8.暗示の扉
「私と共に、CUBEの中に入ってはくれないだろうか」
初めて桜から断られるのを前提とした頼み事をされ、朏は理解が追い付いていないまま頷いた。
「わかった」
桜は喜ぶでもなく、不遜に鼻を鳴らすのでもなく、ただ大きな目をぱちぱちと瞬いた。黙って朏が様子を伺っていると、ハッとした桜がなぜか怒鳴り始めた。
「馬鹿者! 何を頼まれているのか理解もせず引き受けるな!」
「……それはもっともだが、俺に桜の頼みを断るという選択肢はいつ如何なる時であっても存在しない」
その言葉に驚いたような、呆けた様子を見せる桜が珍しくて、朏は奇妙な楽しさを感じていた。いつもの桜の真似をして、フン、と鼻を鳴らして胸を張る。
「忠犬としてお前の側にいると決めた俺の覚悟、舐めるなよ?」
桜がきゅっと唇を引き結び、嬉しそうな、泣きそうな表情を見せた。しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐにいつもの態度へ戻る。そして、朏に対抗するかのように大きく鼻を鳴らし、不敵に笑った。
「お前様の覚悟、しかと受け取った。申し訳ないが、これからは付き合ってもらうことが今まで以上に増えるぞ。精々さらなる覚悟をしておくことだ」
申し訳なく思っているようには全く見えないが、桜が自分を気遣い心配してくれていることを朏はしっかり感じている。今日の桜の様子から推測すると、これからかなり危険なことや厄介事に巻き込まれるのかもしれない。しかし、だから何だというのか。
ようやく、以前より桜に近付けた気がするのだ。桜も先日言っていた。「ようやくお前様にこういった話ができるようになった」と、桜はたしかにそう言ったのだ。今までは一定の所で踏み込めない、線引きされているような感覚があったが、これからはもっと桜のことを知ることができる。もっと桜の役に立つことがきっとできる。桜が俺を望む限り、俺はどこまででもついて行く。
朏の心には、たしかな確信と覚悟があった。
「では、お前様の了承も得たことだ。予定より早いが場所を変えるとしよう」
桜はそう言って立ち上がり、奥の部屋へと姿を消した。これから学園へ向かうため支度をするのだろうと理解した朏は、一人になった広い縁側で、ぼんやりと美しい庭を眺めた。
昨日の放課後、「明日は共に帰れる」と桜が言っていたので、桜の家経由で学園へ向かうという今日の予定を既に把握していた忠犬らしい朏。
その時、庭を見ていた朏の前に何かが降ってきた。屋根から飛び降りたのか、突然降ってきて綺麗に朏の眼前に着地した忍だった。忍はにこりと笑って言った。
「『準備は一人でできる。朏が暇しないように相手をしてやってくれ』……とお嬢様から承りました。お嬢様のお召し替えは私の趣味の一つなので至極残念でなりません。というわけで、朏さんを驚かせてみることにしたのですが、どうでしょう? 驚かれましたか?」
何が「というわけで」なのかはわからないが、突然目の前に人が降ってくれば誰でも驚くだろう。戸惑いながらも頷きを返して肯定する朏に、忍は嬉しそうに微笑んだ。
「朏さん、お嬢様のお召し替えが気になっていらっしゃるご様子ですが……覗いてはなりませんよ?」
「……気にしてませんし、覗きません」
「ほぅ……、あのように愛らしく美しいお嬢様のお召し替えが気にならないと? 本気で仰っているのでしょうか?」
忍は真面目な顔を取り繕っているが、その瞳は輝いていて、心底楽しんでいるのが明らかだった。
……ダメだ。何を言っても遊ばれる。ここは無言でスルーが得策だ。
朏は忍から視線を外して無言を決め込んだ。それを見た忍は何やら思案した後、真剣な面持ちで語り始めた。
「お嬢様は一人でお召し替えをされる場合、まず片手でしゅるりと帯を解きます。片手で簡単に解け、かつ美しい独自の結び方をお嬢様が考案されたのですよ。すごいでしょう? それから長襦袢を脱ぐのですが、なんとその下には」
「何を言ってるんですか、忍さん!」
忍の語る内容にぎょっとした朏は、必要以上に声を張り上げて続きを阻止した。そんな朏に小首を傾げる忍。
「私はただ、お童貞様であらせられる朏さんに有益な情報を提供させていただこうかと思いまして。お嬢様のお召替えを覗くのは許可できませんが、妄想であれば許可します」
「くっ……、結構です!」
予想外の精神攻撃に耐えた朏は何とか言葉を返した。一部分を無駄に丁寧な言葉で強調しているところが何とも腹立たしい。
「何を騒いでいるのだ……」
呆れた様子で、支度を済ませたらしい桜が戻ってきた。お馴染みのツインテールに、カットソーとパーカー、ショートパンツという桜の出で立ちは、小柄な体躯と相まっていつも以上にその容姿を幼く見せている。かろうじて小学生に見えないのは、完成された美しい容姿と、隠せない胸部の豊かさのせいかもしれない。
「忍、それは私の忠犬だ。遊ぶのはいいがあまり虐めるな」
「勿論心得ております、お嬢様」
「ならいい。これから朏と出掛けるので、留守は頼んだぞ」
「かしこまりました。どうぞお気を付けていってらっしゃいませ」
自分のことを勝手にあれこれ言われた気がするが、淡々と進む話に口を挟む隙がなかった朏。見送る忍を背にして、桜と並んで歩きながら、どうにか忍をやり込める方法がないか考える。
……性格の歪んだ現代の忍者に勝てる気がしない。
「なぁ、桜。何でもいいから忍さんに勝つ方法ないか?」
苦笑した桜は首を横に振った。
「あれは私でも少々扱いが難しい。方法がないわけではないが、お前様には無理であろうな」
朏は自分の無力さを嘆き、素直に諦める他なかった。
見慣れた天地学園に到着した朏は、今までと違って学園が禍々しく見えることに驚いた。桜からいろいろとおかしな話を聞かされたせいか、それとも、雨宮の件があったせいだろうか。
一度は振り払った雨宮への恐怖が湧いてきそうな気がして、無理やり桜に話を振った。
「休日なのに中に入れるのか? それに、俺達制服じゃないけど」
「私は生徒会長だからな」
朏の予想通りの答えが返ってきた。副会長の自分だけ後で怒られたりしないだろうかと少し不安に思う。
何の問題もなく園内に入ることができ、スタスタと歩く桜について行く朏。やはり目的の場所は生徒会室だった。生徒会室に入ると、桜は扉の内鍵を閉めた。
「誰にも邪魔をされたくないのでな。念のためだ」
朏の脳内の疑問に桜が答えた。
普段は開かれることのない生徒会室の奥にある扉を開けた桜。桜に続いて扉を通ると、中は5畳程度の小さな部屋だった。四方の壁の一面だけ、埋め込み式の本棚になっていて、ずらりと本が並んでいる。室内には他に何もない。
「……前にこの部屋には何があるのか聞いたら、ただの物置だから気にするなって言ってたよな?」
「物は置いてあるのだから間違いではないだろう。あの時はまだお前様に全てを話せなかったのだ。許せ」
悪びれた風もなくそう言いながら、桜はいくつかの本を出し入れしたり移動させたりと、不可解な動きを始めた。本を取って読むわけでもなく、次々と本に触れていく桜を見て朏はハッとする。
「まさか……」
朏が呟いて間もなく、ガコッという音を合図に、本棚の壁が徐々に動いて下に沈み始めた。下がった壁のその先が段々と見えてくる。朏が凝視していると、下に伸びているらしい螺旋階段が姿を現した。
朏は目を見張って驚愕する。
「こんなに……ベタな仕掛けが本当にあるとは……」
「これを造ったのは高齢の老人だ。ベタな知識しかなくとも仕方あるまい」
呆然としていた朏は、階段を下り始めた桜の後を慌てて追った。
光源らしきものはどこにも見当たらないのだが、窓もないのになぜか周囲は明るく、目指す先にも闇は見えない。階段も壁も天井も、目に映る全ては黒色をしているが、視界が暗いわけではないことに安堵する朏。
「老人って……、もしかして理事長か?」
「無論。学園内にこのような規模の仕掛けを、誰にも知られず造ることが可能なのは理事長以外にいないであろうな」
「なんで理事長しか知らない仕掛けをお前は知っているんだ。CUBEの時と似たような理由か?」
「概ねそんなところだが、これを知っているのは私と理事長だけではない。雨宮もだ。CUBEはこの先の部屋に保管されていたのだからな」
あぁ、と納得の声を漏らす朏。今まで生徒会室のどこにCUBEが保管されていたのか、それとなく見回ってみてもわからなかったが、隠し部屋にあったのなら見つかるわけがないと納得できた。
「……なんで、雨宮はCUBEを盗んだんだろうな」
朏がぽつりと漏らした声に、桜の顔がほんの少しだけ険しくなった。
「雨宮を唆し、CUBEの使用方法を吹き込んだ第三者がいる。雨宮が学園内でCUBEを使用した時の様子を咲子が目撃していた。雨宮は怪しい女と二人きりで何やら楽しそうに話していたらしい。その後、雨宮はCUBEを使ってその場から消えたが、女は消えていく雨宮の様子をすぐ側でじっと眺めていたそうだ」
「女……? 雨宮が二人きりで楽しそうに話していたなら三上絵里奈じゃないのか?」
桜は静かに首を振った。
「……アレは違うのだ。アレは『異常』の存在。身柄を捕らえて話を聞こうにも、今の私には手出しできん相手だ。それ故に、不本意極まりないが咲子にひとまずの対応を任せてある」
『異常』と呼ばれる存在を少なからず知っていて、咲子の異常性についても理解している朏は、咲子と桜が言うならば、怪しい女とやらは『異常』に間違いないのだろうと理解した。
「雨宮は憑りつかれたのか?」
「……というより、目を付けられ、利用されたという方が正しいだろう。憑依している存在ならば、咲子が目撃したあの時に雨宮と共に消えているはずだ。それに、そこらの『異常』がCUBEを知っているわけがない」
理事長と生徒会長しか知ることのできないCUBEを知っていて、それを使わせるために雨宮を利用する『異常』の存在。何のためにCUBEと雨宮を利用しているのか、いくら考えても今の朏にはわからないが、かなり厄介そうな相手が裏に潜んでいるらしいことは理解できた。
「……あ、扉」
ようやく視界に新しい物が映った朏は思わず声を上げた。そんな朏をちらりと見て、「やはりな」と静かに呟いた桜。
桜は扉の前に立ち止まり、観察するような視線を朏に向けた。
「ここが目的地の部屋なのだが……朏、扉を開けてみてくれ」
「……わかった」
桜の意図はよくわからないものの、言われた通りにする。扉にそっと触れてドアノブを回した。ガチャガチャと音が鳴るだけで、扉は開いてくれなかった。
桜を見ると、顎に手を当てて何やら考え込んでいる。思考がまとまったらしい桜は、朏の隣に並んで立つと両手を勢いよく前に突き出した。扉の方に向かって。
「馬鹿っ、危な……くない?」
桜が手を痛めてしまうのではと焦った朏の声は、途中から間の抜けたものになった。
桜の両手が、見事に扉を貫通している。桜が痛がる素振りを見せないので、貫通した両手はきっと無事なのだろう。
「えーと……どういうこと?」
種明かしを求める朏。桜は子どもに言い聞かせるように、普段よりゆっくりと言葉を発した。
「お前様、今から私が言うことをよく聞き、よく自分に言い聞かせるのだ」
朏がこくこくと頷くと、桜の説明が始まった。
「ここに、扉など存在しない。あるのは扉のない部屋の入口だ。私には扉が見えていないし、ここからは部屋の中の様子が見える」
理解できず眉を顰める朏。
「手を痛めない程度の力で扉を叩いてみろ」と言われ、バンバンと軽い力で扉を叩いた。叩いた衝撃、ほんの微かな痛み、それらがきちんと感じられる。
ふぅ、と小さく息を吐いた桜が再び説明を始めた。
「今のお前様は暗示にかかっている状態だ。暗示により見えない扉が見え、感じるはずのない衝撃を感じている。おそらく、生徒会長以外の者の入室を阻むための暗示だ。私と共に行動していれば大丈夫ではないか、という希望的観測もあったのだが、駄目であったな。今の状態で無理に入室すればどうなるのかわからん。この場で、自力で暗示を解け。暗示は端的に言えば思い込みに過ぎないのだ。朏、お前様ならばできる」
言葉の意味はわかるが、理解できないことが多かった。朏は素直に質問する。
「俺は、いつどこで、誰に暗示をかけられた?」
「階段を下り始めた時からここに至るまで、ずっと暗示をかけられている状態だったはずだ。『誰に』という質問には朏自身と答える他ないな。お前様の視神経を通して脳が暗示に反応してしまった結果だ。誰がこの暗示を仕掛けたかは言わずもがな、理事長だ」
視神経を通して、という桜の言葉を考える朏。
階段を進み、ここに来るまでに自分は何を見た? ……何も見なかった。壁と、天井と、階段。本当にそれ以外のものを見た記憶はない。
「不快な仕掛けの暗示を口に出して説明したくはなかったのだが、仕様がない」
言葉通り、桜の表情は不快感を露わにしていた。
「ここの階段も、壁も、天井も、元々は白い素材で造られている。そこに、気が遠くなるほどに小さな文字をびっしりと敷き詰めるように書き連ねた結果、黒い階段、黒い壁、黒い天井が出来上がったわけだ」
朏の全身に鳥肌が立った。理事長が、一人の老人が、小さな小さな文字で空間を黒く染め上げていく様を想像して。どれだけの時間と根気と労力がいるのか。どんな風に想像したところで狂気じみている。
「理事長が全て一人で仕上げた可能性は低い。適当な人間か、『異常』か、自分にとって都合の良い存在を利用して書かせたのではないかと思う。体力も残された時間も少ない老人が一人でこれを仕上げるのは無理があるだろう。加えて、理事長はそのような苦行に耐えられる人間ではない。自身の負うべき苦労や責任を勝手な都合と共に他者に押し付ける人間だ。故に、そもそも理事長自身は計画しただけであり、実行は全て他者任せにした可能性が一番高いと思われる」
桜のその言葉は、以前から朏の内にあった疑惑を確信へと変えるものだった。
桜は理事長を知っている。この学園の誰よりも深く。学園に籍を置く全ての人間が、理事長の顔も声も知らない。妙な噂しかない理事長の性格について断言できる桜は、自分自身か、身近な人が理事長と関わりを持っているはずだ。
いつか自分にも話してくれるだろうか、桜の抱えているものを。
朏は理事長の詳しい話には触れず、現状の問題解決に意識を向けることにした。