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リリナカーナの中のカルロという婚約者像は急速に変化していた。
変化はしていたが、結局リリナカーナがカルロに恋をしていることは変わりなかった。
これまでの印象こそが惚れた欲目だったのかもしれないと頭で考えても、心は初恋を切り捨てられないでいる。
カルロに指摘された通り、リリナカーナにとって他人とは第一印象で九割が決まる。
そしてその九割が悪くなることはあっても良くなることは滅多とないとカルロは言ったけれど、それは正解ではない。
リリナカーナにとって第一印象が変わることが滅多とないのだ。
悪くなることはなく、良くなることもない。
そもそもリリナカーナにとって他人とは大抵が良くないものなので、それを押し隠して当たり障りのない付き合いが出来れば何だって構わないのだ。
必要なのは本当に一部の例外と心安らげる空間で、それ以外はさしたる問題のないものだ。
その上で、スヴェンやカルロは一部の例外で、自宅やフェディントン伯爵領が心安らげる空間と言える。
逆を言うとオデュッセイ兄妹のような毛嫌いする相手というのが、リリナカーナにとってはかつてないもので、ある意味特別と言えるのかもしれない。
つまるところ、リリナカーナにとって現状どれだけカルロの言動に腹を立てていても、それでカルロ自体を嫌いになることはないのだ。
嫌いになれないのだから、好きなんだろう。
リリナカーナの本質はとても単純である。
好きの反対は無関心と言う人もいるが、リリナカーナにとって、好きの反対は嫌いである。
これからもカルロがこういった態度で接してくるなら、その度にリリナカーナは眉間に深いしわを刻んで腹を立てるだろう。
けれどそんな時はきっと今のように苛立ちや不機嫌を相手にぶつけたり、物理的に黙らせたりするのだろう。
それは案外、悪くないのかもしれない。
良い子のふりが必要ないと相手が言うのだから、その言葉に甘えてしまえばいい。
そうして良い子のふりを止めてしまえば、反撃だって何だって出来るし、何より自分の内に溜め込まずに済む。
良い子ぶって泣き寝入りする必要がないというのは、割りと魅力的な要素だった。
そこまで考えて、リリナカーナは掴まれた手を見下ろしていた視線を上げた。
カルロと視線を合わせて、にこりと微笑む。
するとつられてカルロも笑みを浮かべ、僅かに手の拘束が緩んだ。
その隙きを見逃さなかったリリナカーナはさっとカルロの手を振りほどき、そのまま勢い良くカルロの横っ面に平手をお見舞いした。
鍛えられた騎士と言えど、油断していた相手に構える間もなく繰り出された平手は、女性の力でもかなりの痛みを伴ったらしい。
利き手である右手を思い切り叩きつけたので、それは見事な音がした。
カルロの左頬には、くっきりと綺麗にリリナカーナの手形が残っている。
痛むのだろう赤くなった頬を片手でおさえて、カルロは呆然とリリナカーナを見ていた。
間抜けにも見えるその表情に、リリナカーナは気を良くして笑みを深める。
「私が良い子じゃなかったらその鼻陥没してたかもしれないわ」
リリナカーナが笑顔で告げれば、カルロの口元が僅かに引きつる。
「頬骨がまだ悲鳴を上げているんだが……鼻は勘弁してくれ、本当に」
時折指先で撫でさすったりつついたりして、カルロは頬骨の無事を確かめた。
「なら私がとっても良い子でいられるように、貴方も良い子でいることね」
ひらひらとカルロの眼前で右手を振るリリナカーナ。
「でもずっと良い子じゃ疲れるだろう?」
「そうしたらいつでも御見舞してさしあげてよ? 疲れも吹っ飛ぶんじゃなくて?」
ひらひらと振っていた右手をぱちんと左手に当てる。
手の平がぶつかる音にカルロの肩がほんの少しだけ揺れた。
「疲れより先に骨が吹っ飛びそうだよ」
どうやらリリナカーナの平手は思う以上に痛かったらしい。
「失礼ね、貴方それでも近衛騎士になる男なの?」
騎士の花形になろうかというのに、女の平手に参っているようではどうなのか。
リリナカーナが意地悪く言えば、カルロは真剣な表情と声音で軽口をたたいた。
「君は今すぐ淑女を辞めて騎士団に入るべきだな」
まだ違和感があるのか左頬をおさえたままのカルロはやはりどこか間抜けに見える。
その姿に更に気を良くしながら、リリナカーナはカルロの軽口に乗っかった。
「まあこんなか弱いレディになんてこと言う人なのかしら……もう一回味わいたいの?」
もう一度右手を軽く振って見せれば、カルロの視線が手の平を追いかけて動く。
まるで初めての玩具を警戒しつつも興味を惹かれている猫のようだ。
「心底御免こうむる、か弱いレディの一撃じゃなかったよ、君は出世しそうだ」
軽口に皮肉を混ぜながらも、相変わらずカルロの視線はリリナカーナの手の平を追いかけている。
「やっぱり片方だけっていうのは良くないと思うのよ、今のドレスの流行だってシンメトリーなんだから、さあ右頬も差し出しなさい」
片頬だけを真っ赤に染めたカルロを真正面から見据えて、リリナカーナは提案した。
「私の顔はドレスではないので結構」
最近流行りのドレスはシンプルなスカートに左右対称の刺繍やレースで飾り付けたものだ。
それに因んで右頬にも手形を付けようというリリナカーナの提案を、カルロは丁寧に断った。
「遠慮はいらないのよ?」
ぱたぱたと右手を繰り返し振って見せれば、カルロの表情は更に硬くなっていく。
その様を見ているだけで、リリナカーナはそれまでのカルロの発言を許してしまえる気がした。
それ程に楽しかった。
「気持ちだけで嬉しいよ」
カルロの声は弱々しいものだった。
「……残念ね」
心の底から残念がるリリナカーナの手を再び捕まえて、カルロは今度こそ離さないと言うかのように力を強めた。
「私は認識を改める必要があるようだ」
「私は今さっき改めたわ」
貴方の印象をね、と言えばカルロは少し眉根を寄せてリリナカーナの右手を見た。
「君はその、平手は封印した方がいい」
それきり黙り込んだカルロを見て、リリナカーナはもっと早く物理的に黙らせておけば良かったと笑った。




