まだ眠る時間じゃないでしょ?
* * *
何処の商店街にも、一軒や二軒、古びた昔気質の一杯呑屋があるもんだ。
「夜桜亭」も、そんな呑屋の一つで、とっぷりと日が落ちると、たちまち何処からともなくやって来る草臥れた背広の団塊世代の溜まり場となっていた。特に毎日顔を出す面々は、店の端から端まで呼ばれりゃ走り回る店主の奥さんに、団塊をもじって「カタマリ団」などと呼ばれていた。
初めは皆、「あんただってそうだろ」と口々に言い返していたが、そのうちもう慣れっこになって、「ああ、俺たちゃ、カタマリ団の筆頭よ!」と、最近はトンとお目にかからなくなった生粋の暴走族のように、カタマリの大風呂敷を掲げては店で大騒ぎをしていた。
店主は店主でそういうことが嫌いじゃない。何を隠そう自分もその筆頭の一人ときたもんだ。
そうすると、一緒になって酒の肴を造っては呑み、呑んだら呑まれってな具合だ。そりゃもう、最後の方は奥さんのてんてこ舞いな姿だけが店に残っていた。
ただ、この店主ときたら料理の腕は良いのだが、呑屋の主人にしちゃ一つだけ水臭い口癖があった。こと酒を呑み出して暫くするといつもこれが出る次第だ。
「もう店じまいだ。帰れ、帰れ」
普通こういった商店街で細々やっている呑屋ともなれば、半刻ないし一刻程度の長居は多めに見るのが、世の常ってもんだ。だがこの店は違う。思い余って、半刻ないし一刻程度早く店じまいを迎えることも少なくない。これをやられると、困るのはうちらだけじゃない。当然、奥さんもだ。店を早くに閉めりゃ、当然売上も減る。そうすりゃ、自分等の明日の飯が心配だ。人の飯の世話している場合じゃない。
それだから、奥さんも奥さんで主人を何とかなだめすかそうと努力はする。そんなもんだから奥さんは奥さんでいつもの口癖が出てきてしまう。
「まだ眠る時間じゃないでしょ」
この会話を何度となく聞かされる羽目になる。
だが、主人は一度言い始めると梃子でも動かないような奴だ。最後には、傍若無人の俺らカタマリ団も「話にならん」とばかりにすごすごと帰る次第になるわけだ。「懲りずにまた来て下さい」と申し訳なさそうに頭を下げる奥さんに手を振りつつ、「また明日」と我等も帰宅の一途を辿る。
時には、店の前で酔いが冷めるのを煙草片手に待っていたりした。そんな時は、店の中から主人をなだめすかしながらも片づけを続ける奥さんの姿が、せわしない音と共に伝わってきた。まぁ、長年そんな主人に連れ添って奥さんは店を錐揉みしてきたもんだから、そりゃ恰幅もいい。おおよそ病気とも無縁な人のように思えたし、実際そんな気配をおくびにも出さずに元気な姿を毎晩見せていた。
そんなある日、いつものように常連三人揃って店に立ち寄ると、店の中で二人が大喧嘩をしていた。よく見ると店の中には客はおろか、いつもは奥の方に寝ている野良猫のドラ坊の姿すら見えない。
話を聞けば、奥さんに熱があるってんで主人が「今日は店を開けねぇ」と駄々をこねていたようだ。奥さんは奥さんで「店ってのは、お客さんのもんだ。自分の身体のことで迷惑かけられない」ってな具合だ。無論このまま話していてもどちらも引かずの押し問答になるのは目に見えた。
そこで、三人は「自分らの貸切にしてくれ」と頼むと二人とも黙りこくってしまった。常連三人のお願いと来たら、奥さんも押し切ろうにも難しい。主人は主人で、一人で何とかできるくらいの人数だ。三人でなんとか押し切って二人をなだめすかした。幸い次の日は、毎週一日この店の定休日だった。だから、奥さんに「明日はゆっくり身体をやすめな。」とぐい飲み片手に言うと、「定休日ってのは、うちらの休みと違うのよ。」と言う。「じゃあ、誰の休みなんだ?」と訊けば、「この店のお休みなのよ。」とまるで子供のことを話す母親のような顔をして言った。
そう言われてしまうとこちらも何も言えず、「今日だけは後始末は自分らも手伝わせてくれ。」と半分押し切るようにして奥さんを先に寝かしつけた。それから先は、しばらく主人の奥さんに対する愚痴が続き、その日の疲れを酒に癒してもらいに行ったのに、逆に疲れをもらってしまったような日になった。
数日後、店に行くと店の中の席数が若干減ったように見えた。主人に話を聞くと、あれから奥さんの体調がどうも優れないそうだ。かといって店をひとまず置いといて看病をしようものなら逆に怒られて、とりあえず一人で店を回せるギリギリの席数を作ったそうだ。かといって奥さんは奥さんでやはり店が気になるようで、ちらりちらりと店の奥から覗いては、主人の手が回らなくなりそうな時はすぐに飛び出してくる始末だった。
しかし、残念ながら主人は相も変わらず、料理を出しながら自分で酒を飲んでしまうし、そうなると当然酔っぱらってくる。好きなものは仕方がないが、結局はまたあの口癖が始まるのだ。そうすると結局この時ばかりは奥さんの出番になる。だが、「まだ眠る時間じゃないでしょ」と言いつつも身体のどこか不調な節がわれらにも見受けられて、前以上早めにお勘定させてもらうことが多くなった。
「夜桜亭」にそんな景色が一年近く続いた頃だった。町外れの公園の桜も満開で、この店も名の通り話の「夜桜」が咲いていた。
主人はいつものように酔っ払って、あの口癖を連呼していた。しかしおかしなことに奥さんがトンと出てくる気配がない。主人に訊くと、「ああ、体調が優れねぇんだ」と言って苦笑していた。
最初はその言葉を真に受けて、疲れて寝ているのだとも思っていた。しかし、主人の様子がどうにもおかしい。いつもは不動の構えのドラ坊も、さすがに心配になったか店の奥の方まで駆けていった。
すると、店の奥からドラ坊が、妙に忙しなく鳴いた。日ごろほとんど鳴くことのないドラ坊だ。こりゃおかしいと店の主人に無理やり見にやらせた。
しばらくたって、主人が普通に出てきた。「どうした?」と訊くと、「よく眠ってやがる」と一言言って自分のグラスに日本酒を注ぎ、ぐいっと一杯飲み干した。見ると、さっきまであれだけ酔っ払ってたように見えた赤ら顔が、急に白く冷めてきてるように見えた。皆不審がって主人を見つめていると、今度は突然皆にお酌をし出した。何事かと思ってみていると、客全員に酒を回し終わってこう言った。
「店開ける前なんだけどなぁ。……。女房が逝った。
今はよく眠ってるんだ。つうことだ。弔いの酒だ。飲んでくれ」
数秒間か数分間か、とにかく長い時間に感じた。
皆どうしていいかわからなかった。
自分らはなんて時に、なんて大騒ぎをしていたのかと思っていた。
主人もどうしてこんな時に店を開けるんだと、そうも思っていた。
そんな気持ちを察してか主人は話し始めた。
「俺もどうかしてる。何でこんな時に店開けて。でもなぁ。あいつの言うことだから聞いといてやりてぇんだ。店はいつものように開けておいてやりてぇんだ」
それからは、皆でどうしようもないくらいへべれけになるまで飲んだ。
しかし、何処までいっても酔えなかった。
頭だけは冴え渡ってた。
いつものように閉店間際になっても、
いつものように主人の口癖は店中に響いていた。
しかしそれを返す言葉はもうない。
さすがにこの日ばかりは長居をするわけにもいかないと思い、皆自ら徐々に帰り支度をし出していた。
すると主人は急に静かになって、この季節、巷に流行るアレルギーでもないのに、鼻を啜りながらこう言ったんだ。
「まだ眠る時間じゃないでしょ」