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二輪挿し  作者: 星鼠
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初音

庸介が急いで縫い始めたのは、村瀬夫人の注文服ではなく、

新伍のための軽いコートだった。

真菜穂と子どもの退院の日に間に合わせるためにと、

突然思いついたデザインを縫い上げたのである。

目下の受注を優先とする稔に隠れて仕上げたため、

稔がそれを知ったのは、新伍に着せた時であった。

さすがに、呆れた。いろいろな意味で。

新伍でなければ着こなせない、新伍以外の人間が着たら

「何を勘違いしているのだ」と思われそうな、服である。

それは婦人服のラインではあったが、上背のある細身の体形向けで

言ってみれば「王子様」を彷彿させるフォルムである。

庸介曰く、

新伍が新伍らしく、

父親、すなわち男性として妻に付き添うための衣装で、

さりげなく気崩せば、病院でも浮かない筈。

稔が何も言えないでいると、

「僕は とても好きだけれど」と新伍が言った。

庸介を見て「いかがですか」と訊き、

彼が満足げに頷くのを見て微笑みを返した。

「明日だよな?」「ええ」「俺が車を出すよ」

新伍は首を振り、既にベビーシートがつけてあると言った。

タクシーでもない限り、それが規則なのだとも。

「庸介さんたちは 家で待っていて頂けますか?」

料理の配達を頼んであるので受け取って欲しい。

できればテーブルセッティングも、と稔を見ながら言い足した。

「それは勿論」 ふたりは声を合わせる。


名前は、真菜穂がつけた。

初音という名だった。

「初子」と書いて「ういこ」にすると言ったらしいが、

一読できる名前がいいということで「初音」に収まった。

新伍の「新」を使うことを考え、しかし良い名前が思いつかず、

連想で浮かんだ「初」にしたのだと言う。

庸介は父親の名にちなんだ命名を喜んだ。

真菜穂にそういう発想があったことが嬉しかったようだ。

新伍のためにも、真菜穂自身のためにも、

何より生まれてきた子どものために。

自宅には既に額縁に入れられた名前が飾られていた。

新伍が選んだのだろう、大正の香り漂う額と「初音」の字が調和している。

部屋の温度を調整し、食器や、届いた料理をテーブルに並べていると、

真菜穂らが帰ってきた。

ふたりは玄関に三人を出迎え、その後代わる代わる、そして恐る恐る、

小さな初音を抱っこした。

赤子の顔立ちなど稔にはよくわからなかったが、

それでも目鼻立ちがはっきりしているなとは思った。

庸介は目は母親だ口元は父親だとしたり顔で言い、

あまつさえ足の指は自分に似ているとまで言い、

そこは、はっきりと真菜穂に否定され指摘されていた。

肩を落とす庸介を新伍が慰める。

追いかけるように真菜穂も言った。

「私が 庸介のお父さんに似たように

この子も 庸介が可愛がってくれたら 似てくるかもね」

「そりゃもう」 庸介は言った。

言ってから、稔を見た。「でも俺に似るよりは…」

「もちろん僕だって手伝いますよ」 稔は笑った。

抱っこした命は小さくて温かく、男性だろうと血縁でなかろうと、

愛しさと保護欲が掻き立てられた。

この子に関わることができるのなら、決して拒みはしないだろう。

皆で声を出して笑い、赤子が寝入るのを待って食卓を囲んだ。

時折誰かがベッドを覗き込んでは、口が動いているだの

手足が痙攣しただの、人類初の発見をしたかのように声を上げた。

平和で、幸福な時間だった。


夢はそこまでだった。

翌日から現実が始まる。

初音が特別だったわけではない。

少しばかり吸う力が弱いのと、聴覚が敏感だっただけである。

しかし、真菜穂はあまり母性が強い方ではなかったようで、

新伍の協力をもってしても、穏やかな時は長くは続かない。

「もう わけ分かんない!」 真菜穂が初音を抱いて叫ぶ。

新伍は慌てて初音を受け取り、柔らかく揺する。

男性の力強い腕に抱かれて安堵するのか、

やがて初音の愚図りは収まり、じきに寝入っていく。

だがいつもそう都合よく傍に新伍がいるわけではない。

穏やかな寝息をたてる初音を見下ろしながら、

「子どもは天使って言うけれど」と真菜穂は呟く。

確かに、そうやって眠っている赤子は無垢なる存在ではある。

「可愛くないわけじゃあ ないのよ」

「うん」

「でも 本当もう わけ分かんないのよ」

「うん」

「眠る時間も飲む量も ちっとも安定しないし。

予測不可だし。寝つかせる時だってそうよ。

どうして新伍はそんなに上手なの。どうして私だと起きるの」

「焦るからじゃ …ないかな」

真菜穂の顔色を窺いながら、新伍は言った。

どう助言して、どう慰めればいいのか、どう諭したらいいのか、

そもそも助言や慰めを、口にしていいものか。

「ベッドの置くのが早すぎるってこと?」

「うん。寝入る前に置いちゃうから」

「どうやって判断するのよ。脳波とかで測れたらいいのに」

思わず吹き出しそうになるのを、新伍は懸命に堪えた。


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