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その日の夕刻、リリナカーナは婚約の破棄を願い出た。
父は案の定渋い顔をして、私ではどうにもできないと言った。
ただリリナカーナの突然の申し出に至った理由を聞いて、暫く待ちなさいと言った。
リリナカーナにはそれ以上どうすることも出来なかったので、その件については父に任せることにした。
そして翌日、リリナカーナはマクレーバル伯爵家を訪ねた。
スヴェンに直接会って、話がしたかった。
「いらっしゃい! リリナカーナ」
マクレーバル伯爵家のマナーハウスで、スヴェンがリリナカーナを待っていた。
「久しぶりね、スヴェン。 結婚おめでとう……はまだ早かったかしら?」
「ちょっと早いかもね、でもありがとう」
スヴェンははにかみながら言った。
照れがあるのか、淡く朱色に色づいた頬が愛らしく見えた。
それからスヴェンに引っ張られるように急かされて、リリナカーナはスヴェンの部屋に案内された。
スヴェンの部屋はリリナカーナの部屋とは全く違う。
おそらく一般的な令嬢の部屋とも違うだろう。
彼女の部屋は天井まである高い本棚が壁の役割を担っている。
窓には分厚いカーテンがかけられ、陽光を遮っているので昼間でも仄暗い。
彼女の部屋はどちらかというと書庫だった。
「ちょっと散らかっててごめんね」
カーペットの上に乱雑に積み上げられた書物を眺めていれば、スヴェンが苦笑して言った。
「いつものことじゃないの、それより本を床に置いて大丈夫なの?」
散らかっているのは相変わらずだったが、以前よりも更に本が増えたようだった。
「ラグの上は靴のまま上がっちゃ駄目よ、本の為に敷いてるの」
乱雑なようでいて、隙間なく積み上げられた書物で境目もなくなっていたが、どうやらラグが敷かれていたらしい。
「それってどうなの?」
「どうって?」
リリナカーナにはなんとも言えない違和感があったが、部屋の主であるスヴェンは全く不思議に思っていないようで、なんだかもやもやする気持ちを無駄に抱えることになった。
「……もういいわ、私はどこに座ったらいいの?」
まさか本の上じゃないわよね? 冗談めかしてリリナカーナがそう言えば、スヴェンは声をあげて笑った。
それは全く淑女らしい笑い方ではなかったが、リリナカーナは気にしなかった。
「こっち、こっちは靴を脱がなくても平気よ」
本の塔の影になっていたようで、窓際には品の良いテーブルが一脚と、揃いの椅子が二脚あった。
「それで突然どうしたの? 貴女が事前の連絡もなしに訪ねて来るなんて珍しいじゃない」
向い合って座るなり、スヴェンが興味津々といった風で尋ねた。
「急に来たことは悪かったわ、ごめんなさい」
普段であれば、事前に訪問を知らせる手紙を送る。
しかし今回はどうしても急いでスヴェンに会いたかったので、連絡のない来訪だった。
「平気、気にしてないわ、むしろ嬉しいくらい」
謝罪するリリナカーナの両手を取って、スヴェンが言った。
リリナカーナの手を掴んだまま、自分の両手をぶんぶんと上下に勢い良く振る。
「会えて嬉しい」
幼子のように満面の笑みを浮かべるスヴェン。
「私もよ」
表情・声色・態度、その全てで喜びを少し大袈裟なまでに表現するスヴェンを見て、リリナカーナの表情も和らいだ。
「それで? どうしたの?」
「私、カルロ様との婚約をなかったことにしようと思ってるの」
「え!? なんで? 一目惚れだったんでしょ?」
「一目惚れって……まあそのようなものだけど、彼、薔薇姫が好きなんですって」
「ああ……あのお姫様? でもそれ、婚約者殿から聞いたの?」
スヴェンは薔薇姫の名をけして呼ばない。
毛嫌いしているリリナカーナを気遣っている訳でもなく、本人が薔薇姫を嫌っている訳でもないようだが、スヴェンは薔薇姫を「あのお姫様」と呼ぶ。
「直接は聞いてないわ、というか、聞けない」
これで直接好きだなどと言われたらどうやっても立ち直れない。
リリナカーナは自分勝手な自分をわかっていた。
「じゃあ何でそう判断したの?」
「士官学校時代からカルロが薔薇姫に尽くしてるって有名だったらしいわ、彼が近衛騎士に任命されたんだけど、それも薔薇姫を守りたいからだって」
「それって噂でしょ?」
「そうだけど」
エルーサ・シュベールを通して知ったことだったが、リリナカーナはカルロと薔薇姫についてだけは頑なに耳を塞いでやり過ごそうとしていたので、彼女の口から聞いたこと以外は余り知らなかった。
ただ、それとなく二人の間に何かがあるのだろうとは感じていた。
カルロが王子殿下と共にいる時、常に王子殿下の傍にいる薔薇姫と、意味深に視線を交わすところをリリナカーナは見たことがあった。