第九話 変化
顔合わせの後、二人はウォルスと別れ、フェンリスから特訓を受けることになっていた。
フェンリスに連れてこられたのは、城から少し離れた森の中だ。彼は樹たちの住む建物とは反対の方向にある深い森の前で立ち止まると、樹と紺野に訓練の計画を話していく。
「今日から十日間、お前たちの訓練はここで行う。今日から数日は変身とその制御の訓練。その後は森の中で俺と実戦の練習をするから楽しみにしとけよ?」
今日は変身の方法を学ぶそうだ。フェンリスの説明を聞きながら変化の仕方を体で覚えていく。
フェンリスが言うには、変身に必要なのはイメージする力らしい。狼になった自分の姿を思い描き、それに合わせて実際に変化する。変身には魔力を使うので、全身に魔力を行き渡らせて集中すると、狼になれるらしい。
樹が魔力の操作に手間取っていると、
「あれ? これ、私の能力で補正が入るみたい」
隣でそう聞こえたかと思うと、紺野の体があっという間に狼へと変貌していった。フェンリスは驚いたように紺野を見ると、笑いながら賞賛の声をかける。
「まさか一瞬で出来るようになるとはな。明日には人狼用の服をもってくるつもりだったが、遅かったか」
人狼? と少し考えた後、樹は慌てて紺野に背を向けた。
そう、狼になった紺野の体格は人間のそれではない。当然、着ていた服は散り散りになってしまい、布切れと化してしまっている。その状態で人に戻ろうものなら――どうなるかは樹の頭では想像することができなかった。
「え? きゃああッ!? どうしよう、私このまま!?」
少し遅れて焦りだした紺野に、フェンリスは一枚の布地を投げ渡した。
「取り敢えずそれで体を覆って城に戻れ。城の中なら服もあるし、城の敷地内なら変な奴もいないだろう。念のため、姿を戻すのは侍従に会ってからだ」
「分かりました、失礼します!」
紺野は軽く頭を下げてから、城の方へと走っていった。途中から足音が聞こえなくなったので、能力の隠密で隠れながら行くのだろう。
「勇者ってのは何でもありなのか……?」
紺野の消えていった方を見たまま、フェンリスはそう呟いた。
樹は紺野が出来るのなら、と能力による補助があると信じて変身を試してみる。
魔力の流し方を色々と試していると、不意に今まで感じたことの無い感覚が樹を襲った。
体の表面が粟立つような感覚。自分の手を見てみると、手の形が微妙に変化し、大きくなっている。樹はその変化に驚き、慌てて魔力を引っ込める。すると、半分狼に変わっていた体は元の人間の姿へと戻っていった。一度感覚を覚えてしまえば何度でも出来る確信を得た。
軽く息を吐いて顔を上げると、フェンリスがこちらを見て硬直していた。
「俺も、能力に補正があるみたいです」
そう声に出して初めてフェンリスが反応した。彼は大きなため息を吐くと、呆れたような調子で笑った。
「合格だよ。そんだけ出来れば今日は教えることは無いな。本当は全身の変化に三日はかけるつもりでいたんだがな。まったく、勇者ってのは……」
「まだ時間はありますけど、どうします? ウォルスさんの所に戻りますか?」
樹が尋ねると、フェンリスは少し悩んだ後、首を横に振る。
「いや、せめてマイが戻ってくるまでは待とう。逸れたりしたら師匠に何言われるか分からないからな」
その言葉の中の師匠という単語に樹は首を傾げる。
「師匠って、ウォルスさんのことですよね? てことはフェンリスさんも魔法を使えるんですか?」
「師匠に比べたら全然だが、ある程度は使えるぞ。特に身体強化系の魔術は師匠のお墨付きだ」
「全然、ですか。やっぱりあの人、凄いんですね」
「まだ聞いてないのか。師匠の武勇伝は今やこの大陸に広まってるぞ」
そう言って、フェンリスは師匠の武勇伝を幾つか話してくれた。
弟子から発覚したウォルスの逸話は、どれも耳を疑うような話でいっぱいだった。要約すると、本気のウォルスは空を飛び、地を割り矢を降らせ、時には敵の軍勢を一人で押し返す程の魔術師であり、魔王の補佐や戦時の戦略をも担当する、国の英雄だそうだ。
「師匠は今や、五つあると言われる魔道の一つを極めた大賢者と呼ばれ、国の最高戦力の『三将』の長に任命されるほどだからな」
「三将って、ウォルスさん級の人がもう二人いるんですか!?」
すると、フェンリスはなぜか遠い目になって、続きを語る。
「いや、あの人はずば抜けてるよ。間近であの人の本気を見たら、もう敵わないって体が感じるんだ。同じ三将でもね」
「同じって……。もしかして、フェンリスさんも三将なんです?」
「あれ? 師匠から聞いてないのか? 三将は俺と師匠、そしてディアンさんっていう鍛冶屋の三人が任されているんだ。俺は前任者の代わりに入った新人だけどな」
フェンリスは苦笑しながら言ったが、樹にとっては衝撃の事実だった。ウォルスの出鱈目さもそうだが、目の前にいるフェンリスがそれに匹敵するほど凄い人物であることも。そして、最後の一人については今朝、すでに会っているという事もだ。
「そんなに凄い人たちだったんだ……」
「お前らも強くなればあの人たちを超せるかもな?」
笑いながらそう言って、フェンリスは肩を落とす。フェンリスは他の二人に引け目を感じているようだ。
その後もウォルスの武勇伝を聞いて過ごしていると、紺野が新しい服を纏って戻ってきた。
「すみません! それで、訓練は……?」
「いや、今日は変身出来るようになれば合格だ。人狼用の服は明日一式揃えて来るから待っててくれ。……最後に少しやりたい事があるんだが、二人ともいいか?」
やりたい事、と言われて二人は同時に頷く。それを見て満足げな顔になったフェンリスが要件を述べる。
「勇者の二人と組稽古をしてみたくてな。二人同時でいいから、勇者の力を見せてくれよ」
フェンリスはそう言うと、二人に衝撃緩和用の魔術をかけてくれた。樹と紺野は驚きこそしたが、断る理由も無いので指示に従い距離を取る。
「作戦があるなら先に決めとけよ。俺は初めは受けに回るからな」
余裕を見せるフェンリスだが、先ほどの話を聞いた樹は少しも油断できない。
三将の事を簡単に説明された紺野も表情は硬く、緊張している。策もなく挑んでも簡単に返り討ちだ。樹は紺野に小さな声で話しかける。即興の作戦会議を終えた二人は、再びフェンリスを正面から見据えた。全く力みの無い自然な佇まいだが、隙は感じられない。樹はフェンリスの気を引くため、わざと正面から走り込んでいく。
全力で駆けながらも、樹は具現化の能力を使って小さなナイフを創りフェンリスへと投げつける。
「こんなものッ、止まって見えるぞ!」
回転しながら飛ぶ刃物を、しかしフェンリスは素手で払い除けてみせた。だが、樹が欲したのはナイフを弾くその一瞬の時間。目の前の刃物に気を取られたその隙を使い、樹はもう一つの能力を発動させる。
魔力による物品の創造は、本来は樹のメインの能力ではない。樹の能力の名前は幻想魔術。つまり、その本質は敵を惑わし、幻を見せる魔術にある。
「発動!」
樹が手を振るうと、その手に黒い霧のような物が纏わり付く。それは魔力の塊。使用者の意思に従って動き、視覚や平衡感覚、聴覚までをも妨害する凶悪な黒霧だ。
「解放!」
その声とともに、腕から離れた黒霧はフェンリスへと向かっていく。魔術を使う際の掛け声は魔力の制御の為のセーフティだ。ウォルスが普段使う言葉を、樹はそのまま使用していた。
「へえ、『鍵』まで一緒か、俺より弟子らしいことしてるな!」
フェンリスは樹の操る魔法を避け続けながらも余裕の表情を見せている。やがて諦めた樹は魔法を再び腕に戻し、消し去る。
目の前の男は息を切らすことも無く、着ている服すら乱れた様子は無い。
「勇者って言ってもこんなものか? 師匠には悪いが、この程度なら――ッッ!?」
言葉は最後まで続かなかった。
フェンリスがいきなり前に飛び込んで来たのだ。しかし、それは樹を襲うためではない。
理由はその背後。
フェンリスに気取られること無く回り込んだ紺野が、小さな串のような物を持って立っていた。紺野特有の魔術である隠密を使い背後へ近づき、同じく魔術によって作った毒針を刺そうとしたのだ。
素早く二人から距離をとったフェンリスは、鋭い目つきに変わって紺野を警戒している。
「あの魔術は注目を逸らすための囮か。少し油断していたが、それはもう終わりだ。全力でいくぞ、耐えてみせろ! 二人とも!」
そう叫んだフェンリスの体が変化する。体表には毛が現れ、爪は鋭くなり、脚は獣のそれに変わっていく。
フェンリスの姿は食堂で見たものとは全く違っていた。それよりもずっと大きく、彼の髪の色でもある白い体毛は光り輝いていた。
其の輝きは、森に潜む為の色ではない。力で全てをねじ伏せる王者の色だ。
変身を終えたフェンリスと対峙すると、樹は自分の背筋が震えるのを感じた。
紺野はフェンリスから目を離さないまま、樹の方へと戻ってくる。
「ごめん、刺すときに一瞬躊躇った……。数分眠らせるだけの毒だったのに」
「気づかれたのはあの人の実力だ、気にしなくていい。それよりも……」
樹は目の前の怪物を見て細く息を吐く。今の樹たちでは絶対に勝てない敵だ。しかし、フェンリスは「耐えろ」と言った。つまり、避けるか防ぐかして耐え続ければいいのだ。
「……紺野は出来るだけあいつに近づいて撹乱してくれ、危なくなったら俺が助ける。隙ができたら俺の幻想魔術を当ててみせる」
「分かった、やってみる。頼んだよ、樹くん」
そう言って紺野はフェンリスへと挑んでいく。
樹は片手にさっきと同じ魔術を発動させた。この魔術を複数用意出来れば最善だが、魔術を使い慣れない樹にはまだそれが出来ない。用意できるのはせいぜい二つ。直線的に進む簡単な魔術なら複数同時に使えるが、それでは避けられてしまう。
樹は黒霧を放ち、紺野の補助をしながら、もう片方の手である魔術を発動させる。時折フェンリスの顔面に霧をけしかけ、紺野が避ける余裕を作りながらも、樹は虎の子の魔術を組み上げた。
「発動! 紺野、こっちに跳べ!」
それを聞いた紺野が、白狼の大きな手を間一髪で避けこちらへ戻ってくる。樹は淡く光る左手を突き出すと、鍵となる言葉を叫ぶ。
「解放、シャントフェングッ!」
その声とともに、樹の左手から魔力が溢れ出す。黒い影となった魔力は樹と紺野の周囲を覆い、半透明の鳥籠のような檻を作り出した。その直後、紺野を追うフェンリスが鳥籠へと激突した。
凄まじい音が中に鳴り響いたが、影の檻は揺らぐこと無く、フェンリスを受け止めた。
府の爪を受け止め続けるこの檻は、ウォルス自身が編み出し、形にした魔術らしく、魔力で物を創り出す樹の能力と勇者の魔力量なら使えるはずだと、教えてもらったものだった。
影の檻を発現させるこの魔術は本来なら敵を閉じ込めるのに使うものだ。しかし、樹はこの状況でフェンリスを捕らえるのは至難の業だと考え、自分たちを覆うシェルターとして活用したのだ。
やがてフェンリスは檻の破壊を諦め、人の姿に戻った。コンコンと檻を叩くフェンリスを見て、樹は訓練の終了を悟った。
「解除」
術式消去の言葉を唱えると、あれだけ頑丈だった影の檻が跡形も無く消えてしまう。
一度に魔力を使い込んだ反動でふらつく樹。慌てて横にいた紺野が支えたが、すぐに立ち直ってフェンリスの方を見る。
「耐えて……見せましたよ……」
「そうだな、あの術を使えるとは驚きだよ。疲れてるだろ? これを飲め。魔力が回復するぞ」
フェンリスは傍に置いてあった袋から小さな瓶を取り出して樹に手渡した。瓶の中には薄いピンク色の透明な液体が満たされている。
言われるままに樹がそれを呷ると、感じていた目眩がスッと引き、体の中に何かが満たされていくのを感じられた。
「これ、便利ですね」
「魔力薬だよ。魔術師なら誰でも持ってる必需品だ。飲みすぎると毒だがな」
樹が感心していると、フェンリスは思いもよらぬ要求を樹に出してきた。
「魔力が回復したら、もう一度あの魔術を使ってくれないか? 場所は適当でいい。その辺に作ってくれ」
「え? 分かりました。発動、。解放、シャントフェング」
樹は適当な場所に先ほどのものより少し小さい檻を作った。中には誰もいない。
フェンリスは檻に近づいていくと、樹たちの方を見てこう言った。
「じゃあ今からコレ、壊すからよく見とけよ。――強化」
再び狼へと変化したフェンリスが、「鍵」を呟いた瞬間だった。
フェンリスが軽く触れていた影の檻が、一瞬で木っ端微塵に弾け飛んだのだ。砕けた破片は飛び散ることなく魔力に戻って霧散していく。
あまりの光景に、見ていた二人はただただ驚くしかなかった。
「……え? 壊せるんですか? じゃあさっきのは……?」
「あれだけやると中のお前らも吹っ飛ぶから使えなかったんだよ。身体強化を使うと爆発的に力が強くなるからな」
「少しはいけると思ったんですけどね……」
唖然とする紺野と樹だが、フェンリスはさして気にした様子も無く、二人への評価をつけていく。
「マイは体術はまあまあだな。明日からは人狼状態での格闘を教えるからまだまだ伸びるだろう。修正点としては、後ろから襲う時に少し躊躇ってタイミングがずれたな。まあ、それはそのうちなれるだろうが、早めに慣れてくれ」
「はい。明日もよろしくお願いします」
「次にイツキだが、魔術の腕は上々だな。体術は今回見てないが、師匠からは武器を持たせろと言われたからな。明日からはそっちの訓練もするぞ。最終的には両方を混ぜ込んだ戦法を使えるようになってもらう」
「分かりました。頑張ります」
二人の返事を聞いたフェンリスは、魔力薬を取り出した袋を背中に提げると城の方を見る。
「俺は少し用事があって一緒には帰れんが、大丈夫か?」
「大丈夫です。ウォルスさんには伝えておきますね」
「ああ、ありがとう。また明日、ここに集まってくれ。じゃあな」
用事があると言うフェンリスと別れて城に戻った二人は、丁度訓練を終えた他のみんなと合流し、城の中を歩いていた。
城の中は一部の禁止区域を除いて移動が自由にでき、見ていて飽きるような作りではなかった。
夕食の時間になり、召使いに案内されて食堂へ赴くと、部屋の中には一人の先客がいた。
一番奥の席に座っているのはウォルスだった。普段なら彼が一緒に食事を摂るのは朝食の時のみのはずだった。
こうして彼が食堂へ来るときには、大抵何か重要な連絡がある。七人のうちの大半がそれに気づき、少し表情を硬くしている。
七人が席に座ると、その予想通りに、ウォルスが口を開く。
「皆様に、お伝えしなければならないことがあります」