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山の神さん

作者: 笹帽子

 1


 家出をした私は『神待ちアプリ』を起動して、今夜泊めてくれる神様を探した。

 深刻な理由などなく、単に親と喧嘩しただけ。その喧嘩の中身も大したことではない。でも、それでも家に帰りたくなくなってしまった。離れたくなってしまった。時間をおきたくなってしまった。それで無我夢中で飛び出してきた。

 そんな勢いだけで家を出た私だけれど、一方で冷静に考えている部分もあった。こうして家出なんてしたところで、学校のことや、そもそもお姉ちゃんと私が違うということは、何が解決するでもない。だから引き際は考えておいた方がいい。つまり、家出から帰るタイミング、帰る条件のようなものを決めておくべきだ。補導されて無理やり帰されるのはごめんだ。帰りは自分の足で帰りたい。ではなにがいいだろう。例えば家出文学の最高峰、『ライ麦畑でつかまえて』。主人公は妹が回転木馬に乗ってくるくると回るのを見て、家に帰ることにした。私には妹はいないので、では代わりにお姉ちゃんが回転木馬で回ったら帰るというのはどうか。どうか? 想像してみるが、全く意味がわからない。そんな無茶苦茶な精神状態だったから、神待ちアプリが全球測位(GPS)だけでなく全世時計(TPS)の権限を要求してきたのもなにも考えずオーケーし、タタンタタンとリズムよく画面をタップして、弾き返される指の振動が心地よく、タタンタタン、タタンタタンと、いま静止した私が加速度aで落下していくとするならば、白銀の矢がいかに耳障りであろうと、タタンタタン、ここに世界との距離を爆縮させる亜であるところの閃転塔と半透明な煙に溺れながら死んでいる幽霊が捧げ持つ廻転とタタンタタン祝祭と錆の味に突き立てる歯をタタンタタン井戸の底から見上げる子供の背骨腐臭不随意の痙攣遠くのサイレン穴から覗く目玉と柄のない金槌に完全な球が



 二


 広瀬が第一回の山行を計画したのは大正十五年六月である。夏を迎える前に、登山部発足を形に残しておきたかった。何しろクーデターのように旅行部を乗っ取る形で立ち上げた登山部だったから、実績が欲しかったのである。

 しかし、三日前に上条が行けないと言い出した。足を怪我したというのである。二日前に須原が不参加を言ってよこした。自分はやはり登山には向いていない、気楽な旅行が良いなどと言う。山に登りもしないうちから何を言うのかと広瀬は大いに呆れて、説得する気力も起きなかった。それが今朝、部員の中で唯一と言ってもいいほどの意欲を示していた田中までもが行けないと言い出した。親戚が危篤で、静岡の田舎に帰らねばならんという。どうもそれほど近い親戚ではない様子だったが、まさかだからといって登山を優先しろとも言えない広瀬は、恐縮する田中に、ただ判ったとだけ言った。それで部員は全員いなくなった。

 下宿の部屋の布団の上にあぐらをかいて、広瀬は悶々としていた。出鼻をくじかれた。第一回の山行が台無しである。ただでさえ狭い部屋は、部の共用品として購入したスキーやテントが詰め込まれている。その僅かな合間に敷かれた布団の上で、広瀬は(おこ)るにも憤れず、しかし憤らずにはいられず、時折立ち上がり、唇を噛み締めてはまた座った。

 やはり、一人で何も考えずに登るほうが良いのかもしれない。

 自分はただ、頭を空っぽにして山を登り、何も考えず顧みず、機械のように歩を進めるというのが性に合っているのかもしれない。それが本来の自分の性質ではなかったか。そうしてみると、部活などというのは自分には合わぬ。過ぎた真似をしたなと広瀬は思った。性に合わぬことはするものではない。そんなことをぐるぐると堂々巡りに考えているうちに、しかし珍しいことに、いつの間にか眠ることができたようだった。

 広瀬は目を覚ますと、布団の上でまんじりともせず、ただ目だけでもってあたりを見回した。

 それは確かに、一年間慣れ親しんだ下宿の部屋だった。買い集めた山道具に囲まれて、窓の外に朝日が射している。予定なら早朝に発つはずだったが、もはやそれはかなわない。広瀬はもう一度眠ろうかと思ったが、そこでふと異様を感じ取った。

 においがするのである。

 広瀬は特別不潔な男ではなかった。むしろ上条などに言わせれば神経質に過ぎる男で、風呂に入るのも好きな方だった。しかしそれでも十八の男の下宿の部屋は、決して良い香りがするはずはない。それなのに、この部屋はひどくいいにおいがするのだ。広瀬はふんふんと鼻をひくつかせた。しっとりと甘く、およそこの部屋に存在して良いものではない、するはずのないにおいがする。

 一体何事かと身体を起こそうとした広瀬は、背中に何かがぶつかるのを感じた。勢いよく振り向いて見れば、女が寝ている。

 それこそまさに、およそこの部屋に存在して良いものではなかった。

 女である。

 女が、たった今まで広瀬が寝ていたまさにその背中合わせの位置に、ただ寝転がっている。

 広瀬は実家に帰れば母親と妹がいる。しかし、女性というものに背中が触れあうほどの距離に近づくということは、母親と妹相手であっても、最近はそう覚えがない。

 回り込んでよく見れば、女というより、娘とか少女とか言ったほうが良い年齢に見えた。着ている服は女学校の黒いセーラー服に似ていたが、街で見かけるそれよりも遥かに気品があり、それでいて蠱惑的に思われた。袖口やスカートの白いアクセントが広瀬の目を引き、そのまま白い肌に広瀬の視線は引きつけられた。表情というものが取り去られ、しかし無防備に弛緩した寝顔を意識せずともじっと見てしまう。作り物のように美しいと広瀬は思った。

 この甘い香りは、この娘から発せられているに違いがなかった。

 広瀬が高校に入ってすぐ、講堂で音楽会の催しがあった。音楽部や一部の教師などが楽器を演奏したり、声楽を披露したりしたそうであるが、直後にこれが学生の間でちょっとした論争を巻き起こした。なんでも、音楽会の聴衆には地元学生の家族だかわからないが、多少の数の女性がいたのだという。それを一部の学生は、元来女人禁制であるはずの学び舎に女を引き入れ、神聖な講堂を侮辱したと糾弾した。由来吾人は男性生活を送っている。われらは外界特に婦女子に対して無頓着であるべし。籠城主義は女人禁制となるはず。結局、そのような過激なまでに硬派な学生の主張はあまり支持されず消えていくことになったのだが、広瀬はその叫びを聞いて、講堂に微かに女の香りがしやしないかと密かに深呼吸してみたものだった。何の香りも感じなかった。

 それがいま、その甘い香りは間近にあった。しかも広瀬の心を占めているのは、先程起き上がる際に触れ合った背中のことであった。広瀬の背中や肩が、ほんの少し娘のそれに触れ合ったに過ぎない。ただそれだけだと言うのに、広瀬はそこに言いようのない柔らかさを感じていた。背中や肩の感覚がそれほど鋭敏になれるものだとは、広瀬は考えたこともなかった。

 いや、ここに寝かせておくのはまずい。広瀬はそう考えた。一体どこからこの娘が入ってきたのかわからないが、まさか下宿の内儀(かみさん)に見られる訳にはいかない。山道具を持ち込むのとはわけが違うから、すぐに叩き出されるに違いあるまい。そうなると、まだ朝が早いうちにこれを起こして、なんとかこっそり部屋から追い出さないことにはまずい。そうなれば、この娘を起こさなければならないが、大声を出して起こしたのでは結局家中の者に気づかれてしまう。そっと揺り起こすしかない。

 長々と言い訳を重ねながら、考え続けながら、広瀬は娘の手首のあたりにそっと触れてみた。肩を揺するのが大胆すぎるように思われて、やむなくそうなったのである。

 娘の手首は氷のように冷たかった。およそ血の通った、生きた人間とは思えなかった。広瀬はぎょっとして手を離した。けれどもその勢いが娘の手を弾いたようになって、広瀬はまた慌てた。見ると娘は眉を寄せて、今にも目覚めようとしている。

 広瀬は焦ったが、どうにもしようがなく、迷った末、何故か正座をしてそれを見つめた。

 娘は大きな目をパチリと開いて、

「神様?」

 と存外早口に言った。

「神様?」

 広瀬は鸚鵡返しに言った。いきなり叫び声をあげられでもしたらどうしようと身構えていたが、神様呼ばわりされる覚えはまったくなかった。

「すみません、私、気絶していましたか」

 娘はそう言って、身体を起こした。布団の上に座り込んで広瀬と向き合う。長い髪がさらさらと流れ落ちた。

「気絶というか、眠っていたと思うが」

 広瀬は言った。

「いえ、私は眠りませんので」

 娘は小さな口で飄々と言った。無茶苦茶な話だと広瀬は思った。どう見ても眠っていたではないか。しかしそれより大事なことがあったと思い出したので、

「君、いったいどうしてこの部屋に入ってきたんだ」

 と言った。すると娘は、

「マッチングです」

 と答えた。

「なんだ、それは」

 と広瀬が問い返すと、

「今晩はここに泊めていただきたいのです」

 と娘は言った。無茶苦茶な話だと広瀬は思った。ここに来て広瀬は、まだ背中の柔らかさの記憶からは逃れられていなかったし、漂ってくる香りには囚われ続けていたが、それでもこの妙な娘を訝しむ気持ちも同時に強くしつつあった。言っていることがどうにもおかしい。ずれている。

「わからないな、君。突然部屋で寝ていたかと思ったら、泊めろだなんて。泊められるわけがないだろう」

 と広瀬が言うと、

「どうしてですか」

 と娘は首を傾げた。

「まず俺は君が一体何者なのか知らないが」

 と広瀬が言うと、娘はそれを遮って

「私は神籬(ひもろぎ)菜々と言います。中学生です」

 と言った。

「中学?」

 広瀬は眉をひそめた。高女とかではなく中学と言うのがおかしかった。

「貴方のお名前をうかがってもよろしいでしょうか」

 と娘が言った。覗き込まれた広瀬は目をそらしつつ、

「広瀬だ。高校生」

 とだけ言った。すると娘はすぐさま、

「広瀬さん。今晩この部屋に泊めてほしいのです」

 と言うのであった。

「だから、無理だと言っているだろう」

「どうしてですか、もう広瀬さんは私が何者なのか知らないわけではありません」

「わからないな、名前を知ったら泊められるなんてことがあるか。高校の学生が下宿の部屋に女学生を泊められるわけがないだろう」

「下宿に、女学生」

 娘はぼんやりと広瀬の言葉を拾って繰り返した。大きな両目が、すばやく部屋中を見回した。

「広瀬さん」

 困惑して頭を掻く広瀬に娘は言った。

「今は何年ですか」

 広瀬はまた、妙なことを聞かれたと思って怪訝な顔をしながらも、

「十五年。大正十五年」

 と答えた。それを聞いた娘は困惑の色を浮かべたが、ややあって、

「ありがとうございます。それで、今晩この部屋に泊めてほしいのです」

 と三度言った。

「無茶苦茶な話だ」

 と広瀬は言った。

「泊めていただくだけで良いんです。それ以上は要りません。広瀬さんが望むだけ、してほしいことをしてあげられます。朝まで」

 と娘は無茶苦茶なことを言った。広瀬は自分が何を持ちかけられているのか考えが追いつかず、ただ頭に血がのぼったように周りが見えなくなり、微かに青みがかかって西洋人じみた娘の瞳に引き寄せられていた。

「マッチングに狂いは無いはずですので」

 と娘が言う言葉の意味もわからなかった。

「今夜だけでいいのです。今から朝までの間だけ。さあ」

 と言って娘は、ぽんと布団を軽く叩いた。さあ、こちらへ、と言うように。

 広瀬はごくりと生唾を飲み込んで、しかしやっとの思いで、

「わからないな」

 と言った。

「どうしてですか」

 と娘が問う。

「どうしてって、君。朝まで泊めろと言うけれど、いま朝になったばかりじゃないか」



 3


 百年単位で時間がズレているのだから、昼と夜がズレているのもまあ、当然考えてしかるべきだった。さすがにこんなに大昔に飛ばされるというのは予想していなかったけれど、まあ家出なのだから、遠くに来るのはやぶさかではない。それにいくら遠くに飛ばされようが、いや遠くに飛ばされたからこそ、このマッチングは正しいはずなのだ。お姉ちゃんが作ったアプリだもの。私の神様が見つかるはずだ。

 この広瀬という高校生は、一見してクソ真面目だった。大正時代の高校生といえば、長髪で、ボロボロの学ランにマント羽織っているイメージだけれども、どうもそういう感じではないらしい。寝癖で頭頂部が三角にとんがった短髪で、日に焼けた顔に反して少々気弱そうな目、筋肉質な体つきに、寝間着なのかわからないが浴衣姿だった。いや、浴衣とは違うのかもしれないけれど、和装の細かい分類が私にはよくわからない。その低くてよく響く声で話す内容からして堅物で、私をチラチラ見ては緊張している。家出少女を家に泊めるタイプでは絶対にない。それとマッチングしたということは、なにか特別な意味があるのだろうけれど。なんだろう。ともかく今は朝で、泊めてもらうにしても夜まで時間がある。その間に何をするべきだろう。身体でも重ねるべきか。

「広瀬さん」

「なんだ」

 文字通り頭を抱えていた広瀬が顔を上げた。

「身体、重ねますか?」

「だめ、だめ。変なことを言うもんじゃない。重ねない」

 重ねないことになった。

「それでは本日のご予定は」

「……山に登るつもりだったが」

 山に登る。

 何かが、つながった気がした。

 マッチングは正しいのだ。

「広瀬さん」

「なんだ」

「重ねますか?」

「重ねない」

「私、山に登りたいです」

「はあ」

「登山がしてみたいのです」

「君がか」

「私がです」

「だめ、だめ。そんなに生やさしいものじゃないんだ」

「私、結構身体は丈夫です」

「そうかな」

「確かめますか?」

「どうやって」

「重ねて」

「重ねない」

「仕方ありませんね、では確かめるのは置いておいて、代わりにお願いなのですが」

「なんだ」

「重ねてのお願いなのですが」

「重ねない」

「山に連れて行ってください」

「どうして山に登りたいんだ」

「まだ登ったことがないからです。登ってみたいからです。それ以外に理由が必要ですか?」

 広瀬は私の目を見て、大きくため息を付いた。堅物でクソ真面目な男子高校生の瞳の奥に、一瞬なにか、輝くものがあったような気がした。

「……必要ない」

 そうして立ち上がって、言った。

「登ろう」



 四


 神籬菜々の率直な登山への希望に、広瀬はつい同行を引き受けてしまった。突然現れた見知らぬ娘を連れて山に登るなど、明らかに異様な事態だったが、勢いに任せた。なにしろ、登山部の面々は全員、事情がある者もいたとはいえ、登りたくないと言ったのだ。そこへ来てこの娘は、登りたいと言った。それだけの違いであり、そして同時に、広瀬にとってはそれだけが重要だった。

 もともと山行は立山を目指すことになっていたが、まさかそんなところにこの娘を連れてはいけまい。医王山に登ることにした。

「どんな山なのですか」

 と神籬が尋ねるので、

「あそこに見えている山だ」

 と広瀬は指差した。広瀬にとっては慣れた山である。ちょうど二人は兼六公園の前の通りを歩いていた。家々の合間、南東遥かに山際が見えている。

「四高の学生はあれに登らないと卒業できないんだ」

 そう言って広瀬は、医王山について語った。医王山に登らぬものには卒業書は渡せぬ。そういうことを言った校長が、広瀬の通う四高にはかつていたのだという。実際ほとんどの学生が一度や二度は登ったことがあるだろう。道の選び方次第では子供でも楽しめる山である。

 そうはいっても、と広瀬は思った。神籬をちらりと見た。長袖の黒いセーラー服は、見るからに登山向きではなかった。本格的な登山をするつもりなどなかったが、それでも女学生が制服姿で山に登るというのは異様だった。

「君、その服で大丈夫か」

 と広瀬が聞くと、

「大丈夫だと思います」

 と神籬は飄々と答えた。

「そうは言うけれど、君、きっと登っていると暑くなるぜ。冬服だろう、それ」

 と広瀬は言ってしまってから、そもそも少女は荷物一つ持っていないことに気づいた。着替えなどあろうはずもない。まあ身体が小さく軽そうだから、途中で登れなくなったら自分が担いで降りればいいか、と広瀬は考えて、背中の感触を思い出して頭を振った。

「暑くはありません」

 と、神籬は涼しい表情で言う。

「私、汗をかきませんし」

 また無茶な話だと広瀬は思った。汗をかかないなどということがあるものか。あったらそれはなにか、ひどい病気じゃないか。

「触ってみますか」

「いや、いい」

 この女は何者だろう、と広瀬は考える。先刻の触れた肌を思い出す。氷のように冷たい肌。血が通っていないのだろうか。もう一度女を盗み見る。その目線は遠く、目的地の医王山を見据えて、歩きながらに一切と動かない。この女は何者だろう。怪異の類か。幽霊であるということもあるだろうか。とっさに足を見れば、幸い足はあったが、見るからに高級そうな洋靴を履いている。あれで山に登れるのだろうかと広瀬はまた心配になった。しかし幽霊ではないとしたら、それではこの女は機械かなにかか。そう思って自嘲する。

 それじゃあこの女は、俺が目指しているものなのかもしれない。


 *


 山道を登っている間は余計なことを考えない。広瀬ははじめ、神籬に先を歩かせたが、この娘は調子というものを考えずにどんどん登っていってしまう。やたらと脚が上がり歩幅が大きい。登山は、ただ速く登ればいいというものではない。下手に欲を出して速く歩いてしまうと、却ってすぐに疲れる。広瀬はそう言って聞かせて、自分が先に立って調子を守るから、その後ろを歩くように言った。神籬は、はいと言って従った。そのあと広瀬は、やっと余計なことを考えずに登れるようになった。やはり女学生が制服姿で山に登るなど異様で許しがたいと広瀬は思った。全く許しがたいことだ。

 やがて少し開けた場所に出ると、広瀬は休憩すると言った。神籬のことを考えて、景色のいいところで早めに休憩しておこうと考えたのである。

 抜けるような晴天である。汗ばんだ背中に風が当たるのが心地良い。広瀬は密かに神籬の様子をうかがった。確かに汗をかいている様子はなく、涼しい顔だ。持ってきた水と握り飯を渡してやると、丁寧に礼をいいながら、嬉しそうな顔もせず食べ始めた。

「どうだ」

 と広瀬は尋ねた。

「どうだ、といいますと」

 神籬は小さく握り飯を食みながら、首を傾げた。

「お前は山に登りたかったんだろう。登ってみて、どうだ」

 広瀬は言った。

「まだ、よくわかりません」

 神籬は飄々と答えた。

「実は、登山の何が楽しいのか、私まだわかっていないのです」

 と神籬は言って、握り飯の残りを口に入れ咀嚼した。広瀬は神籬の言ったことを考えて、一瞬は無茶苦茶な話だと思ったものの、すぐに自分だって登山の何が楽しいのかうまく語れはしないと思い直した。

「姉が一人います」

 神籬は言った。

「私の姉は、これも中学生なのですが、今度の林間学校で山登りをするのだそうです」

「林間学校だって」

 広瀬は眉をひそめた。また中学というのが変だと思ったし、それで林間学校というのも奇妙だった。

「中学で、学年の生徒全員で行く旅行があるのです。そういうものだとお考えください」

「いや、わからないな。中学でと言うけれど、一体どこの中学なんだ」

「東京です」

 神籬は即座に言った。広瀬は東京のことはよく知らない。だが、東京になら女子を受け入れて学年旅行に行くような中学もあるのかもしれない。

「君も東京から来たのか」

「そうです。遠くに来てしまいました。マッチングで」

「そのマッチングというのは、なんだ」

「占いのようなものです」

 神籬はそう言って誤魔化して、続けた。

「私は林間学校で山登りをする姉が妬ましいと思いました。私は林間学校に、その学年旅行に行けないからです。なぜなら私は別の中学に通っているからです。姉が通っている中学には絶対に行けないからです」

 成績の関係でいけないということだろうか、と広瀬は思った。

「それで、姉がすると言っていた山登りを、姉が先に一人だけ経験するはずだった山登りを、私が先回りして、してやろうと思ったのです。ですからもともと山に特別興味をもっていたわけではなくて、ただそれをしてやりたかった、というだけなのです」

 一陣の風が吹いて、それが神籬の表情を微かに曇らせたように思えた。

「あまり誠実ではないと思います。登山に対しても。広瀬さんに対しても」

「別に構わない。登山はそんなに崇高なものではないさ。俺だって別に、大した理由があって登っているわけでもない」

 と広瀬はすぐさま言った。それは本心だった。登山による身体のほてりと、それを冷ます良い風が作用して、広瀬の口から言葉を自然に滑り出させたようであった。青みの差した瞳がこちらを見ている。

「広瀬さんは、登山の何が好きなのですか」

「俺は、機械になりたいんだ」

「機械、ですか」

「山に登ると人間は空っぽになれる」

 広瀬は語った。この妙な娘に、どうしてこんなに自分の話をしているのかわからない。下宿に突然出現した妙な娘に、これまで誰にも語ったことのない話をしようとしている。いや、むしろこんな話、たとえば登山部の部員などには却ってできないと思うと、この娘が相手だからこそ語れることなのかもしれない。

 俺はどうも、他人よりも余計なことを考えてしまう性質であるらしい。

 他人の頭の中を覗けるものではないから、実際のところはわからないが、どうも周りの人間と話しているとそうらしい。俺が考えていることを言うと、やれ考えすぎだ、神経質だ、もっと楽にしろ、と言われるのだ。そこで俺は考えない方法を考えた。しかしこれも良くなかった。考えない方法を考えすぎてしまうからだ。そんなことを考え出したのは中学の頃だったが、あの頃が一番に辛かったと思う。寝ても覚めても考えてしまう。考えるということがどういうことかわからない。受験勉強をするようになると楽になれた。集中して勉強していると、考えていない自分に気づく。没頭していれば考えなくていい。それなら勉学にひたすら励めばいいかと言うと、そうはならなかった。高校に入ってしまうと、思うに受験という切迫したものがないせいで、勉強には集中できなくなった。また俺はどうしようもなく考えてしまって、眠れなくなった。身体を動かそうと思って、いくつか運動部を掛け持ちしたが、どれも考えないといけなかった。そうして最後にたどり着いたのだが、ふと思いついてやってみた登山だった。これだと思った。山を登っている間、俺は何も考えなくていい。ただ山を登るために足を動かす、いやそのことさえ考えなくなる。俺はただの人形のように、山を登る機械になる。ただただ登る機械。空っぽの、何も考えない機械。

「何も考えない、機械、ですか」

 神籬は人形めいた白い頬に手をやり、神妙な顔を見せた。

「馬鹿げた話だろう。その程度でいいんだ、登山というのは」

「はあ」

「難しいことを考えなくていい、高尚なことも言わなくていい。お前も、登りたいと思ったからここまで登ってきた、それだけだ」

「わかりました」

 神籬はしっかりとうなずいて、

「私、まだ登りたいです」

 と言った。

 いい根性だ、と広瀬は思った。そもそもここまで登ってきて息一つ上がらないのが異様だったが、彼女の発した「登りたい」という言葉は、紛れもなく真実だと広瀬は思った。これは明らかに普通の人間ではない。けれど、この娘が怪異だろうが幽霊だろうが、その言葉だけは信用できると思った。

 広瀬は出発を宣言し、すばやく荷物を背負い直す。神籬も立ち上がりスカートの土埃を払った。ひらひらと揺れるそれに奪われかけた広瀬の視線は、しかし、もっと別のものに奪われる。

 先程まで登ってきた坂の下に、妙なものが見えるのである。

 石が、空中に浮かんでいるように見えた。始めは一つ、やがてそれが一つではないことが見て取れる。握りこぶしの大きさから、人間の頭か、もう少し大きいであろう石塊が、十数個ぐらぐらと揺れながら浮かんでいる。

「なんだあれは」

 広瀬は呆けたように言った。

「ああ、まずいですね、あれは」

 神籬も石塊を見て、つぶやいた。

「一体なんだ」

 広瀬は尋ねた。神籬は相変わらず涼しい顔をしているが、かすかに目を細める。

「警察です」

「警察だと」

「そのようなものです。家出少女を補導しに来たんですね」

 石は数を増していく。土埃をあげながら地面から石が浮かび上がり、中には一人では持ち上げられないだろう大きさのものも交じる。しかしそれが、浮かんでいるのである。浮かんでいる石はどれも球体で、元来この医王山の山中に転がっているゴツゴツとした岩とはまるで異なるものだ。その石球たちが回転しながら、揺れながら、朧気な集合体となり、二本の手足を持つ人型を作り上げていく。神話に登場する、石から作られた人形(ゴーレム)のようだ。

「広瀬さん、逃げますよ」

 突然、広瀬の手が引かれる。氷のように冷たい手に触れて、いわば保留されていた恐怖感が一気に募り、広瀬は怖気が背を駆け上がるのを感じた。

「私、ここで補導されるわけにはいかないんです」

「ほ、補導とはなんだ」

 広瀬は慌てて駆け出しながら言う。

「内申に響きます!」

 登山道を駆け上がる。一瞬振り向けば、石球のゴーレムは滑るようにこちらを追ってくるようだ。

「振り向いている暇はないですよ、広瀬さん!」

 神籬は全速力で坂を駆け上がる。だから速すぎてもダメなのだ、とはさすがにもう言えない。スカートを押さえろとも言えない。広瀬も必死に食らいつく。

「追いかけてくるぞ、あれ」

「私を追ってるんです」

 やがて登山道は掘り込まれた溝のようになる。滑りやすい砂土の上を踏ん張って駆ける。道が曲がりくねり、視界が狭い。広瀬はただただ神籬の背中を追う。努めて振り返らないようにする。それでも後ろが気になってしまう。奇妙な音が追いかけてくる。ゴツン、ゴツンと地響きよりも高い音。広瀬は、あれはきっとあの石球同士がぶつかる音だと考える。一体あの巨人はなんだ。石球が浮かんでいる。この世の道理からは外れている。あれもまた、妖怪変化の仕業か。それとも疲労が見せる幻か。しかし同じものを神籬も見ている。二人で同じ幻を見るなどということはあるまい、と広瀬は考え

「長いこと地の文で考えてる場合じゃありませんよ、広瀬さん!」

「わからないな、地の文とはなんだ」

「ああもう、どうして追いかけられるシーンが広瀬パート(こっち)なんですか! 走るのに向いてないんですよ! 緊迫感もスピード感も足りてない!」

 広瀬は何を言われているのかわからなかったが、それでも少々傷ついた。

 振り返った神籬が、髪を振り乱しながら叫ぶ。

「伏せてください!」

 広瀬は伏せようと思って伏せたわけではない。神籬が振り返るのに視線を取られたせいで、足元が疎かになった。広瀬はつんのめって、慌てて地面に手をついた。その刹那に、背後から異様な気配を感じ取った。その気配に名前をつける間もなく、頭上を何かがすり抜け、どすりという重い音が地面に響いた。寸時遅れて広瀬は、背後から感じ取った異様な気配が、殺気とでも言うべきものであろうと知る。眼の前の地面には、人間の頭の大きさの歪な石球がめり込んでいた。

「立って!」

 戻ってきた神籬に手を引かれ立ち上がる。今しがた転ばなければ、自分の頭は石球の直撃を受けて西瓜割りのように砕けていたと考えると、広瀬はさすがに足が震えた。ゴツン、ゴツンと石球の音が近づいてくる。もう一度二人で走り出す。トレイルを駆け上がる。リュックサックが邪魔だが、捨てる手間も惜しい。その一瞬にまた石球が飛んでくると思うと踏み切れない。背後からゴツン、ゴツンと石球のぶつかる音がする。石球が飛んでくる。地面に叩きつけられる石の音。木々をへし折る岩の音。けれども振り返っている暇はない。無我夢中で駆け上る。喉が焼け付くように苦しい。

 広瀬はこの先で登山道が二手に分かれるのを知っていた。もともと登ろうとしていた順路は右手であり、比較的傾斜のゆるい道が続いている。左手は鎖場だ。右手に行くと神籬に伝えなくてはならないと、広瀬は考える。だが叫ぼうとして咳き込んだ。声が出ない。

「神籬、み、右だ」

 かろうじて喉から出たのは、かすれたような音だけだった。

 そしてそのかわりに。

 ミシリ、と気色の悪い音がした。

 血の気が引いた。目で見なくとも、視線をやらなくとも、それが良い音でないのは確かだった。石球が枝をバキバキと折る音ではなく、地面にどすりとめり込む音でもない。それが神籬の方から聞こえた。彼女の方を見やるその一瞬が、ひたすらに引き伸ばされて感じられた。恐怖に見開いた広瀬の目に飛び込んできたのは、しっかりと立つ神籬の姿だった。身体を吹き飛ばされても、頭を潰されてもいない。しかし、彼女の立ち姿から欠けているものがあった。黒いセーラー服の袖が、肩口から大きく裂けている。広瀬の顔を見て、神籬は苦笑しながら言う。

「はい、右でしたね」

 神籬菜々の肩からは、()()()()()()()()()()()()()()()()()

「右腕が補導されちゃいました」


 そこから先、広瀬は。

 考えるのをやめた。



 5


 私は、神様が嫌いだ。お姉ちゃんと私を別のものに作ったから。

 そのせいで私はお姉ちゃんと同じ学校に行けないのだし、林間学校にも行けないのだ。

 小学校は同じだった。中学校から、機械と人間は別々の学校に通うのだと言われた。お姉ちゃんは私よりよく笑う。私より機械に詳しいし、何でも作れてしまうし、私より友達も多い。けれど少なくとも私と一番長く時間を過ごしているし、私が一番知っているし、一番知られている相手だ。それが別々の学校に行く事になって、一緒じゃない時間が増えて、ずっと燻り続けていた不満が、林間学校の件で噴き出してしまったのだった。

「学校の違いだから、仕方ないよ」

 お姉ちゃんは困ったように笑った。その困った微笑みが悔しかった。林間学校なんて、本当はどうでもいい。別に山に登ってみたいわけじゃない。そうではなくて、そこに私が知らないお姉ちゃんがいるのが悔しいのだ。

 私は、神様が嫌いだ。

 登りきったら神様に、文句を言ってやろうと思う。


 *


 岩陰で私は身体を地面に投げ出していた。右腕は肩から先すべて、左腕は肘から先を補導されていた。両足は補導こそされていないが全力登攀が祟り、損傷が激しい。

「いやあ、間一髪でしたね」

「間一髪というのは、ギリギリ躱したときに言うんじゃないのか」

 広瀬も転がっている。

「広瀬さんはどこも補導されてません。両腕あるでしょう。間一髪でいいですよ」

「そうだな」

 私と広瀬は、結局は鎖場を登りきった。興味深いことに、石球のゴーレムは補導した私の右腕にかかりきりになり、追ってくるのがずいぶんと遅くなった。となればやることは決まっている。私は左手を少しずつ自主的に補導させ、そのすきに私達は追手をまいたのだった。

「大丈夫なのか、その腕は……」

「大丈夫です。すぐまた生えてきます」

「そんなトカゲの尻尾みたいな」

「女の子を爬虫類で例えないでください」

「自分で言ったんだろう」

「生えてくるときは二本ずつに増えて生えてきます」

「そんなヒュドラの頭みたいな」

「女の子を爬虫類で例えないでください」

「自分で言ったんだろう」

「嘘を付きました。生えてはきません」

「良かった、安心した」

「頼むから安心しないでください」

「自分で言ったんだろう」

「生えてはこないのですが、家に帰れば修理してもらえます。機械ですから」

 広瀬が急に、噛み殺すように、やがて声をあげて笑いだした。

「なにか可笑しかったですか」

「いや、わからないな、もう無茶苦茶だと思ってな。お前、一体何なんだ」

「何とはなんですか」

「お前、本当に機械なのか?」

「女の子を無機物で例えないでください」

「自分で言ったんだろう」

「信じられないならよく見てくれていいですよ。切り口のところ」

「わからないな、一体これはどうなってるんだ」

「触り方に遠慮がなさすぎませんか? 機械だと知った瞬間にそんなになるんですか広瀬さんは。最初に会ったときの童貞臭い反応はどこに行ったんですか? さっきもパンツが見えそうで慌ててたのなんだったんですか?」

「皮膚のすぐ下がすべて金属だ」

「ええ、ええそうです皮膚の下がすぐ金属なんです。広瀬さんは皮膚の下がすぐ金属の女の子は女の子扱いしてくれないんですか?」

「いや、すまん、本当に機械だと思ったら」

「触り方! 触り方おかしいでしょ! 本当に機械だと思ったら何なんですか。何なんですかその顔は広瀬さん! その憧れの戦隊ヒーローと対面した少年のような顔は。メカバレに対するリアクションとして特異すぎます変態か変態だなこの変態」

「それにしてもこの断面は、芸術的だ……」

「ええ、そうですね芸術的ですね、腕は生えてこないですが、映えると思いますよ、映え映えパラダイスですよ、ハッシュタグをつけて投稿してください炎上しろ永久凍結されろ」

「ハッシュタグというのはなんだ」

「広瀬さんも長生きすればわかります」

「今日一日でずいぶん寿命が縮んでいると思うぞ」

 広瀬は極限状態を通り越して一種の達観と興奮の入り混じった心地にあるらしい。けれど、かろうじて残る理性が顔を出した。やっぱりこの人は真面目だ。真剣な表情で尋ねる。

「……あれは、また追ってくるのか」

 そう、私達は石球のゴーレムをやり過ごしたけれど、無力化したわけではない。

「おそらく来ます」

「あれは、何なんだ」

「家出少女を補導する警察です」

「俺の知っている警察とは違う」

「広瀬さんも長生きすればわかります」

「これ以上俺の寿命を縮めないでくれ」

「あれは時空修正プログラムの一種だと思います。私を本来の時間軸に戻す……補導しに来ているわけです」

「その時空修正なんとかというのは何だ」

「広瀬さん、長生きすれば幸せとは限りませんよ。これを持っていてください」

 私は途中までになった手で、懐から袋を取り出した。

「なんだこれは」

「お守りが入っています。あの警察は私の時間、つまり未来ですけど、それに由来する物質を消そうとするようですので、もし次に追って来たときは、タイミングを計ってその中身を投げてください。それで時間が稼げます」

「なるほどお守りか」

「袋の中身ですが、特にエッチな要素はありませんので期待なさらぬよう」

「エッチとはなんだ」

「長生きしてください」

「……わからないことだらけだが、それで、この後どうするんだ」

「どうって、登りますよ」

「その身体でか」

「この身体でです」

「いけるのか」

「重ねますか」

「重ねない」

「余裕ですよ。余裕なので、立ち上がるのを手伝ってもらえますか」

「全然余裕じゃないじゃないか」

「余裕です」

 左肩を支えてもらって立ち上がると、広瀬が驚いたような顔をする。

「どうかしましたか」

「いや」

「ちょっと赤くなってますよ? 何気なく近づいてしまって女の子のいいにおいがしてドキドキしてしまいましたか? 機械だと思って油断していたけれど女の子だと意識してしまいましたか?」

「そうじゃないが」

「まあ、これはデオコのにおいなんですけど」

「そのデオコというのは何だ」

「私、長寿に効くツボを知ってます」

「いや、そうじゃない、そうではなくて、お前、熱いなと思って」

「ああ……」

 触れられた広瀬の手は冷たく感じた。つまりそれだけ、私の体温が高いのだ。全身の酷使に加えて体温調節機能が低下し、オーバーヒート気味だ。

「本当に大丈夫か?」

 広瀬が心配そうに言う。

「大丈夫です。私、さっきから、熱いんですよ」

 本心だった。山を登るというのが、こんなに熱くなれるものだと思わなかった。さっきまで私は、無心で、ただひたすらに、駆け上がり、よじ登り、ピークを目指すことしか考えず、いやそれすら考えずに登っていたのだ。立ち止まった今、胸の熱さがわかる。燃えるように熱い。それこそオーバーヒートかもしれない。私は正常な機能を失いつつあるのかもしれない。家出してこんな遠くに来た挙げ句、壊れて朽ちるのかもしれない。そんなことを考えなくてもいいように、登りたい。

「難しいことは考えません、高尚なことも言いません。私は、登りたいと思ったからここまで登ってきました、それだけです」

 広瀬の顔は汗と砂埃にまみれ、三角にとんがった髪もドロドロでひどい有様で、けれども目だけが爛々と輝いていた。その目が言っていた。熱い、と。この登山は熱い、と。

「私、まだ登りたいです」

「いい根性だ」

 私は一歩を踏み出す。広瀬も一歩を踏み出す。そのたった一歩で、私達は切り替わることができる。入ることができる。ずれることができる。もう一歩を踏み出すことを、考えてはいない。


 ……と。

 その没入が中断される。広瀬が何かを鋭く叫んだことに、遅れて気づく。

 さっき駆け上がってきた岩場の下に、歪な球体が集まり始めている。ゴツン、ゴツンと石塊がぶつかり合い、一気呵成に怪気炎、奔流する石球がゴーレムの身体を形作る。

「お前は登れ!」

 広瀬が叫び、私の背中を押す。

「広瀬さんは」

「俺はもう何度も登った。卒業証書は受け取れる」

 彼一人が、ゴーレムの方へ向かっていく。自分があれを足止めするから、その間に私に登れと言っているんだ、と私は考える。

「で、でも」

 あれはあくまで私を狙っているのだから、広瀬に危害を加えることは無いはずだけれど、進路を邪魔するようなことをしたらどうなるかわからない。そう考えると、私は足がすくんでしまう。それに、お守りはそういうつもりで渡したんじゃない。これじゃあまるで、そうしろと言ったみたいじゃないか。でもそれを言うのも広瀬を困らせるだけではないか。私は考える。考えるけれどわからない。広瀬を止めるにはどうすればいい。私はどうすればいい。私は考える。考え込む。考え続ける。

 けれど、振り返った広瀬が。

 泥だらけの顔で、ギラつく目をして叫ぶ。

「考えるな!」

 私の時間が、一瞬止まる。

「登れ! 頭を空っぽにして! 何も考えずに! 機械のように山を登れ!」

 私は、軽くため息を付いて、微笑んだ。

「機械はもともとですよ」


 そうして私は、考えるのをやめる。



 6


 研ぎ澄まされた感覚が、私を山頂につれていく。足がひたすら前に出て、私を山頂に引き上げる。右腕はなく、左腕は半分だけ。身体を引っ張り上げるためのバランスが取りづらくって、体幹を総動員してなんとか持ち上げる。それを意識していたのも始めだけで、やがて感覚は溶けていく。

 休憩しながら、おにぎりを食べながら聞いた広瀬の言葉が、頭のなかに響いた。

「もともと山というのは()()に近づける場所だ」

 低くて、よく響く、気弱そうな目に似合わない太い声。

「山を駆けるのだから、修験道が近いのかもしれん。あるいは南蛮の信仰には、頭をおかしくさせる薬を飲んで預言をするというのもあるそうだ。実際、極限状態で幻覚を経験する登山者は古今東西ごまんといる」

 そのくせ気持ちを隠せない、ありありと感情がこもったその声。

「だから、何も考えず、ひたすらに山に登った先に、()()に至ることができる者もいるはずだ」

 極度の全身運動の律動的継続による変性意識状態。それが登山の先にあるという。

 広瀬の言葉を聞いたとき、私はこのマッチングの正しさをますます理解した。だからこうして登っている。頭を空っぽにして。何も考えずに。機械のように。

「その状態は、その有り様は、こう言われている」

 難しいことは考えず。高尚なことも言わず。ただ登りたいと思ったから。

()()()だ」

 山頂についた瞬間から、私が山頂についたのだと考えるまでの僅かな間隙に、見渡すは日本海に泡立つ漣と、見晴かす一面の緑がうねるように漂っている。遥かに名前も知らない山々が私を見つめ返し、名前があるかも知れない尾根が得意げに微笑んでいる。私は地面に体を投げ出し、いや半ば倒れるようにして転がって、背中の痛いのも気にならず、天を見上げる。山頂の天は広く、ギラギラとした日差しが痛くて、自分の熱と区別がつかなくなって、思わず声をあげて笑った。

 神懸かりだなんて、笑えるじゃないか。神は待ってちゃ手に入らない、こうして自分の足で登ってこそなのだ、と回らない舌で呪文のようにつぶやく。別に神が見えているでもないけれど、私の意識は確かに変性している。普通ではない。しかしこれで神が降りているというのか? 私の中に? マッチングできているというのか?

 楽しげな音楽が聞こえてくる。

 いったいどこから聞こえてくるのかわからないが、案外近いように思う。奇妙なことに、疲れきった私は身体を動かすことはできず、顔をあげることはかなわないのに、周りを見渡すことができる。すると、私の周囲をぐるりととりかこみ、回転しているものがある。回転木馬だ。色とりどりに飾り立てられた絢爛な馬たちが、輝く天蓋の元で波を打っている。当然、そのなかの一体にまたがって微笑んでいるのはお姉ちゃんだ。私と同じ髪型で、私よりにこやかで、私と違う制服のお姉ちゃんが、回転木馬でくるくると回っている。無理やり帰宅条件を満たしてきやがった。これは本物のお姉ちゃんじゃなくて、もちろん私が作り出している幻覚であることは明白で、だからこそ潮時で、()()()()()私は帰ろうと思う。

「帰ったら、私にはこの冒険のこと、秘密にしたほうがいいよ」

「言うわけないでしょ」

「初めてだね、そんな秘密」

 私は存在しない右手で端末を取り出すと、広瀬の下宿では圏外の表示だったものが、通信圏内になっている。リズムよく節を付けて、タタンタタンと画面を叩く。登山、楽しかったな。また登りに来たい。広瀬にもお礼を言わないと。時々家出してきて、山登りに連れて行ってもらうというのはどうだろう。悪くないアイデアだと思う。それこそ今度お姉ちゃんが林間学校に行っている間、私は広瀬と山登りをするのだ。きっとお姉ちゃんは悔しがるぞ。お姉ちゃんの知らない私だけの秘密だ。急にそうすることが何より正しく思えた。そんな簡単なことに気がつく(マッチングする)のに随分な遠回りだなと思った。タタンタタンと画面を叩き続ける。実際、人間であるお姉ちゃんには時間遡行はできないのだし、それこそ私達が違うということで、お姉ちゃんが家にいないのなら、私が知らないお姉ちゃんが知らない私について、いま回転する天蓋の慣性モーメントに引きずられた私の部屋の引き出しの奥に眠る夢の切り傷に香る潮と石敢當に躙り寄る虻に突き出すルミノールの菩提機関が季節外れの死を迎え撃つ蓮蠢く完全な球に




 広瀬は勢いよく登山道を下り切る。どこまでが登山道なのか、はっきりとした境界があるわけではないが、地上の世界に、日常の世界に、降りてきたと感じる。背後の気配がするりと消え、振り返ってみれば確かに、ただ照りつける日差しの中、踏みならされた登山道を木々が囲んでいるだけである。先程まで間近に迫っていたはずの石球たちは跡形もなく姿を消している。

 広瀬は自分が疲労困憊して、息もひどく上がり、汗だくで、足はがくがくと引きつり、顔中砂まみれであることに急に気がつく。山頂近くの岩場から全速力で降りてきた。無理もない話だった。けれどもなんだか、急に立ち止まることもできずに、広瀬はそのままぶらぶらと、街に向かって歩き始めた。地上のぬるい風が心地よかった。唐突に広瀬は、握りしめているお守りに気づいた。石球と違って、お守りは消え去っておらず、今も手の中にある。強く握ると、どうやら袋の中に収められているらしい球体が、ごろりと手のひらに食い込んだ。特にエッチな要素はなかった。

 むっと、夏のにおいがする。

 広瀬は次に登る山のことを考え始めた。


 *


 四高登山部は、初代部長の広瀬による史上初の積雪期北アルプス横断を中心に華々しい実績を残し、日本における近代登山史の一端を担う存在である。その登山部の黎明期には、一名の女子部員がいたという伝説がある。もちろんこの時代、四高は女子に門戸を開いておらず、部員名簿にもそれらしい名前は記載されていないから、そんな部員が実在したとは思えない。しかし、部が定期的に発行していた文集には、部員たちと共に山に登る勇壮な女学生の姿が見え隠れするのだ。屈強な部員たちを率い、時に熱く叱咤激励し、時に甲斐甲斐しく世話を焼く彼女には皆がやられてしまったらしく、部員は彼女を「山の神さん」と呼び習わした。

 広瀬による彼女に関する記述は僅かだ。広瀬はたった一行、「山の神さんが降りてくると、僕は考える暇がなくなる」と書き残している。

初出:ねじれ双角錐群『心射方位図の赤道で待ってる』

第二十九回文学フリマ東京にて頒布。

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