生きたいように生きる
そして真菜穂は大学を出て証券会社に就職し、
母親の遺産をもとに家を購入して、今に至る。
どういう経緯で不倫関係に陥ってしまったかは定かではないが、
その相手とは今は切れている(筈だ)。
お腹の中の子の父親は新伍ということになっている。
事実を知るのは新伍と真菜穂のみである。
真菜穂にとって庸介は相談するに値しない「兄」なのか。
両親の死後、義兄に頼るということは考えも、実行もしなかったらしい。
気が向いた時の音信と、年に二度の面談のような交流。
血が繋がらないことを考えれば普通なのかも知れない。
血が繋がっていても、親兄弟と疎遠になっている新伍が訝ることでもないのだが、
庸介の身内という、新伍にとっては信じられないほどの幸運を、
幸運とも思っていない真菜穂の態度には釈然としないものがあった。
尤も、新伍以外の人間が、彼をどう捉えるのかは、それぞれなのだ。
自分が彼を過大評価しているという自覚も皆無ではない。その上で、
やはり庸介には庸介にしかない何かは確かにあると信じている。
気づくと、真菜穂が見ていた。どれくらい沈黙が続いたのだろう?
「庸介に引き合わせるとは言ったけれど そして関係も繋いだけれど
水先案内人になるとは言っていない。私は観客。やじ馬」
「うん」 新伍は言った。「分かってる」
「やじ馬って おやじ馬のことよ 知ってた?」
「なに それ」 新伍は吹きだした。真菜穂も笑う。
詳細は知りたければ自分で調べればいい。ふたりはただ、笑う。
そんな時間の共有が新伍は好きだった。
愛とか恋とか、いつか終わりが来るけれど、優しさは途切れない。
ふたりが三人になっても続く。なだらかに上昇するだろう。
新伍は視線を真菜穂の腹部に向ける。察して、真菜穂も手を当てる。
「名前 どうしようね」
「男の子? 女の子?」
「まだ教えてもらっていない。どっちがいい?」
「真菜穂さんに似た女の子かな」
「庸介に似た男の子じゃなくて?」
「似ないでしょ」
「なぜだか 私の母親に似ているのよ? 庸介」
「そうなの?」
「そうなの。だから この子が庸介に似る可能性だってなくはない」
「一緒に住まないとダメなんじゃないかな」
「預けちゃお。在宅なんだから。私より庸介の方が子育てに適してる」
そしてまた、ふたりで笑い合う。
案内が必要なほど広い店内でもない。
新伍はふたりが自由に店内を見て回るのを、黙って眺めていた。
稔が時々商品に手を伸ばすのに対し、庸介は漫然と歩き回るだけだった。
ふうん。尖った唇から、漏れて聴こえるような気がする。
「ふうん」 庸介は実際にそう言って、新伍の方を振り向いた。
何度目かの「ふうん」だったのだろう。なるほど?という顔をしていた。
「よろしかったら お茶でも」 新伍は言った。
喫茶部の方で、女の子が用意をしている。
新伍が入ったら、その子は帰ることになっていた。
庸介と稔が目を合わせて、頷いたのを見て、新伍は女の子に声を掛ける。
エプロンを外して、庸介らに会釈して奥の扉に姿を消した。
目立つ容姿ではないが、だがだからこそか、古びさせた壁に溶け込む雰囲気が、
新伍の店と引き立て合い、古風なエプロンが嫌味にならず似合っていた。
外ですれ違っても分からないかも知れない。
「バイトは彼女と もうひとり男子大学生がいるのですが」
訊かれてもいないのに新伍は説明した。
「その子は 年内で辞めてしまいます。どちらもいい子です」
「新伍さんが 女装した時の反応は どうでしょう?」 稔が問う。
「彼女は まあ ちょっと驚くぐらいで 多分表情にも出さないでしょう。
男子学生は 面白がるかな? もし嫌がっても 短い期間ですから」
「では 心配はないですね」
この土壌がなければ、最初から容認できない話だ。
いくら自分の店だと言っても、一緒に働く人間がいる以上、無視は出来ない。
だがどちらも柔軟な性質の人物と思える。
また、そうでなくては新伍の店に居着かなかったのではないか。
新品でも骨董価値があるでもない、強い主張のない品々に囲まれて、
とまったような時間の中で淡々と接客する。
あるものをあるがままに受け止め、流していく。
それぞれの好きの形を悠久の時間の中に置く。
「……ますか」
「えっ」 庸介に何か訊かれていると気づく。「すいません 今……」
「これまでに 女性服を着たことは?」
「ありません」 新伍は即座に、だがゆっくりと首を振りながら答えた。
「どうして 今回 僕に依頼を」
本音を隠して答えるのは簡単だ。「理解ある伴侶に出逢えたから」
新伍はその回答を舌に乗せつつ、胸の内で応える。
あなたに作って欲しかったからですよ。庸介さん あなたに。
手縫いの部分もあるという服を 一針一針あなたに縫って欲しかった。
その服を着た時 あなたに抱かれたように安らげるのではと。
新伍は思い出して、言い足す。
「生きたいように生きなければ損 と真菜穂さんから学んだから かな」