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「まるでどうでもいいみたいね、溺愛っていうのも誰も彼もが王子殿下は薔薇姫を溺愛しているって周りが言うだけで具体的な話がないのよ」
「具体的って?」
問いかけるリリナカーナにびしっと指先を突き付けてスヴェンは言った。
「例えば貴女のご両親みたいに、フェディントン伯爵が妻を喜ばせる為だけに刺繍を習った、とか」
リリナカーナの父であるフェディントン伯爵は妻の誕生日に誕生花の刺繍を施したドレスを贈った。
伯爵家懇意の仕立屋に仕立てさせた流行りの型の白いドレスに、伯爵夫人の瞳の色と同じ紺碧の糸で施された刺繍、それ自体は珍しくない。
ただフェディントン伯爵の贈り物が他と違ったのは、その刺繍を、他でもないフェディントン伯爵自身が施したということ。
伯爵は妻の為に仕事の合間を縫って本来必要でない刺繍の腕を磨き、それは見事なドレスを完成させたのだ。
そのドレスは今も夫人の私室に大切に飾られており、誕生日にはそれを身に纏って伯爵邸でささやかなパーティーを開くのだ。
「そんなこともあったわね」
フェディントン伯爵夫妻といえば、社交界一睦まじい夫婦として有名だ。
娘であるリリナカーナからすれば未だ終わらぬ蜜月にうんざりすることもあったが、それでも実の親の仲睦まじい様はリリナカーナにとって理想の夫婦の形だった。
「だって溺愛溺愛って言う割にただ片時も離さないってだけでしょ? それも人前でだけ、二人きりの時間ってないみたいじゃない」
「確かに殿下には常にご友人の誰かが付き添っているみたいね、あと薔薇姫の兄も」
薔薇姫から片時も離れない美貌の兄君。
薔薇姫失脚の策が上手くいかない要因の一つとされている。
「溺愛している婚約者が他の男に誰が見てもわかるような好意を向けられてて何も思わないのかしら?」
そもそも婚約者との逢瀬に、その婚約者の兄も付属するというのも妙な話だ。
夜会などでは妹と離れて行動することもあるようだが、その夜会では妹は王子と取り巻きに囲まれている。
「正直どうでもいいし、永遠に関わりたくないわ」
それはリリナカーナの不変の心情だった。
出来ることなら視界にも入れたくない、その名を耳にするのも嫌というのに、何処へ行っても付き纏う薔薇姫の名に、リリナカーナは益々嫌悪感を募らせるのだ。
それも私怨でしかないことを理解しているからこそ、虚しいばかりだが。
「ところで貴女の婚約破棄は絶対に無理だと思うよ」
「どうして?」
「何故ロクサーヌ公爵家が次男のとはいえ、フェディントン伯爵家の娘との婚約を承諾したと思う? フェディントン伯爵家にそれだけの価値があるからよ、貴女の家は裕福で、父君には商才もあるわ、領地は豊かで領民も領主を尊敬してて税収は何処よりも安定してる……これって凄いことよ」
「我が家との繋がりが欲しいから婚約を承諾したことならわかっているわ」
「正直渡りに船だったんじゃないかしら? いろんな家がフェディントン伯爵家との確かな繋がりを欲していたわ、そんな時に伯爵が溺愛する娘が一目惚れしたようだからって婚約の話を伯爵家の方から持ち込まれて……貴女たちの婚約は正直フェディントン伯爵家よりロクサーヌ公爵家に利があるようなものよ」
「だから、カルロが私を好きじゃなくてもロクサーヌ公爵が婚約破棄を認めないってこと?」
「貴女の婚約者殿の気持ちは私にはわからないけれど、普通の貴族なら破棄しないってことよ」
普通の貴族なら。
薔薇姫の登場以降、頻繁に聞くようになった言葉だ。
普通の貴族なら。
その普通の貴族でいられない人間が、薔薇姫の周囲には溢れている。
婚約者を放って別の女性に入れあげる者。
他人の婚約者と知っていて横恋慕する者。
一人の女性を破滅させようと徒党を組む者。
どれも普通の貴族なら、隠し通すか、端から手を出さない。
リリナカーナは考える。
普通の貴族なら。
薔薇姫を私怨でもって毛嫌いするリリナカーナは果たして普通だろうか。
そしてカルロは、まだ“普通の貴族”だろうか。
「リリナカーナは婚約者殿に好きになってもらいたいの?」
「当たり前でしょ、本当に好きだったのよ」
リリナカーナがカルロに惹かれた切っ掛けは皮肉にも薔薇姫だ。
リリナカーナにとって彼だけが特別だった。
それはカルロ自身を知る過程でより深く熱くなることはあっても、冷めることはなかった。
リリナカーナは自分の遅い初恋に常に真剣だったし、結婚してからでも愛が育めるものと希望を抱いていた。
だからカルロに好意を伝えられることがなくとも、彼に嫌われることだけはないよう注意してきた。
無理をすればぼろが出る。
そうならないように、細心の注意を払って接してきたのだ。
それは偏に、カルロへの慕情に起因する。
好きだから好かれたい、好きだから嫌われたくない。
ただそれをわかりやすく言葉や態度で伝えることが苦手なだけで、リリナカーナの行動原理は単純だ。
「ならそれを伝えなくちゃ、これは二人の問題で、リリナカーナが勝手に自己完結しちゃいけない話だわ」
二人でよく話し合って、よく考えて。
それはリリナカーナが父にも言われたことだった。
よく考える。
その為に、二人で話す。
「……そうね、最後になるかもしれないけど、きちんと話をするべきよね」
“普通の貴族”でいるのはリリナカーナかカルロか、或いはどちらもそうなのか、どちらともそうでないのか。
二人で話し合って、考えて、それから決めたって遅くはない。
リリナカーナは、自分の心に重くのしかかっていたものが少しだけ軽くなったように感じた。
「ありがとう、スヴェン……貴女と話せて本当によかった」
「どういたしまして、頑張ってね」