26、事件
四人を見送った後、『さあて!』と言いながら緋乃は受付の温泉商品を物色し始めた。しばらくあれこれ手にとって悩んでいたが、湯の華の石鹸と化粧水を手に入れて嬉しそうにしている。
「これでますます磨きが掛かるってことね。うかうかしてるとほかの男に取られちゃうわよ。」
「おや、まるでこちらがお願いしてお付き合いさせてもらっているような口ぶりだな。でも、先に気のあるそぶりで話しかけてきたのはそっちだからね。」
「あら、違うわよ!」
棚から取り出した靴を、彼女は手荒く落とした。
「打ち合わせ会議室で、『ペン忘れたから貸してくれ。』って口実作って話しかけてきたのは、あなたでしょ?」
「口実ぅ?あれはデスクまで戻る時間が無かったし、誰だってそうするだろ。大事な会議なんだから、遅れるわけにはいかないさ。」
真似して、音を立てるように靴を高くから床に落とした。
「君こそいきなり電話をかけてきて、『今から原案お持ちしますので。』と僕のところに来たことがあったじゃないか。」
「それこそ、オ、シ、ゴ、ト、だったでしょ。パンフレットの校正を頼みに行ったんだから。」
「だったら、君がわざわざ持ってくる必要は無かっただろう? バイク便に頼めば時間短縮になったし、君も他の仕事が出来てたんじゃないか?」
「はぁ?『現物だけもらっても、説明が無きゃ全体像が掴めない。』と以前おっしゃってたのは、どなた?」
右肩に提げていたトートバッグを両手に持ち替え、靴紐を結んでいた私を見下ろしている顔は、 少し上気してヒステリックに見えた。
「そもそも、人の話をそ知らぬ振りして立ち聞きするなんて、いい大人のすること?」
「話し替えたな。立ち聞きなんてしてないさ。言ったろ?飲み物を買うのに迷ってたって。」
「ミルク入りの飲み物、嫌いじゃなかった?」
「…ま、どうでもいいさ。とりあえず今は、こうして仲良く温泉を楽しめてるんだから。」
トートバッグが、頭を掠めた。
「また逃げたわね。あ~あ、いつもこうなっちゃうんだから。」
そう言うと、靴を突っかけて先に外に出て行った。
空は見事に晴れ渡り、階段に置いてある膝丈の小さな雪だるまは強く光を反射して、目を細めなければ見ていられない。先ほどの白い犬は姿が見えず、その代わり灰色のやつが尻尾を振りながら近づいてきた。大きさはほとんど同じだが、こちらのほうが愛想いい。どうやらミセスのようだ。
「犬とはいえ、女性にこうまで愛想よくされると気持ちいいね。」
「そう?じゃあ、人間の女性は要らないってわけね。」
「やきもち焼くなよ。」
「ばかね。」
その彼女、押し倒さんばかりに近寄ってきて、手や顔をなめまくる。ひとしきりじゃれると『よし、また来てね!』とでも言うようにこちらを見つめ、そしてぷいと横を向き、後から出てきた老夫婦のもとへ駆けていった。右手の岩肌には小さな滝が流れ落ちていて、その下には源泉と湧き水を飲めるようになっている。備え付けの柄杓で源泉を受けて、口に含む。強い硫黄の匂いだ。そのまま飲み込む。泉質が炭酸泉でもあるので、喉を通るときにさわやかさを感じる。しかし同じ炭酸を含んでるとは言え、ビールのようにお代わりまでする飲み物ではない。
「ご主人の彼女、亡くなったんですって。」
「えっ?」
「去年の夏に交通事故で。2年くらいお付き合いされてたそう。」
「ちょっと待った。彼女って…」
「ご主人の、浮気相手。」
「浮気って…、そんな話…」
「奥様、淡々と話されてた。」
「よくまあ、そんなことを…」
彼女の差し出したハンカチで口を拭った。アナスイの香りが鼻をくすぐる。
「『赤の他人の君に話せたものだ。』とでも言いたいんでしょう?うーん、そうなんだけど、どういう訳か聞くはめになっちゃったのよ。」
「世間一般的にはキレて、離婚だ慰謝料だって騒ぐだろうがなあ。」
「心が広いのか、自分が原因と片付けちゃってるのか、よくわかんない。いずれにしても、今は家族四人でいられることが幸せで楽しくてしょうがないっておっしゃってた。」
まだ私を見下ろした格好だったが、視線は足先でもて遊んでいる小石に向いていた。
「私なんかとてもじゃないけど彼女のようには考えられない。何時までも根に持って、事あるごとに口に出して、絶対に許さないわね。」
「おー怖!浮気するときは、絶対に‟人知れず静かに‟を心がけなきゃ。」
首をすくめたが、トートバッグは彼女の右肩に掛けられたままだ。
「強がり言うのは、やめたほうがいいわ。」
見上げると、顔に不敵な笑みが浮かんでいた。
「それは予防線かい?タカをくくってると、足を掬われるぞ。『私は浮気をしています』と、正直に言う男がどこにいる?陰でこっそりやってれば、わかりゃしないだろ。」
立ち上がった私を見上げた緋乃の頬が、ふっと緩んだ。
「まず、あなたにそんなことは出来ない。それに、万が一悪さしたとしても、話をすればすぐわかるわ。」
「軽く見られたもんだな。これでも海千山千の客と、丁々発止やってる営業マンだよ。君をだますなんてわけないさ。」
「わかってないのね、本当に。ところでさっきの露天風呂、奥はほんとに冷たかったわね。 私なんか1分も入ってられなかったけど、あなたなら5分は楽勝だったでしょうね?」
一瞬ドキリとしたが、まさか『冷たさに震えてすぐに飛び出した』とは言えない。面子にかけても。
「もちろんさ。次第に暖かく感じたよ。」
「ふふっ、ほら嘘ついた。ほんと、わかりやすいクセなんだから。」
「クセ?なんのこと?」
「さぁね。それより、おそば。早く行きましょう、もうおなかペコペコよ!」
くるりと背を向け、車へ向かってスタスタ歩き始めた。 彼女の長い髪を、暖かい昼の風が少し重そうに優しく揺らして過ぎていく。不意に足元でくしゃみが聞こえた。見ると、例の白い犬が緋乃の後姿を見送っていた。物憂げに首を回し、上目遣いで何か言いたげにこちらを見た。
「『所詮男は女の掌の中で転がされているもの』ってか?」
別に答を求めたわけではなかったが、首をうなだれ、建物の入り口に座っているもう一匹のほうへ向かって歩き始めた。
「だよなぁ、悔しいけど。」
犬の後ろ姿に、男の哀愁を感じるとは。




