真菜穂からの電話
庭の真ん中に立って空を見上げる。
吸い込まれそうな色を見つめ、自分がここにいると考える。
ここは物語の世界ではなく、現実。現実に自分がいる。
どうしても実感が得られなくて、気持ちは空へと漂い出していく。
なぜ僕は物語の登場人物でいられないのだろう?
「着信 違いますか」
二回目の点滅に、稔は声を掛けた。
朝から、どこか気も漫ろな庸介は台上の携帯を見た。
そこで漸く我に返った様子で通話を繋いで耳に当てる。
「おう」 相手は妹の真菜穂らしい。「どうした」
一度だけ、会ったことがある。庸介には似ていない。顔も性格も。
気が強い美人。そういう印象だった。
兄妹の会話なら自分には関係ない。稔は作業に集中する。
「服?」
『服を作って 欲しいの』 声を上げたのか、漏れ聞こえる。
稔は外した視線を庸介に戻した。仕事の話なのか?
庸介の生業は注文服の仕立てである。
だが庸介の反応は鈍かった。返事をしないので真菜穂がもう一度繰り返す。
「あ ああ」 漸く庸介は応えた。「服 な」
来てくれと真菜穂が言ったのだろう。
「週末?」 庸介は妹と稔、両方に向けて訊く。稔は頷いて見せた。
「あー 午後? 2時 ……じゃ そういうことで え?」
庸介は訊き返し「稔? うん 行くよ」と言って、切った。
稔は眼鏡の黒縁を指先で持ち上げ、訊いた。
「仕事 ですね」
「多分」
「多分?」
「あいつが 俺の服を着ると思えん」
稔は返事に困る。確かに。庸介の今の顧客は高齢女性が主だ。
高齢者の体形に合わせて服を作る。対面販売と通販。
丁寧に要望をすくい上げることが評価されたか、波に乗って来た。
着易く、見栄えもよく、場面も選ばない。
だがあくまでも高齢者対象である。若い真菜穂が敢えて選ぶ意味はない。
「でも 若い人向けの服が縫えないわけでは ない でしょう」
むしろ密かに望んでいるのではないか。
仕事だから注文に添うように作ってはいるが、
庸介だって本当はもっと冒険したいに違いない。
真菜穂は兄に、その機会を与えようとしているのではないか。
言おうとして、稔は口を噤む。稔の抱く真菜穂像と一致しない。
希望的観測に過ぎず、言葉にしたら空々しい。庸介にもそれは伝わる。
「誰か 紹介して頂けるのかも」と言い換える。
そんなとこかな。庸介は言い、「わざわざ稔も同伴って念をおしてきたから
多分 そうだ。俺だけだと客受けしないって思ったんだ」と続けた。
庸介の容貌はあまり「らしく」ない。常連にはそれが却って安心感を与えるのだが、
若い女性に受けるようなものではない。
「パッキン開けてきます」 稔は立ち上がる。「検品 お願いできますか」
「だな」 伝票に目を走らせながら庸介も腰を浮かせた。
注文服は一枚一枚店内で縫製するが、通販用は外注に出している。
手縫い部分もある注文服を土台に、量産用の型紙を作って発注するのだ。
販売はネットを利用する。
土台を作ったのは稔だ。もとは自分の報酬分をひねり出すためだ。
庸介ひとりで細々と経営していた店だった。そこに稔が転がり込んだ。
元来の器用さを活かして手伝っているうちに、居着いてしまった。
給料なんて払えないと庸介は言う。ならばその分を稼げばいい。
高齢者のための服は想像以上に需要があった。
いろんな意味で「自分に合った服」を求めているのだ。
収益をあげるために外注先を探した。稔の伝手で見つけた。
採用した通販システムも使い勝手が良く、売り上げは順調に伸びた。
稔は居候ではなく、庸介の店に腰を据えることとなる。
庸介は、それだけの才覚と人脈があるのならばどこででもやっていけるだろうと、
彼に独立を勧めたのだが、稔の望むところではなかった。
いつか、ならばよい。必要とあらば、そういう道も選べるというだけで。
今の自分にはここにいることが大切なのだ。
庸介は、稔が庸介のことを気遣って、或いは頼りなく思って、
店に残っていると考えているようだが、違う。
そういう気持ちがないわけではない。けれど。
稔がいなくても、実際は庸介は困らない。
出来る範囲で続けていくだけだ。以上の欲もなければ以下の怠惰もない。
だから稔が店を手伝い続けるのは、彼自身の理由だった。
「うん」 庸介が満足げに頷いた。「きれいに出来上がっている」
「ですね」
「本当にいいところを紹介してくれたよ」 稔に真顔を向けた。
一瞬目が合った。稔はさりげなくそれを外した。
「庸介さんの説明が丁寧で助かるって言ってました」
照れたように笑うと、庸介は発送用の伝票を箱に乗せた。「あと頼んでいい?」
「桂木さん 明日仮縫いですもんね」
そうそう。あの人うるさいからと言いながら作業部屋に戻って行った。
背中を見送った後、手際よく箱を作っていく。
単純作業の間、頭に浮かんだのは真菜穂の電話だ。週末。採寸。
どうということのない発注の手順なのだろうが、
敢えて稔も、と念を押されたことが気に掛かった。