークとの違いを明確に打ち出したかった。
知って欲しかった。広めたかった。
真菜穂もそれを応援してくれている。
諦めることはお互いのためにはならない。
だが、できることなれば、一切の憂いなく没頭したい。
罪悪感なく、今の状況を愉しみたい。
過ぎた望みなのだろうか。
自宅前に人影を見つけ、新伍はアクセルを弛めた。
若い男性のようだった。
なんとなく、自分の身体に目を落とす。
新伍は店で着替える。だから今は、
生成りのシャツにジーンズという一般的な装いである。
ハンドルを切って駐車場に車を入れる。
忘れそうになった鞄を掴むと、息を吸う。
いつもの動作を意識して
車から降り玄関に向かう一連の行動をとる。
そして「なにか?」と、その人物に問いかけた。
想定より、若い。雰囲気から大学生?
「ここ…八頭司 真菜穂さんの家で間違いない?」
「あなたは?」
「郷田秀幸」
「ごうだ さん?」
頷く。「郷田信一郎の息子 って真菜穂さんに伝えて貰える?」
「郷田信一郎…」
秀幸は再び頷くと、玄関扉を新伍に譲るかのように手を差し出した。
その所作に違和感を覚えつつ、新伍は家の中に入った。
出迎えた真菜穂に言われた名前を告げる。無表情になった。
「どうして」と呟き、それから新伍に告げる。「あの人」
あのひとと舌に馴染ませて、思い至る。
それはつまり。
壁の向こうのベビーベッドにいるであろう、初音に目を向ける。
「そう。そういうこと。あの子の…兄にあたるわね」
「でも どうして」
「そう。どうして」 ここに来たのか。どうやって知ったのか。
何を知っているのか。何が目的なのか。
「中に…入って貰ってもいいかな」 真菜穂が言う。
「いいもなにも 真菜穂さんの家だよ。真菜穂さんの知り合いだよ」
真菜穂はリビングに戻りながら、肩越しに言う。「知っちゃいないけど」
外に出て郷田秀幸なる青年を呼び入れた。
新伍が出したスリッパに足を入れ、リビングに立つ真菜穂に挨拶をする。
真菜穂は椅子を示したが、接待をするつもりはないようだった。
「私たち 今から夕食なの。だから手短にお願いしたいわ」
「了解です。では質問の先取りをしましょうか」
歓迎されるとは思っていなかったという口ぶりで話し出す。
そこには若者特有の、軽快な、上から目線的傍観が感じられた。
彼は当然父と真菜穂の関係を知っている。
だが憤りも軽蔑もない。母親の代理で来たとも思えない。
「父は 僕が来ることを知りません。想像もしてないでしょう。
僕が知っていることも多分知りません。母も同様に」
真菜穂は「で?」と目で促す。
「僕が知った経緯を知りたい? 事実とこの家と…」
「それは今はどうでもいいわ。目的をどうぞ」
「僕の 妹だか弟 の顔を見に」
「そこは知らないのね」
「妹だったらいいな」
「おめでとう」
「いや それはこちらの台詞で」
「でも根本的に勘違いしている という可能性は考えない?」
「勘違い なんですか」
真菜穂は新伍を見る。新伍が代弁するかのように秀幸を見た。
秀幸は余裕を失わず笑い返し、軽く腰を屈めて礼をした。
「勿論 知ってますよ。ご結婚おめでとうございます」
「分かっているのなら 勘違いもないものだわ 自明の理でしょ」
「ええ。僕は確信してます」
秀幸は顔を上げ、前髪をさらりと掻き上げた。「そこにいるのは僕の妹だと」




