1 婚約破棄を仕向けた俺
俺にとって「彼女」は前世でも今生でも女だった――。
「エリザベス・テューダ! 俺はお前との婚約破棄を宣言する!」
俺に唆され、馬鹿な甥、ニコライ・ラズドゥノフは愛する婚約者である彼女、ベスことエリザベス・テューダに卒業パーティーで婚約破棄を宣言した。
卒業パーティーの会場である大広間の片隅から俺は醒めた目で、その様子を見ていた。
長かった。
これでようやく俺は前世から欲しかった「彼女」を手に入れる事ができる。
大陸の最西に位置するテューダ王国王宮の中庭。
ラズドゥノフ帝国皇族とテューダ王国王族が揃っている。
ラズドゥノフ帝国皇子ニコライとテューダ王国王女ベスことエリザベスの婚約が成立した顔合わせだ。
テューダ王国での顔合わせになったのは、ちょうどベス王女の五歳の誕生日会が開催されたからだ。
『エリザベス・テューダです。ベスとお呼びください。これから、どうぞよろしくお願いいたします』
幼いのに母国語ではないラズドゥノフ語を流暢に話した上、完璧な一礼をする目の前の王女を彼女に見惚れる馬鹿甥の後ろで俺は食い入るように見つめていた。
長く真っ直ぐな漆黒の髪が映える雪のように白い肌、大きな紫眼、幼いながら整い過ぎた美貌。
俺の知る「彼女」とは違いすぎる、その姿。
けれど、間違いない。
目の前にいる幼い王女こそ俺がずっと捜し求めていた「彼女」だ。
ついに見つけた!
姿が変わった事など気にならない。
俺だって前世とは似ても似つかない姿になったのだから。
重要なのは、彼女が「彼女」だという事だ。
前世の記憶がなくても構わない。
彼女が俺の唯一無二の存在である「彼女」ならば。
けれど、俺にとっては幸運な事に今生の彼女は胎児から「彼女」だった。
俺と同じように――。
俺が今生で「彼女」、ベスことエリザベス・テューダと出会ったのは、甥との婚約が成立した顔合わだった。
『このおれとけっこんできるなんて、こうえいにおもえよ! ブス!』
馬鹿甥が婚約者だと紹介された王女に向かって、そう宣った。
照れ隠しだと馬鹿甥と七年付き合わざるを得ない皇帝(馬鹿甥の父親で俺の異母兄だ)と俺には分かったが、大抵の人間にとっては、ただの悪態だ。
馬鹿甥が口にしたのはラズドゥノフ語だったが、王侯貴族ならば幼い頃より最低でも十ヶ国語は習う。
しかもベスは先程流暢なラズドゥノフ語を披露した。馬鹿甥の「悪態」を理解しているのは確実だ。その証拠にベスの幼いながら整った顔が、ひくりと引きつった。
『この馬鹿が!』
皇帝である異母兄ピョートルが馬鹿甥の頭に容赦ない拳骨を落とした。
『いってえ!』
馬鹿甥は涙目になって頭を押さえた。
拳を作り今にも馬鹿甥に殴りかかろうとしていたらしいベスは、ごまかすように椅子に座り直すと拳にしていた手を膝に置いた。
『ざまぁみろ』
ベスは頭を押さえる馬鹿甥を冷たく一瞥すると日本語で呟いた。
この世界の日本語にあたる陽之本語は、テューダ王国でもラズドゥノフ帝国でも、あまり使用されない。しかも呟きだ。彼女の今の科白を理解できたのは、前世が日本人で前世でも今生でも読唇術を習った俺だけだろう。
そして確信した。
テューダ王国では、あまり使用されない陽之本語(日本語)を呟いたのだ。
まず間違いなくベスには前世の記憶があるのだと。
「愚息が申し訳ない! ベス王女」
皇帝が息子を叱った時は母国語だったが、ベス相手だからか、今度はテューダ語だ。高等部の三年間テューダ王国に留学していたので皇帝はテューダ語が流暢だ。
馬鹿甥の頭を押さえつけて頭を下げさせると自らも頭を下げる皇帝にベスは驚いた顔を見せた。皇帝で大人の男性である彼が小娘相手に頭を下げるとは思わなかったのだろう。
『皇帝ともあろう方が頭を下げるものではありませんよ』
ベスは幼女とは思えない大人びた言い方をした。俺が思っている通りなら彼女の精神年齢は見た目通りではないのだ。
『皇子殿下の言った事は気にしない事にします。政略結婚ですもの。互いに愛情などなくても構いませんものね』
科白と違って愛らしい笑顔だった。
婚約者が自分に愛情を向けない事(ベスだけがそう思い込んでいるのだが)に、どこかほっとしている様子だ。
そう、この時の彼女は、すでに恋をしていたのだ。
決して叶わない禁断の片恋を――。
今生ではラズドゥノフ帝国皇弟とテューダ王国王女という立場のため滅多に会えなかったが前世から想っていた女だ。彼女が誰を見ているのか、すぐに分かってしまった。
前世では誰にも向けなかった、恋うる瞳。
彼女がそれを向けている相手は、よりによって今生の彼女の父親、アーサー・テューダ王子だった。
(……何で、よりによって、こいつなんだ!?)
俺がまず真っ先にそう思ったのは、アーサーが今生の彼女の父親だからではない。
アーサーが俺に似ているからだ。
外見特徴だけでなく何よりその中身が。
唯一の人にしか価値を見出せない、人間としてどこか壊れている自分達。
なぜ、アーサーは愛せて彼に似た俺は愛せなかったのか?
……分かっている。
胎児から前世の記憶を保持している彼女にとってアーサーは「父親」ではなく「男」だったのだ。
前世とは違う。
彼女にとっての俺は弟でしかなかった。
他の人間よりも特別で愛してくれても……俺が望むものではなかった。
だから、今生では俺が桃梧だと、前世の彼女の双子の弟だと明かすつもりはなかった。
いくら今生の肉体が姉弟でなくても、桃梧だと、前世の弟だと知れば彼女は「俺」を弟としか見ないからだ。
……だというのに、無意識下では気づいて今生の俺に前世の俺を重ねて見ていたが。
それでも今生は姉弟ではない。親戚であっても結婚できる関係だ。
彼女が今生の実の父親を愛していようと俺を男として見なくても構わない。
彼女を手に入れる。
そのためなら甥との婚約を破談にする事も厭わなかった。
甥が彼女に一目で恋した事も分かったが遠慮などしない。
俺は「彼女」以外、何の価値も見出せない人間だ。今生の甥がどうなろうと、どうでもいい。
まして、前世から欲しかった女だ。
手に入る可能性が少しでもあるのなら、それに懸けるに決まっている。
(今生は姉弟じゃないんだ。絶対逃がさないよ)
――姉さん。
次話は「婚約破棄された私~」の第一話に登場したものの一言も話さず空気だったアーニャ・カナーエフ男爵令嬢の視点です。




