5
全く実にならない世間話から漸く開放されたリリナカーナを待っていたのは、不機嫌な婚約者との気まずい沈黙だった。
家路を辿る馬車の中で二人きり。
普段ならば夜会で得た情報をリリナカーナが話して聞かせ、それにカルロが言葉少なに相槌を打つ。
しかし今は、真正面に座ったカルロは眉間にしわをよせて、険しい目つきでリリナカーナを見ていた。
「リリナカーナ」
沈黙を破ったのはカルロだった。
「はい」
名を呼ばれて返事をする。
しかしカルロはリリナカーナの名を呼んで黙り込んでしまったので、リリナカーナは自分からカルロに尋ねた。
「どうしました?」
「アルフェンディ・オデュッセイと一緒だったのか?」
その咎めるような視線と声色に、リリナカーナはたじろいだ。
「いえ、ええ、庭で酔を覚まそうとしていたところにいらっしゃって、少しお話を」
何故カルロが知っているのだろうか。
あの実にならない世間話は結局、アルフェンディを探しにきた彼の友人の誰かに呼ばれて彼が会場へ戻ったことでお開きになった。
だから彼は最後まで自分が話をしていた相手がわからなかったはずなのだ。
それとも彼とその友人の後に庭から戻ってきたところを見た誰かがカルロに伝えたのだろうか。
――妙な噂になることだけは避けたい。
婚約者のいる身で、それ以外の親族でもない男性と二人きりになるというのは不可抗力でもよろしくない。
そしてそんなことを噂されてしまうのも、よくないことだった。
「あんな暗がりで?」
「……私がどこにいたかご存知でしたの?」
リリナカーナは純粋に驚いた。
カルロの言う暗がりが庭の木陰のことなら、彼はリリナカーナが会場にいなかったことに気づいていたことになる。
それが、リリナカーナには意外に思えた。
「婚約者の姿が見えなければ探しもする、庭へ出るのであれば私に一言あってもよかったのでは?」
「まあ、ですがカルロ様とご友人がたとのお話に水を差してはいけないと思いましたので」
普段のカルロらしくない物言いに、リリナカーナはまたも驚いた。
普段であれば、リリナカーナが友人たちと何処にいようとも何も言わない。
友人の女性と友人ではない男性では扱いが変わるのは当然のことだろうが、そこまでカルロがリリナカーナを気にかけていることに、リリナカーナは驚いていた。
リリナカーナにとってカルロはこれまで出会った中で唯一の男であったが、カルロにとってリリナカーナが気にかける程の女であるとは思っていなかった。
カルロはリリナカーナに対して無関心なのだと、そう思っていたのだ。
「それにすぐに戻るつもりだったのです」
カルロの眉間のしわが深くなったのを見て、リリナカーナは付け加えて言った。
「それにしては随分と話し込んでいたようだが?」
「何が言いたいの?」
まさかリリナカーナが“誰か”のように婚約者のある身でありながら別の男性と懇意にするような女だと、カルロは思っているのだろうか。
そう考えて、頭に血が上ったリリナカーナの視線も言動も厳しいものになっていた。
「君はリリーローズ・オデュッセイが嫌いなのか?」
そしてカルロの口からリリナカーナの考えていた“誰か”の名が出て、リリナカーナは動揺した。
「何故関係のない方の名前が出てくるのかしら?」
「君の友人、シュベール伯爵令嬢はリリーローズ・オデュッセイの悪評をまことしやかに囁いて回っていると」
「まあ私の友人が?」
正確にはリリナカーナの友人のグループに所属している一人であって、リリナカーナ自身が彼女と親しくしている訳ではなかったが、そこは訂正しなかった。
「そうね、彼女も複雑な事情がありますから、そのような噂も仕方ないかもしれませんわね」
事実彼女は薔薇姫のことを毛虫のように毛嫌いしている。
嫌っているのはリリナカーナも同じだが、リリナカーナとの違いは彼女は自分の婚約者を取り戻そうと積極的なところだろうか。
気が強く攻撃的な面があり、彼女は積極的に薔薇姫の失脚を望んでいる。
志を同じくする仲間と共に、多くのコミュニティで薔薇姫の悪評を挙げ連ねているという話は、リリナカーナも友人づてに聞いたことがあった。
本来であれば咎められるそれも、名だたる家の見目麗しい男性たちに囲まれて同性の友人の少ない薔薇姫を庇う女性より、彼女に想い人をとられたと考える女性が圧倒的に多いことも相まってまことしやかに広がっているのだろう。
「ですがオデュッセイ公爵令嬢の悪評とは、本当に根も葉もない噂なのかしら?」
荒唐無稽な話も中には紛れているのかもしれない。
しかしリリナカーナの知る、カルロの言うところの“悪評”とは、やや捻くれた見方でも彼女の現状のありのままだったように思う。
そもそも彼女の“悪評”については、彼女を常に取り囲んでいる男性たちにも原因があるのだ。
彼女に同性の味方も友人もいないのも、彼女に近づく女性を阻む彼女に夢中になった男性たちが原因である。
そんなこと、取り囲んで蝶よ花よと褒め称えている彼らは考えもしないのだろう。
「王子殿下の婚約者に対してそのような行いは褒められたものではない」
これが王族相手であれば彼女と彼女の周囲の行動も誰からも何も言われなかっただろう。
心の中で何か思っていても、不敬罪を恐れて皆口を噤んだに違いない。
そうでないのは、彼女はその美しさと気品から姫と褒め称えられようとも公爵家の娘で、現状王子殿下の婚約者でしかないからだ。
これが王子殿下と婚礼を挙げて正式な夫妻となったなら、彼女も王族の女性として扱われ、王子殿下が存命である限り他の令嬢たちは何を思っても口を噤むだろう。
オデュッセイ公爵家は公爵という爵位の高さと裏腹に、目立った功績のない家だ。
ただその歴史の長さと、遥か昔に王族が降嫁しただけの家である。
そしてオデュッセイ公爵家より歴史の長い家もあれば、爵位に限らず王族の降嫁があった家は他にもある。
国にとっての有益性を考えれば、薔薇姫と王子殿下の婚約には大した利がない。
彼女の異性を虜にするある種の才能は、利点とも言えるが欠点とも言える諸刃の剣だ。
未来の妃が多くの男を侍らせていることになれば、と難色を示す者も少なくない。
ただ王子殿下が薔薇姫に執心しているからこそ、王族の不興を買わぬよう皆表立って何も言わないのだ。
それをわかっているからこそ、彼女に対する令嬢たちの評価は低く、不満は多い。
「火のないところに煙は立たないとも言いますわ」
「……君は、やはり彼女が嫌いなのか?」
澄ました顔で言い切ったリリナカーナを暫く無言で見つめて、カルロはまるで信じられないものを見るような目で問いかけてきた。
何をそんなに驚いているのだろうか。
リリナカーナにはやはり不思議だった。
彼女の“悪評”が彼の耳に届いたのも、それを口にする令嬢たちが多いことに起因する。
薔薇姫を敵視する同性がいかに多いか、それを彼女を取り囲む彼らは知らないのだろうか。
最早社交界に、彼女の味方になる令嬢などいないというのに。
「ええ、嫌いです」
リリナカーナははっきりと告げた。
何れは、彼の耳にも入る真実だった。
リリナカーナは積極的に彼女を追い落とそうとは考えていなかったが、失脚して笑えるだろう程度には、彼女が嫌いだった。
リリナカーナのささやかな夢の障害たる彼女がいなくなって欲しいと人知れず願う程には、大嫌いだったのだ。
「君は彼女と話したこともないだろう?」
それはおかしな問だった。
話したことがなくても、顔を見たことがなくても、人は人を嫌いになれるし憎むことも出来る。
それはリリナカーナが薔薇姫と出会って学んだことだ。
「ええ、ありませんわ。 でもそれが私が彼女を嫌いにならない理由になると何故思うの?」
相手をよく知らないことが好きな理由になりえるのに、嫌いな理由にはならないと何故思えるのだろうか。
リリナカーナにはそれが心底不思議だった。
「よく知りもしないで嫌いだとは、私怨としか」
「私怨ですわよ? どうしようもなく、私怨でしかないのです」
リリナカーナはカルロの言葉を当たり前のように肯定した。
リリナカーナの薔薇姫に対する感情は、私怨以外のなにものでもない。
「私は私の価値観で彼女を嫌いだと思っているのです、それは他の誰であろうとも変えることは出来ませんわ。 私以外の誰にも」
もちろん貴方にも、とは口にしない。
「私あなたのことは本当に好きだったわ、だってあなただけでしたもの……私の前で一度としてあの方の名を口にしなかったのは。 でもそれももうおしまいね、私結婚にはそれなりに夢を見ているの。 だからと言って恋愛結婚を望んでいる訳じゃないわ、私が結婚に、結婚相手に望むのはたった3つだけ。 私にとって好ましい相手であるかなんてどうでもいいの、我が伯爵家への利になること、貴族であること、薔薇姫に夢中でないことだけよ? 私は私の大嫌いなあの方を想っている方とは絶対に結婚したくないの」
そうなるくらいなら死んだほうがマシだ、とも口にしない。
「送ってくださってありがとう、ロクサーヌ様。 どうかお元気で」
せめて最後まで悠然と。