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  作者: 東郷十三
29/46

29、そば


 442号線を西行し、黒川温泉まであと1㎞ほどのところにその店はある。到着したのは14時を少し回ったころ。

「ふふっ、デザートの心配する必要はないわね。」

「えっ?」

「ほら!」

車のドアを閉めた緋乃がニコニコしながら指差した方向を見ると、同じ敷地内に小さなパン屋が。その入り口には〝手作りプリン〟〝ジャージーアイスクリーム”の幟が立っている。

「食べる気、満々だな。ま、そばを食べて余裕があったらね。」

「ううん、ゼッタイ食べるんだから。私の別腹は大きいのよ。」

おどけてふくれっ面になった緋乃の顔を見て、先日のドルチェ騒動を思い出した。

「はいはい、そうでしたね。この前のイタリアンのお店では大変でした。」

「は?なんだっけ?」

引き戸を開けると、奥から『いらっしゃいませ。』と威勢のいい声が聞こえた。スタッフは4名、厨房でそばを打っているのが多分主だろう。まだ建ってから日が浅いのか、壁も襖も真っ白だ。そこに、磨きこまれた板張りに反射した午後の陽が当たって、店内はとても明るい。

「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました。」

満面の微笑をたたえた女性にお茶を出され、ふっと和んだ。

「友人に紹介されてきました。面白い経歴のご主人が開かれたお店と言うことで。」

「いえ、面白いと言うことはないんですよ、変わっていると言うだけで。」

お盆をひざの上に乗せてきちんと正座した彼女は、50代半ばと言ったところ。

「脱サラでお店を始められたと聞きましたが。」

「ええ、まったく思いもよらないことで。ずっと事務方ばかりやってきたのに、お客様相手の仕事なんか出来るんだろうかって心配しました。」

「あの、奥様、ですよね?」

気遣いながら緋乃が尋ねた。

「はい。」

「奥様は反対されなかったんですか?」

「それがその暇すらなかったんです。もともと、決めたらパッと行動してしまう人ですから。」

「でも、お店を始めるにはお金も技術もいるし、お店の場所を決めるのにも時間がかかるでしょう?」

「普通はそういう目処を立ててから行動しますよね?ところが主人ったら、ある日突然『そば屋をはじめる』と言いだしたんです。で『今の仕事はどうするの?』ってきいたら、『今日辞表を出してきた。』ですって。驚くどころか呆れちゃって。それから1日だけの〝体験そば打ち〟で手順を覚え、後は試行錯誤の自己流。」

「え~、それは思い切ったことをというか、無謀ですよ。」

「そうですよね。話をする人みんなからそう言われます。」

それからひとしきり店を開くまでの経緯を聞いた。知り合いの中にたまたまこのあたり親戚がいて土地を紹介してもらったこと、奥様の行きつけの菓子屋が厨房施設の問屋に口利きしてくれたこと、そばを打つたび友人の何人かが味見の犠牲になったことなど。

「周りの人に恵まれたおかげで、何とか昨年店を持つことができました。」

チラッと時計を覗くと、14時半になろうとしている。

「ところで、あの、お勧めのおそばって?」

「あ、すみません。お腹、すいてますよね。ごめんなさい無駄話してしまって。」

今回出会う人たちは、みな気さくな人ばかりで話が弾んでしまう。

「おそばは基本的に冷たいほうがおいしさの違いがわかります。私は皆さんに‟おろしそば‟をお勧めするのですが、3種類の味が楽しめる‟皿そばセット‟もお得かと思います。」

メニューには、‟汁・とろろ・おろしの3種の味のおそばとおにぎり‟と書いてある。

「じゃあ、私はその皿そばセットをいただきます。」

「私は、奥様お勧めのおろしそばを。あ、大盛り、ってできます?」

「はい、一応メニューに書いてはおりますけど。大盛りで大丈夫ですか?」

「大丈夫です。」

「承知いたしました。では。」

すっと立ち上がった彼女を見送りながら、

「きれいな方。立ち居振る舞いに隙がないわ。」

まるで独り言のように緋乃がつぶやいた。

「ところで。いいのぉ、大盛りなんて頼んじゃって?この前みたいにヒイヒイ言ったって知らないから。」

「この前は、デザートでつまずいただろ?今回は大丈夫さ。冷たいそばだったら、スルスルッと胃袋に収まるって。」


 この一言には、あとで後悔する事になる。



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