真菜穂と庸介
夕食後、真菜穂をソファに追い遣り、新伍がキッチンに残る。
食洗器が備えられているが、新伍の選ぶ食器は使えない。使いたくない。
新伍は食器を洗うのも嫌いではなかった。
毎日ともなれば億劫になるのかも知れないが、そうではない。
吟味した皿をひとつひとつ撫でるように洗うのは儀式でもあった。
布巾で拭いては丁寧に重ねて棚に片付ける。
そこを整理したのも新伍だった。あるべきところにあるべきもの。
「よし」
ケトルを火にかけて茶器を揃える。
疲れは感じない。自分だけのためじゃないから尚更だ。
真菜穂は大袈裟に喜んで見せる女性ではないが、
それだけに気遣いがうまく嵌った時は、褒美をもらった犬のように嬉しい。
自分が女性と一緒に過ごせることに新伍は驚いていた。
女性と、ではない。他人と。
いくつかのハーブから三種類を選んで混ぜ合わせる。
立って来る香りを吸い込んで新伍はもう一度「よし」と言った。
この言葉を口にするたび、新伍は旧約聖書を思い出す。
創世の過程で神は何度も「よし」と満足げに呟くが、
人類を作り出した時には言わなかった。ゆえに人間は未完成である。
思い出しては、人間を愛しく感じる。
未完成ゆえに苦しむのだと。
その話は他人にはあまりしないけれど、真菜穂には話した。
笑うと思ったのに、真菜穂は黙って下腹部に手を当てた。
それから、台詞を忘れていたという顔で「新伍らしい」と言った。
トレイに茶器を並べてリビングに入った。
うたた寝していたような、焦点の曖昧な目で真菜穂が迎えた。
一日の疲れと充足感が幸福な倦怠となって漂っている。
ポットの中身を注いで真菜穂に渡す。一口啜ると口元が弛んだ。
「稔さんって何歳なんだろう?」
「年齢不詳よね。最初 大学生かと思った」
「それはない」
カップに口を当てたまま頷く。「庸介より年上とすら思える」
「……それもない」
「それくらいの経験値 もってそうじゃない。
能ある鷹 とか言うけれど 隠しているのは能力だけじゃないよね」
そう。誠実であると思う反面、伊達眼鏡で隠しているように素顔を見せない。
柔らかな透明の膜で存在そのものを覆っている。
年齢すらも読ませない。庸介はどこまで知っているのだろう?
「悪い人じゃ ……少なくとも庸介にとって 悪い存在じゃない。
好きか嫌いかで言えば 好きだけれど 好きになりたくはないかなあ」
「うん?」
「恋愛の対象にはしないということ。まあ しないけど。
同性から見て どう。たとえば庸介を想うように 彼を思う可能性は」
「素敵だと 思う。好きか嫌いかで言ったら そりゃ好きだよ。
でも僕は 庸介さんしか好きにならない。 同性だからじゃなく」
新伍はお替りを注ぐためにポットを持ち上げた。真菜穂がカップを差し出す。
「庸介はどうかしらね」
新伍は動揺が手に伝わらないように力を込めたが、
気持ちは、思ったほどに騒めいてはいなかった。
「嫌いなら 一緒にはいられない」
「庸介がはっきり嫌う相手って いたっけ」
「……」
「それを言うなら 逆に 好きという相手 いたかしら。
来るもの拒まず なところある。誰とでもぶつからない」
黙り込んだ新伍を、真菜穂は面白そうに眺める。そして、言う。
「庸介の 交際記録 知りたい?」
「意地悪だなあ」
「嘘 嘘。私も知らない。中学の時にそれらしきものはあったけれど
受験で自然消滅。高校からは 新伍と同じ男子校だったでしょ。
大学の頃はどうかしら。女『友だち』程度じゃないかな。
尤も 庸介の方で壁を作っていた感じはある なんとなく」
「壁?」 それは先刻の発言と矛盾する。
「相手 との間にじゃない。未来に。その先は行かないよって。
ああいうの 男にもあるのかな? 女には時々ある。優しいままがいい。
完結したくない。特別な関係になったらそこで行き止まり。
その人を唯一にするほどの強さがない 自分にか 或いは その人に」
真菜穂の言葉をゆっくり噛みしめる。呑み込むまでもない。
意味は味わいとなって喉に染みていく。
「あるよ」 新伍は言った。「少なくとも僕には」
それから窓に遠い視線を向けた。庸介もそうなのだろうか?
「大学を卒業 して それから服飾関係の学校に入り直したんだよね」
「そう」
「女性も いる。多い……よね。いわゆる『同士』だし」
「競争相手でもある。学内の賞とか推薦とか」
言いながら声は笑い出していた。真菜穂は「嘘 嘘 ごめん」と言う。
「知らないのよ その頃 もう一緒にはいなかった」
新伍は虚を突かれ、それから指を折って数えた。
庸介が大学を出て22才。真菜穂が6歳か7歳下として……
「私は高校から寮。大学は下宿。両親が事故で同時に死んでしまったから」
血の繋がらない年頃の兄妹が同じ屋根の下に住むのもどうかと。
かといって引き取ると言い出す親族もなく、また引き取られる気もなく。
保険金で学費は賄える。寮に入れば寝食に困らない。庸介は成人している。
兄妹はそれぞれに自立して生きていくことを選んだ。