床上3センチのダンス
真菜穂の珍獣を見るような視線は感じていた。
だが新伍は自分を制御することが出来なかった。
前日に庸介と会った。庸介と話した。
自分の店に庸介を迎え、庸介に自分のことを訊かれ答えた。
庸介が品々に触れるたび、自分の肌を撫でられている気がした。
彼の口から洩れる感想は新伍への賛辞だった。
それからずっと雲の上を歩いている。
翌日の夜になって、稔が林田から預かった部屋履きを届けに来た。
そして、これも林田からの言伝だと、新伍の足にマッサージを施した。
稔は、真菜穂にもよく見ておくようにと教えた。
ふたりの関係を知らず、ましてや真菜穂の懐妊も知らないのだから仕方ない。
とりあえず聞くだけ聞いておけばいい。
新伍はそう思ったが、真菜穂は意外なほど真剣に説明を聞いていた。
「どうですか」 マッサージを終え、稔が訊く。
「軽い です」 新伍がそう応えると、稔は新伍の前に部屋履きを置いた。
3センチほどのヒールがついていた。
「一週間」 稔は言った。「来週また新しいものを用意するそうです」
「順に高さに慣らしていくというわけね」
真菜穂から見れば、たかが3センチ。
だが新伍には未知の世界に踏み出す一歩だ。
シンデレラがガラスの靴を履くように、新伍はそっと足を滑り込ませ、
床に平行につま先を出すと、背筋を伸ばして体重を移動させた。
「歩き方のコツが分からないようなら 工房に出向いてください。
でも まずは真菜穂さんに見て頂けばいいと思いますよ。姿勢とか」
「まかせて」 興奮気味に真菜穂は頷いた。
「無理はなさらず。徐々に ね」
稔は立ち上がると、ふたりが引き留めるのも聞かず帰って行った。
部屋履きを履いたまま見送った新伍は、そのまま歩き回る。
「無理はなさらず」 稔の口調を真似て真菜穂がからかった。
いつもなら即座に反応するところだが、新伍は歩き続ける。
やがてそれはリズムを捉え、踊っているかのようだった。
真菜穂の目が丸くなる。
その目と出逢っても、新伍は歩くのを止められない。
「それじゃあ ガラスじゃなくて赤い靴だわね」 真菜穂が言う。
赤い靴。そうかも知れない。
「私が脚を切りたくなる前に やめてちょうだい」
新伍は動きを止めた。「ごめん 不快だった?」
「心配しているの。無理はするなって言われたでしょ!
ほら マッサージしてあげるから座って!」
「いや それは」
「どっちでもいいから 座って!」
新伍はすとんとソファに落ちた。夢から醒めた気分だった。
浮ついていた気持ちが座面に沈む。でも悪い気分ではない。
真菜穂が前の床に膝を突こうとするのを、慌てて止める。
「自分で 出来るよ。出来ます。します」
「隠れて履かないのよ?」
「履きません。無理しません」
探るように真菜穂は新伍の目を覗き、新伍は真剣に見返す。
真菜穂の唇が膨れるのを見て、先に新伍が笑い出した。
暫くふたりで笑っていたが、目尻の涙を拭う真菜穂の顔は、怒っていた。
真菜穂は立ち上がって服の裾を払った。
「私は不自由になっていくのに」
「え?」
「新伍は自由になっていく。新伍が解放された分 私は束縛される」
「え え? 真菜穂さん」
「私はもうヒールを履けない。子どもが生まれたら レースも着られない。
赤ん坊の涎を気にしたら 新しい服なんて作れない」
最初、口を半開きに真菜穂を見上げていた新伍だが、その唇を噛んで俯いた。
はしゃぎすぎた。
でも。
真菜穂は、その代償にたくさんのものを得る。
それは新伍には決して望めないもの。
新伍の自由は、真菜穂が既に満喫したものに過ぎない。
ヒールも、翻る裾も。
喉をせり上がってくる声で頬を膨らませながら、新伍は床を見つめる。
しかし、それを今、新伍に与えてくれたのは真菜穂だ。
世の中の女性たちは、
自分の権利を幸運と自覚すらせず、分け与えてもくれない。
それを真菜穂は理解した上で、新伍に分けてくれた。
尤も、だからといって真菜穂から新伍が奪うものではないのだが…
「分かってる」 真菜穂は言った。「ええ 分かってる」
新伍は顔を上げる。
真菜穂は背筋を伸ばして、腰に手を当てた。
「そもそも 私の不自由と 新伍の自由に相互関係はない。
新伍がどうであろうと 私の身体は重くなる。それは仕方のないこと。
そんなこと 分かってる」
分かってはいるけど、やつあたり。
新伍は唇を綻ばせた。
軽いとはいえ、つわりを乗り切って、でも今度は胃が圧迫されて苦しい。
夜中に足がつったり仰向け姿勢が続けられなかったり。
先週まで着ていた服が着られなくなる。
通ることの出来た隙間に、引っ掛かる。
「男はいいわね。
新伍は女性が羨ましかったんだろうけど でも知らないよね。
男は身軽なのよ とことん身軽なのよ。
妊娠していようがいまいが 女がどんだけ不自由か 知らない」
ご無沙汰しております。
入院と治療で半年ちょい、めげてました。
その後は単なるぐうたらですが。
なかなか勘が取り戻せません。
前の文章を読み返して、我ながらイラっとさせられたり
続きを書こうとして何度も投げ出そうとしたり。
さて。
ものっそスローな更新になりそうですが。
というより
完結に漕ぎつけられるのかどうかも分かりませんが。
とりあえずの生存報告です。