箱の中から
想定より、産休期間は短かった。
入院の報を受けて慌てた庸介は、
うろうろ歩き回った後、うずくまった。
「どうしました」
「腹が痛い」
「陣痛ですか」
「胃痛だ。緊張で」
「病院行きますか」
「追い返されるだけだろう」
「でしょうね。連絡は新伍さんから?」
「うん」
「付き添ってるんですね」
「うん。病院だって。病室決めて入院手続き済ませたとこだって」
「じゃ 何もできることはありません。仕事してください」
「腹が痛い」
「仕事に集中すれば忘れますよ」
常連客からの注文服である。つまりは高齢の女性向けの。
新伍用の服で頭がいっぱいなのか、なかなか進まない。
そうはいっても、男性向け婦人服の市場はまだ限られていて、
一本化することは難しいし、それよりも、
これまでの顧客を大切にしたい気持ちが強い。
「とりあえずこの注文をこなせば 新伍さんの服に取り掛かれます。
この前の新伍さんの服のカッティング 応用してみては?」
「ふむ」
庸介は前屈みになっていた身体を一度起こし、
目を閉じて瞑想状態となった。
稔は密かに肩を竦め、自分の仕事に戻る。
とはいえ。庸介に言っておきながら、集中できないでいた。
普段は忘れているが、新伍を意識すると浮上してくる言葉がある。
ロマンティックアセクシャル。
新伍のことではない。自分のことだ。
自分で、自分のことが分からない。
庸介との関係。
彼の傍にいたいという気持ちはある。とても強い。
稔は彼に拾われた。文字どおり。
捨て犬のように、箱の中に蹲っているところを拾われた。
行き場がなく、商店街に放置された段ボールに潜り込んだ。
目覚めた時、庸介の顔があった。
「出られる?」と彼は訊いた。
「出たくない」 稔は答えた(ような気がする)。
「コーヒーと 朝飯でどうだろう」
庸介の手が稔の身体を引っ張り上げた。稔は抵抗しなかった。
抵抗は、もう、し尽くした。
そのまま庸介の店舗兼住宅に連れていかれたのだが、
朝食を提供したのは稔だった。
もたもたと庸介が支度を始めるのを見て、彼を押しのけていた。
食卓で庸介は「うまい!」と感嘆の声を上げた。
「いいものを拾ったなあ」
それが始まりだった。
稔は庸介の店に居つき、庸介も多くは訊かなかった。
生活が定着した頃、稔は実家には何も伝えず下宿先を引き上げ、
基盤のすべてを庸介のもとに置いた。
仕事を手伝い、軌道に乗せ、居場所を築き上げた。
庸介は、自立した捨て犬を広い世界に、
あるいはもっといい場所に解き放とうとしたが、稔は拒んだ。
ここはあの段ボールのようだった。
稔の身の丈そのままを包み込む。
庸介の傍を離れたくない。
自分にそんな感情と執着があることを、初めて知った。
だがその想いをどこに分類すればいいのか、分からない。
自分に性欲がないとは言わない。
男たちに抱かれれば、それなりに肉体は反応する。
実際のところ、自分はどうなのだ?
深層では庸介に抱かれたいと思っているのか?
彼を失うのが怖くて封印しているのだろうか。
しかし何もしないでいても、いつかは失う。
庸介と稔を結びつける確たるものは、何もないのだ。
もし仮に。
…仮に、新伍の関心が真菜穂ではなく庸介にあったとして、
その時自分はどうするんだろう。
「いや」 新伍には、まず真菜穂ありきだ。
庸介は真菜穂の義兄に過ぎない。
「何が?」 庸介が言った。
「え?」
「今 なにか言っただろう。何か手違いでもあったか」
「言いましたかね」
「言いましたよ」
「集中してませんね」 はぐらかした。
「これを見てもらおうと 様子を窺ってたんだよ」
庸介が差し出したデッサンを、稔は受け取って目を落とした。
色指定の代わりに薄く着色されていた。
生地の候補が浮かぶような、デザイン画だった。
感想を言おうと口を開いた時、庸介の携帯が鳴った。
新伍だった。
順調に進み分娩室に入ったとのことだった。
庸介の息が荒くなる。
「あなたが息んでどうするんですか」
「いよいよか と思うと」
「これですが」 渡された紙をひらつかせる。
「うん」
「面白いですね。依頼者は村瀬さんでしたよね」
「うん」
「生地見本を合わせてみましょう。手触りと光沢の加減が…」
業者に電話したり荷物を受け取ったり、暫くは忙しく立ち働いた。
庸介に伝えた感想は本音そのままで、
冒険心のある顧客にはぴったりに思えた。
新伍の影響が感じられて、そういう意味でも彼の存在を実感する。
庸介にとっても店にとっても大きな転換期だ。
その風を彼がもたらした。
庸介は彼を大切にするだろう。義弟としてだけではなく。
それ以上に。
新伍がもし、庸介に特別な感情を抱いたら。
彼がそういう傾向の人物だったら。
そして庸介が。
電話が鳴る。庸介の声が上がる。
「女の子か! そうか!」
早口に会話を交わし、切ろうとする寸前に「おめでとう」と言った。
今年最後の更新です。
よいお年をお迎えください。




