2 彼が逃がすはずない(アーニャ視点)
「婚約破棄された私~」の第一話に登場したものの一言も話さず空気だったアーニャ・カナーエフ男爵令嬢の視点です。
王女様が馬鹿皇子の顔を鉄扇で殴り始めると皆そちらに注目したので、私、アーニャ・カナーエフは、その隙にパーティー会場の大広間を抜け出した。
この時のためにヒールの低い靴を履いていたが馬鹿皇子からプレゼントされた盛装のドレス姿では何とも走りにくい。
だが、いつまでもあそこにいては、クズな父親、カナーエフ男爵の巻き添えで監獄行きだ。
帝国にとって敵に回したくないテューダ王国の王女を婚約者に持ちながら男爵令嬢(私の事だ)と恋仲になり(偽りだけど)公衆の面前で婚約破棄を宣言するなどという愚行を皇子が犯したのだ。
皇子に婚約破棄させた元凶である私について調べられるだろうし、当然、私の父親、カナーエフ男爵も調べられる。そうなれば、彼が行っている不正も明らかになるだろう。
死ぬ覚悟はできているが、あのクズな父親の巻き添えで監獄に行くのは絶対にごめんだ。
あの男の娘として生まれて、いい事など一つもなかった。
むしろ嫌な事だらけだった。
子供なら親に従うのは当然とばかりに十歳の誕生日以降、自分が経営している娼館に連れて行かれて無理矢理客を取らされたのだ。
なぜ娘で男爵令嬢である私に、そんな事をさせたのか?
あの男は男爵で終わる気は毛頭なく、そのために娘の私に高位貴族の令息の正妻か将来皇帝となる皇子の妾妃とするべく男を堕とすテクニックを教え込むために娼館に放り込んだのだ。
そんな日々は、いつしか私の心を疲弊させた。
いつ死んでもよかった。
けれど、私をこんな目に遭わせたクズな父親に一矢でも報いたかった。
そんな私をどこで知ったのか、高等部に入学する少し前、「彼」が娼館にやってきたのだ。
娼館に来た時彼はフードを深く被り顔を隠すようにしていた。娼館通いを周囲に知られたくないとばかりに顔を隠してやってくる男もいるので彼の行動は奇異には映らなかった。
娼館を経営している父も金さえ払ってくれれば風体は気にしないのだ。
私を指名した後、私に与えられた娼館の一室にやってきた彼は、そこでフードを外した。
男爵令嬢という下級貴族でも、さすがに皇族の顔は知っている。
まして彼は、とても目立つ。
ラズドゥノフ帝国では珍しい黒髪黒目だけでなく、その完璧な容姿や人が従わずにいられないカリスマ性で目を奪われずにいられないのだ。
イヴァン・ラズドゥノフ様。
現皇帝ピョートル陛下の異母弟、皇弟殿下。
最初は、ただ単に客として私を抱きにきたのかと思った。
けれど、彼は私の指一本触れる事なく開口一番こう言ったのだ。
「父親を地獄に突き落としたくないか?」
「は?」
言われた事を理解できなくて皇族相手に不敬ではあるが間抜けな声を上げてしまった。
「俺は公衆の面前で馬鹿甥に婚約破棄させたいんだ。そのために、お前に馬鹿甥を誘惑してほしい。代わりに、お前が憎んでいる父親を地獄に突き落としてやるが、どうだ?」
「……なぜ私に、そんな事を仰るのですか?」
「お前が最適だと推薦した奴がいた。貴族の令嬢だから皇子と同じラズドゥノフ学園に通えて馬鹿甥と接触できる機会がある上、娼婦をさせられていたから男を誘惑するのも簡単だろう?」
「……本当に、あの男……父を地獄に突き落としてくださいますか?」
イヴァン様の「企み」を聞いた以上、断れば殺されるだろう。
またイヴァン様の望み通りにしたとしても事が終わった暁には用済みとばかりに殺されるだろう。
死ぬのは構わない。客を取らされたあの日から私の心は死んだも同然なのだから。
けれど、実の娘である私の尊厳を踏みにじり続けているクズな父親が、のうのうと生きているのは絶対に許せない。
「ああ。約束する」
イヴァン様は頷いた。
これは信用できると思った。
父は、カナーエフ男爵は、皇子の今は亡き生母である皇后の兄、皇子の伯父であるミトロファノフ公爵の派閥に入っている。
ミトロファノフ公爵はイヴァン様の最大の政敵だ。公爵と傘下の貴族を一掃するために公衆の面前で皇子に婚約破棄をさせたいのだろう。ラズドゥノフ帝国以外の大陸の国々の宗主国であるテューダ王国王女が婚約者だから皇弟殿下に比べると何もかもが劣る馬鹿皇子が将来皇帝になれるのだから。
イヴァン様の事をよく知らなかったこの時の私は、彼は皇位を狙って皇子を追い落としたいのだと思っていたのだ。
後になって私はイヴァン様の狙いが皇位などではない事を知る。
彼の狙いは皇子の婚約者、テューダ王国の王女、エリザベス・テューダ様、愛称ベスと呼ばれる方なのだ。
彼女を手に入れるためにイヴァン様は甥である皇子に公衆の面前で婚約破棄させたいのだ。
それを知った時、胸が痛くなった。
客を取らされたあの日から男に夢など見なくなったのに。
更には、事がなった暁には私を殺すのが確実な男だのに。
イヴァン様の王女様への想いを知った時、私は自分の恋心を自覚した。
彼の恋を成就させるために私は皇子を誘惑する。
……分かっている。私の恋は最初から叶わない。
最後に彼に殺されるのは、いい事なのかもしれない。
彼と王女様が結ばれるのを見なくて済むのだから。
皇子に接触し、お気に入りになるのは拍子抜けするくらい簡単だった。
そこそこ見目が良く耳障りの良い言葉を囁けば、あっさりと皇子は自分の取り巻きに加えるのだ。……将来の皇帝としてはどうかと思うが私やイヴァン様の目的を達成するには何ともやりやすい相手だ。
皇子と体を重ねる事も覚悟していた私だが意外にも皇子は私の体を求めてはこなかった。……代わりに、彼の取り巻きの令息達とは一悶着あったが。
皇子は私の体を求める事こそなかったが学園で婚約者である王女様が見えると自分の取り巻きの令嬢達(私含む)を抱き寄せ親密な雰囲気を作っては王女様を窺っていた。
それだけで私には分かった。
皇子は婚約者である王女様を愛しているのだと。
婚約者の前で自分の取り巻きの令嬢達と親密な様子を見せるのは偏に王女様に嫉妬してもらいたいからだ。
けれど、学園内で王女様から皇子に接触する事は皆無だし公式の場であっても王女様は皇子に他人行儀に接している。王女様が婚約者である皇子に対して好意どころか関心すらないのは誰の目にも明らかだ。
分かっていないのは当の本人である馬鹿皇子だけだ。
女を使って公衆の面前で婚約破棄させ廃嫡に追い込んだのはイヴァン様としては穏便なやり方だっただろう。失敗すれば私は勿論、甥である皇子すら何のためらいもなく暗殺しただろうからだ。
それも皇位ではなく、たった一人の女性を手に入れるために――。
皇子は馬鹿で皇帝どころか皇子としてさえ失格だったが人間的にはイヴァン様よりは遙かにマシだ。
唯一の女性にしか価値を見出せず、彼女を手に入れるためなら甥の暗殺すらためらわない人が、まともな訳ない。
彼を愛していても、いや愛しているからこそ、そういう部分も見抜けたのだ。
そして、恐怖を感じながらも惹かれてしまった。
皇子に卒業パーディーで婚約破棄させるために王女様に苛められたという虚偽を皇子の耳に吹き込んだ私だが、それが明らかな嘘だと周囲に知らしめるために王女様と接触する訳にはいかなかった。
けれど、イヴァン様の想い人である彼女に興味があったので遠くから見ていた。
それで分かる事もある。
学園の中庭に一人いる時の王女様は、ひどく寂しそうな切なそうな眼差しを祖国の方角に向けていた。
あれは、まぎれもなく報われない恋に苦しむ女性の顔だった。
祖国に想い人がいるのだ。
王侯貴族である以上、結婚は個人の自由にはならない。
愛する人と結婚できなくても自分を愛してくれる人と結婚できれば王侯貴族としては幸せかもしれない。
相手が普通の男性ならばそうだろうけれど、よりによってイヴァン様だ。
彼のあの凄まじい執着を王女様は受け止められるだろうか?
彼女に想い人がいるのなら尚更だ。
それでも彼女は逃げられない。
あの彼が逃がすはずないからだ。
次話もアーニャ視点です。