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「誰かいるのか?」
木陰に隠れていたリリナカーナは、突然かけられた男性の声に驚いた。
「誰かいないのか?」
暗がりを何かを探すように動く足音に、リリナカーナは息を潜めた。
こんなところで泣いている姿を、誰であろうとも知られたくなかった。
足音はどんどん近づいてきていた。
心臓の音がうるさい。
緊張で涙は止まったが、手の平には汗が滲んでいた。
探るように動いていた足音が、近くで止まった。
「そこに誰かいるんだろう? 返事をしてくれないか?」
真っ暗な庭の奥に明かりも持たずに入るのは危険だからと、まだ会場の明かりが届くところの木陰に隠れたからか、人がいることはわかっても顔までは見えていないようだった。
そのことに安堵しながら、リリナカーナは小さな声で返事をした。
唇が震えて、上手く言葉を紡げなかったのだ。
「気になさらないで」
なんとか言えたのはそれだけだった。
「しかしこんなところに座り込んでいるようだが、具合が悪いのではないのか?」
「酔を覚まそうと風にあたっていたのです、どうか気になさらないで」
苦しい言い訳だった。
早く立ち去ってと願うも、足音は聞こえてこない。
「このような暗がりに女性が一人では危険です」
「いえ、すぐに戻りますから」
「ではご一緒に」
「いえ、私は……」
「泣いているのですか?」
男性にそう問われて、リリナカーナは羞恥で頬が熱くなるのを感じた。
なんて無神経な男だ、とリリナカーナは心のなかで見知らぬ誰かを罵った。
――こういう時、紳士であれば見ないふりをするものではなくて?
「失礼、私はアルフェンディ・オデュッセイと申します。 宜しければ私もこの木陰で酔覚ましをしても?」
アルフェンディ・オデュッセイ。
リリナカーナが何より嫌いな、薔薇姫の兄。
「あの、いえ……どうぞご自由に」
断ろうとして咄嗟に言葉を喉奥に押し込めた。
ここは自分の邸ではないし、リリナカーナに与えられた場所ではない。
リリナカーナに独占権もなければ、相手と自分には爵位の差があった。
心象を悪くして、父に迷惑をかけたくはない。
「風が気持ち良いですね」
リリナカーナの隣に腰をおろしたアルフェンディは、どうやら誰ともわかっていない、名乗りもしなかったリリナカーナと会話を続けるつもりらしい。
「ええ、そうですね」
明らかに素っ気ない返事も気にならないのか、アルフェンディは変わらぬ調子で言葉を紡ぐ。
「今日はお一人で?」
「ええ、いいえ……婚約者と」
適当に相槌を打とうとして、慌てて否定する。
どうでもいい嘘はつくべきではない。
馬鹿正直でいる必要はないが、調べてすぐわかるようなことで嘘をつき、妙に勘ぐられても困る。
「婚約者殿はどちらに?」
「ご友人がたと積もるお話があるようです」
真実ではないが、嘘でもない。
そういったさじ加減の微妙な言い回しの、もう聞いてくれるなというやや遠回しな牽制も、無神経な男には通用しないらしい。
「婚約者より大事な話が?」
「お仕事の話は私にはよくわかりませんから」
はぐらかし続けているにも関わらず、会話を止める気配のないアルフェンディに、リリナカーナは少しずつ苛立ちを覚え始めていた。
「それでも姿が見えなければ探しているかもしれません」
きっと探していない。
リリナカーナは頭の中で言った。
そして口からは曖昧な言葉を吐き出した。
きっと会場内にリリナカーナがいないことにも気づいていないに違いない。
リリナカーナはそう頭の中だけで自虐した。
「…………何故泣いていたのか、理由を聞いても?」
――嫌な人、婚約者のいる娘にそんなことを聞いてどうするの?
貴方の妹である薔薇姫様に夢中で婚約者の私は今正に蔑ろにされているのよ、などと言える筈もなかった。
「……理由など、酔が回ってしまったのでしょう、今夜のワインはとても美味しかったから」
黙りこんでも不自然かと思い、曖昧に濁そうとして、新しい話題を提供してしまう。
はっきりと顔を見られることを恐れる余り、リリナカーナは自分から立ち上がってこの場を去る事が出来ない。
針で刺されるような緊張感の中、全く実のない世間話は暫く続いた。