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  作者: 東郷十三
11/46

11、再び音

丘の上の檜の背後には、見事な青空が広がっている。気温も上がり始めたようだ。内湯で軽く互いに背中を流し、休憩室へと入る。室温は16℃、火照った体には気持ちいい。緋乃が湯飲みを温めた湯を外に捨てに行こうとドアを開けると、入ってきた空気はあっという間に部屋の温度を1℃下げた。

大袈裟に震えながら戻ってくると、

「お茶で我慢!」

そう言いながら、急須にポットのお湯を注ぐ。いい香りだ。これで嗅覚も一応満たされた。熱いお茶を一口すする。かすかな甘味と渋さが口の中に広がり、味覚も満たされた。ゆっくり飲み込み、喉の渇きを癒す。


「さっき車の中で、『もう聞こえなくなった』って言ったけど、何のこと?」

覗き込んだ私の目を見ないまま、両手で包んだ湯飲みからゆっくり口を離し、ほーっと息を吐いた。

「“カタカタン、カタカタン”って。わかる、これなんだか?」

「ちょっと待った。質問したのは僕だよ。」

「ごめん、ごめん。フェリーのこと、話したでしょう。周りの景色が見えるから旅情を感じるっていう風に。同じ理由でドライブも列車の旅も好き。でも、列車が一番“距離”と“スピード”を感じれるんじゃないかな。ドラマでの旅立ち、別れのシーンにはよく列車が使われてるし。」


 イメージはわかる。小さな荷物を抱えて列車に乗り込む彼。対面シートの窓側に座ると、開いた窓越しに彼女が微笑む。突然響く出発の笛の音、はっとする2人。列車と並んで歩いていた彼女はやがて走り出し、ホームの端で息せき切る。

「恋人を乗せて遠ざかっていく列車に、彼女が両手を口に当てて何か叫ぶの。でもその声は汽笛に掻き消され、窓から身を乗り出して手を振る彼の耳には線路から”カタカタン、カタカタン″という音だけが聞こえる。ふふっ、これって昭和の恋愛ドラマあるあるだね。」

少女のように笑う。

「でも電車で通勤している私にとってみれば、毎日耳にするあの音は、時に葬送行進曲よりもおぞましく思えるよ。」

肩をすくめ、わざと震わした声で言った。

「葬送行進曲とは穏やかじゃないな。そこまで重く考えることはないと思うよ。会社に着く前からそんな調子じゃ、楽しく仕事なんかできゃしない。まるで山に登りながら頂上に近づいていく喜びより、こんなに高いところまで来てしまったっていう後悔を…」

「はい、もうおしまい。」


飲み終えた湯飲みをトンとテーブルに置いて立ち上がると、ジャケットに腕を通した。

「ところで解説者さん、このあとのご予定はいかようになってますの?」

おどけた口調と、例の表情。

「あ、いや、そろそろ出発しようか。気温も上がっただろうし、山道の雪もだいぶ融けたんじゃないかな。」

「じゃ、行きましょう。お昼、食べ損ねちゃう。」

 昼食は、帰り道にある手打ち蕎麦屋で食べることにしている。主が脱サラで始めた小さな店だが、なかなか美味いと評判だ。“蕎麦打ち教室”に会社勤め時代に一度参加しただけで、後は自己流だという。開店前は麺を打つたびに知り合いに食べてもらい、その意見を聞き修正を加えていったそうだ。変に独りよがりでない、皆の意見をうまくハーモナイズさせて作られた本当の手作りのようだ。


 もっとも、多大なる“舌犠牲”の上に出来上がったことは間違いない。

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