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アタシん家の腕おばけ。

作者:

「今までお世話になりました、さようなら」


 そう淡泊に言い切って、アタシは叔父へと頭を下げた。何の余韻もなくがばっと再び頭を上げれば、複雑そうな顔をした叔父と無表情でただアタシを見ている叔父の恋人が見ていた。少しの文句でも言ってやろうかとも思ったが、何の為に出て行く事にしたんだと思い直して家を見上げた。

 4年間住んだ一戸建ての家。こちらの方がまだ愛着があるというものだ。10歳で両親を亡くしてそれから3年は親戚にたらい回しにされて、やっと居場所の出来た家。居心地はあまり宜しくはなかったが、しばらくお世話になった。まぁそれも叔父が再婚するからという理由であっけなくサヨナラで一人暮らし決定なわけだが。


「じゃあ美緒ちゃん、身体には気を付けて」

「はいそれでは」


 思ってもない事言うんじゃねぇよ、なんて心の中で毒づいて叔父に背を向けると早足で家から遠ざかっていく。別れを惜しんで振り返ったりはもちろんしない。邪魔者が居なくなった安堵の表情が映るだけなのだから。

 叔父とその恋人の顔を思い出してしまうのを早歩きでスーツケースをうるさいほどゴロゴロ鳴らしてかき消し、ただただ歩き続ける事20分。これから住むアパートが見えて来た。

 【ぼんぼり荘】。まるでおんぼろとボロボロが重なったような名前の建造物は、全体的に茶色く蔦が這い、所々木が腐っている正真正銘のボロアパート。風呂はない、トイレは共同、壁はぺらぺら、裸の豆電球、とマイナス面を語れば止まらないがただ1つ、とにかく家賃が安いという点が今のアタシの状況ではぴったりだった。とにかくアタシにはお金がない。両親が残してくれたお金やらバイトで貯めたお金やら集めればそれなりにはあるが、それでも1人で普通に暮らすには無理があるのだ。今は屋根があるだけで十分だ。


「おや橋田さん、親戚の方に挨拶は済んだのかい」


 階段を上がろうとすると、腰の曲がったお婆さんが話しかけてきた。なんでアタシの家事情知ってんだと一瞬怪訝な顔をしてしまったが、そういえばこの人が大家さんだった事を思い出して素直に頷いた。


「そうかい。何かあればすぐ言うんだよ」


 はぁ、と適当に返事をして軽く頭を下げてから再び階段を上る。たとえ泥棒が入っても、黒光りするあのG野郎がが出たとしても、アタシがあの人を頼る事はないだろう。あんな震える身体にうっかり当たってしまった日には、骨折どころじゃ済まないんじゃなかろうか。この歳で前科は抱えたくない。

 今にも崩れそうなドアを開けて、やっと自分の部屋へとたどり着き腰を下ろした。すぐ荷物整理をする気にはなれず、そのまま床にごろんと寝転がると思わぬ睡魔に取り付かれる。荷物整理しないと、戸締まりしてない、明日の学校の用意、と起きなくてはいけない項目が次々と出て来るのに対して身体は言う事を聞かない。諦めかけて目を閉じたその時、大きな音が部屋全体に鳴り響いた。


 バン!


「…?」


 目を開けて天井を見上げる。外からではなく中から聞こえたような音。不思議に感じたが、薄い壁なんだから他の住居人が転けでもしたのかなと再び目を閉じると、その音は再び鳴り響いた。


 バン! バン!


「…な、なんだか変だな」


 そんな訳はないのに、音がすごく近い気がする。まるで自分の部屋から鳴っているような…いやそんなはずはない。勝手に打撃音を発するようなアクロバティックなものは持っていない。しかし眠る気も失せたので起き上がって、音の元を探そうと思ったとき目の前に、ソレはあった。


「……………、ん?」


 右腕。

 白く、指も長くて綺麗なので女性のものと言っても可笑しくはない気がするが、がっちりとした筋肉質なこの腕はきっと男性のものなのだろう。

 そんな腕がうちのボロい壁から、関節より少し奥から生えた状態でぶら下がっていた。




「………っっっ大家さあああああああん!!」


 さっきのはフリでしたと言わんばかりに、アタシは部屋を飛び出て叫んだ。大家さんは1階の端の部屋から焦ったようにすぐ出てきてくれて、アタシを見上げた。


「ど、どうしたかいね!?」

「ううう腕が! 壁! 壁からにょきっと!」

「??」

「…っあぁもう! とにかく見て下さいよ!」


 支離滅裂とした日本語ではもちろん伝わるはずもなく、大家さんは首を傾げる。もどかしくなって、アタシは階段を駆け下りて半端無理矢理大家さんの背を押して自分の部屋へと連れ出した。遠慮がちにドアを開ける大家さんの後ろに隠れて事の行方を待つ。ちょっと経った後、大家さんは不思議そうな声を出した。


「どこに腕があるんだい?」

「…へ?」


 もしかして寝ぼけて勘違いしただけなのかと思って壁を見たが、やっぱり目の前の壁から白い腕が生えていた。しかし大家さんは目の前を見ても何も異常がないかのように普通だ。


「え、いや、あれです、あれ! あの腕!」

「……あぁ、疲れているんだね」


 何も伝わらず、大家さんは悲しいくらい優しく微笑んでアタシの身体をポンと叩いた。

 違う! 今欲しいのは賛同であって同情ではないのよ大家さん!

 そう言いたいのに大家さんは頷いて、部屋を出て行く。


「今度差し入れ持ってくね。あんまり無理しちゃあかんよ」

「いやあの待…っ!」


 振り返ると、タイミングよくバタンとドアが閉まる。伸ばした手が虚しい気持ちが増幅させた。

 しばらく黙ってドアを見つめ、思い切って壁を見やる。やはり生えている。見間違いでもなんでもなくそこに存在し、影まで出来ているというのに大家さんは普通にしていた。


「見えてないっての…?」


 大家さんには見えていないのか、アタシにしか見えていないのか。

 とりあえず視界的な耐性が出来てきたので恐る恐る近付き、ちょんと触ってみた。リアルな感触だが冷たい。腕も微動だにしなかった。


「…オモチャ?」


 何度かつついてみたが反応がない。やっぱりこれはオモチャで、大家さんは心の底では面白がっていたんだと自己完結した。


「なんだ、ビックリし」


 ほっと息をついて最後にちょんと触った時、腕ががしりと私の指を掴んだ。



「………ったああああああああああああああああああああ!?」


 人生で初めて腹の底から声を出したといっても過言ではなかった。それぐらいの悲鳴を上げて腕を振り切って後ずさり、腕が生えている正面の壁へとすぐぶつかった。結構な力で後退したので腰がじんじんと痛んだが、そんな事はどうでもよかった。否、そんな事気にする余裕は全くなかった。

 アタシが叫ぶと腕も驚いたのかビクンと跳ねて、おろおろしているかのように左右に動いた。生きているような動きにパニックだったアタシの脳が更に混乱を呼ぶ。とにかく悲鳴を上げるしかなかった。


「わああああああああああああああああああ」


 腕はおろおろ、おろおろ。


「ひゃあああああああああああああああああ」


 おろ、おろ…。


「どわああああああああ」


 バン!


「すいませんっ!」


 しつこいと思ったのか腕は力強く壁を叩いた。というか感情があるのか、この腕。反射的に謝ってしまうアタシもアタシだが。

 叫ぶのを止めると、腕もまたブラリと力なくぶら下がった。動いていたのが嘘のようにピクリとも動かない。いつまでも壁に張り付いているわけにもいかず、アタシはまた恐る恐る腕へと近付く。


「………」


 嫌に綺麗なのが、また不気味な白い腕。大家さんには見えず、アタシには見える動く腕。頭の中では1つの結論が出ていた。それを確かめるべく、アタシはそっとその腕に話しかけた。


「あの、もしかして貴方…、お化けってやつですか?」


 腕は動かない。聞こえてはいるんだろうけど、言葉を理解しているかどうかは分からない。質問を変えよう。


「えっと…言ってる意味分かります?」


 腕は手の部分だけ緩やかに動き、親指と人差し指で丸を作った。“YES”という意味だろうか。お金を表すサインにも見えてちょっとビビった。


「か、壁に埋まってんの?」


 今度は人差し指と中指を重ねてバツのサインをする。“NO”なんだろう。

 うーん、と頭を捻り一端質問を止めて考え込む。質問にはちゃんと答えてくれるみたいだ。“YES”なら丸のサイン、“NO”ならバツのサイン、分からないか答えたくないなら無反応というところだろうか。言葉も通じて意志も確かにある。けれど実態はない。…謎い。


「…あ」


 とりあえず霊媒師でも呼ぼうかと考えた時、ふとある事を思い出して顔を上げた。


「あの、なんで私が寝ようとした時壁叩いたの?」


 単なる主張や悪戯ならすぐにでもお祓いして貰おうと考えたが、腕はくいっと持ち上がってある場所をいくつか指差した。よく分からなかったので、もう一度お願いと頼んで指を目で追った。腕が指差したのは荷物の入ったダンボール、スーツケース、ドア、スクールバックの4つ。共通点がないそれぞれに、最初はよく分からなかったがしばらく考えているとピンと閃いた。


「もしかして…やる事やってから寝ろって意味?」


 腕は指全体でぐっと元気良く丸を作った。その瞬間アタシの頭ではゴーンと鈍い音が鳴った。

 …この腕、まさかとは思ったがお節介だ!


「めんどくさ…いたっ!? ちょ、やめ、痛いって!」


 本音をぽろっと出すと、腕は容赦なくバシンとアタシの頭を叩いた。しかも1回だけではなく、数回叩き続ける。この腕、アタシが動くまで叩き続けるようだ。お節介だけでなく横暴だなんてなんと面倒臭いのだろう。


「分かった、やる! やるから叩くなし!」


 でも。こんな風に叱りつけられるのは久しぶりで、なんだかどこかがあったかくなった気がした。

 …なんて、ちょっと居眠りするだけで壁を叩き始める腕に、そんな思いは消え失せた。




***



 翌日。慣れない過度な強制運動の為に筋肉痛に苛まれたアタシは、授業中ずっと学校で机に突っ伏していた。昼休みの今でさえ起きようとする気が出てこないのは酷い。まぁ幸か不幸か一緒に昼食を食べる友達も居ないのだからいいけど。今のところアタシには友達どころか軽く話す程度の付き合いもいない。

 …それでいい。たらい回しにされて親戚から異物のような目を向けられて、馬鹿なアタシでもやっと理解できた。人は、人の縁なんてものはろくでもない。信じられない。いらない。必要ない。誰かを頼らなくったって1人で生きていける。頼りたくもない。


「橋田さん」


 頭の上で声がした。渋々伏せていた重い頭を持ち上げると、地味めな黒縁眼鏡をかけた女子が眉を下げて不安そうにアタシを見ていた。多分クラスメートだ。…多分だけど。何ですかと短く答えると、えっとと歯切れ悪く話し始めてあるグループを指差した。同じような控えめな、いかにも優等生な子達が集まった女子のグループだった。


「い、一緒に食べない?」

「……え」


 1年以上高校生をやっているが、初めて言われた言葉だった。だが正直今は食欲も無ければ動きさえしたくない。いつもなら少し話しかけられても完全無視で終わるけれど、こういう子は邪険に扱いにくい。下手すると泣いてしまう可能性もある。これだから人は、特に女の子は面倒臭いのだ。とりあえずアタシは眼鏡の子から目を逸らして、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さなボリュームで呟いた。


「…いい」

「……あ、そ、そう、だよね」


 眼鏡の子は一瞬傷付いたような顔をして、眉を下げたままへらっと笑い、また誘うねと言ってグループへと戻っていった。

 アタシに愛想笑いする必要なんかないのに。アタシなんか無理に誘うことないのに。…変な子。

 アタシはまた頭を伏せて目を閉じた。授業中はあの腕のことで頭がいっぱいだったが、今は違うことでいっぱいになった。



***



「…………うわ」


 自分の家に着きドアを開ければ壁から生えた腕がアタシに気付き、まるで“おかえり”とでも言っているようにその腕をゆったりと揺らした。

 …忘れてた。朝はあれだけずっと考えていたのに、昼が過ぎたらすっかり頭から抜けていた。そのまま家からいなくなっててくれれば、アタシは思い出すことがなかったのにと舌打ちを打った。この腕自体に害はないが、やっぱり1人になれない感じがして嫌だ。解決しようにも霊媒師なんかどう呼ぶのか分からない。厄介だ。


 バン! バン!


「うわっ何さ!」


 こうなりゃ無視だと、視線を向けないように鞄を床に下ろして座ると、例の如く腕は何かを伝えたいのかドンドンと壁を叩き始めた。止めて本気で止めて。壁薄いの分かってやってんだろこのアホ腕が。

 腕を掴んで無理やり静止させると、今度は何やら両手を横にして、擦り合わせ始める。そのジェスチャーに嫌な予感がした。

 まさか、そんなまさか、まさかとは思うけど。


「…手洗えっつってる?」


 腕、渾身のグットサイン。


「…………、はあぁぁー…」


 度の越えた口 (ないけど)うるささに目眩が起きた。これはもううるさいどころか鬱陶しいレベル。お節介こじらせて死ねばいい。ん? いやもう死んでるか。

 アタシが呆れているのではなく、面倒くさいと思ってため息をついていると勘違いしたのか腕は壁叩きを続行させた。焦って再び静止させがこれはさっさと洗いにいかないとまた叩き始めそうな気がする。静止させている今でも腕に力が入っているのだ。


「分かった! 分かったから叩かないで!」


 アタシが渋々そう言うと腕はアタシの手をするりと抜けて、またダランとぶら下がった。かと思ったら今度は両手で器を作って上下させるジェスチャーをアタシに見せる。すぐピンときた。


「はいはいはい、うがいでしょ! 分かったってばもう!」


 段々伝えたいことがすぐ分かるようになってきたのがなんだか悔しいような恥ずかしいような気分になり、それをごまかすように軽くべしっと叩くと腕はぐっと親指を立て、今度こそ垂れ下がって動かなくなった。


「…ったく」


 手洗いうがいをするよう注意されたのは初めてだ。前住んでいたとこの叔父も大概な甘ちゃんだったが、アタシを叱るようなことは全くしなかった。したいようにやらせてくれたといえば聞こえはいいが、言い換えれば放置だ。いつだって叔父は遠かった。

 なのにこの腕ときたら何なんだろう。親戚でもないのにいちいちアタシに文句つけて。何さ。


「……もー…調子狂うなぁ…ほんと迷惑……」


 水が流れてアタシの手を包む。正面の鏡に映ったアタシは何故かにやけていた。



***



「あ、橋田さん」


 いつぞや聞いた声が、帰宅しようとするアタシを呼び止めた。振り返るとやっぱりあの黒縁眼鏡の女の子だった。名前は確か、山中さんだっただろうか。


「えっと、橋田さんってバス通学だったよね?」

「あ、あぁ、うん」

「私もね、バスなの。一緒に帰らない?」

「え」


 身体がぎしっと固まった。こんな時、可愛く笑顔でうんと答えることが最善の回答であることは分かっている。だがそうできたところで、次はどうすればいい? 何を話して帰ればいい? …全く分からない。頭がプチパニックを起こしてどう答えればいいのか分からない。


「か…勝手に、すれば」


 やっと紡ぎ出せた言葉がこれだった。

 アホか! なんだその上から目線は! 死ね! あの腕みたいになってしまえアタシ!

 酷い自己嫌悪に陥ったが、山中さんは笑ってありがとうと答えた。幸いにも彼女的には嫌な気分にはならなかったようだ。良かった。


 無言で2人で学校を出て、バス停でやっぱり無言で待ち、ちょっと経って来たバスに乗り込んだ。二人掛けの座席に座って、外に出て初めて山中さんがアタシに話しかけた。


「橋田さんはどこまで?」

「あ、えっと…中央平…。山中さんは?」

「私はその次のバス停までだよ。あ、その、私のことは真由でいいよ、山中って長いし」

「えっ、じ、じゃあアタシは美緒でいいよ、あ、いやよければ、だけど」

「ふふ、美緒ちゃんね。分かった!」


 そういう山…真由ちゃんの顔は嬉しそうだった。なんか、なんだか異様にくすぐったい。こんな会話小学生以来していない気がする。嬉しいのに逃げ出したいという矛盾が頭の中でドタバタと暴れまわっている。

 会話らしい会話は結局それぐらいで、後は真由ちゃんが何か話を振ってくれてはアタシがはい、かいいえ、で答えて会話をぶつ切りさせるという最低な対応でバスはは到着した。


「じゃあ」

「うんバイバイ、美緒ちゃん」


 バスが去った後もアタシは振った手を持ち上げたまま、バス停に立ち尽くしていた。しばらくして、ふらりと歩き出して気付けば家に帰っていた。途中大家さんに何か話しかけられたような気がするけれど覚えていない。


 コン。


「はっ…」


 腕が軽く壁を叩き、やっと我に返った。もう腕の存在にも慣れてしまってあまり驚かなくなった。…複雑だが。

 不思議そうに見 (ているはずないけど)ている気がする腕に視線を向け、そろりと近付き腕に、もとい壁に向かってアタシは今日のことを話し始めた。


「…クラスメートがさ、一緒に帰ろうって言ったのよ。真面目そうな子」


 壁に向かって淡々と今日会ったことを話す、なんて今の姿を誰かに見られたらアタシは一生外に出れない。でも、だけども、アタシは誰かに言いたかった。言う相手は誰でもいいというわけではない。何となくこの腕に報告したかったのだ。


「真由って呼べなんて言って変だよね。あとアタシのこと美緒って呼んだのよ。しかもなんか笑ってんの。ほんと頭おかし…、うわっ!?」


 ただただ何も考えずに喋って、腕もただ動かずに聞いていると思ったら、急にぐっと持ち上がってアタシの頭の上に乗っかった。そして何故かぐしゃぐしゃにかき回し始めた。


「ちょ、なにっ、ちょっと!」


 急なことで抵抗できず、またさして嫌な気分にもならなかった為にされるがままにしていると、腕はしばらく髪をぐしゃぐしゃにして満足したのか、最後にポンポンと軽く叩いてゆっくりとその腕を下げた。


「………」


 “良かったね”。

 そんな訳ないのにそう言われた気がして、アタシは泣きそうな笑いそうな気分になった。ありがとうと言いそうになったが、意地みたいなプライドみたいな何かに邪魔されて結局喉から出てこず、その日は腕を見ながら寝た。



***



 その日から数日は、なんていうかアタシにとってふわふわした日々が続いた。真由ちゃんがまたお昼を誘ってくれたり、他のクラスメートとともちょっと話せたり、大家さんがおはぎ持って来てくれたり、腕は……まぁいつも通りお節介マックスだけど。

 とにかく、温かい日だった。アタシは柄にもなくちょくちょく笑ってた。幸せ、っていったらオーバーかもしれないけど、確かに心が浮き上がっていた。


 …今日までは。





「橋田のこと、ご苦労だったな山中」


 放課後、真由ちゃんの後ろ姿が見えて、せめて今日はアタシから一緒に帰る約束をしようと近付いたのが運のツキだった。真由ちゃんは担任と話している最中で、その話の話題は見事にアタシのことだった。


「孤立した生徒をなんとかして欲しい、なんて先生も嫌な役回り押し付けたと反省していたけど良かったよ」

「あの、先生…」

「約束通り、平常点にプラスしておくな。もう無理しなくていいぞ」

「いえ、だから先生…!」


 まぁ、結局、そういう事だった。真面目そうな女の子が急に話しかけてくるなんて、変だとは思っていた。でも特に気にしなかった。深い理由なんてない、と。そうだね、その通りだよアタシ。深い理由なんかじゃない。…馬鹿みたいなあっさい理由だ。


「…わ、橋田!?」

「えっ…」


 回れ右しようとしたら嫌なタイミングで担任に気付かれ、真由ちゃんも驚いてアタシの方へ振り返った。顔は真っ青で汗もじんわりかいているようだった。いかにも“バレた”って顔。

 …アタシはどうだろう。今どんな顔してるんだろう。


「……っ」

「み、美緒ちゃん!」


 今からでも立ち去ろうとしたが、手を引っ張られて止まった。担任はそそくさとどこかに消えて行く。静かな廊下に残されたのはアタシと真由ちゃんだけだった。


「ち、違うの。確かに美緒ちゃんを孤立させないようにしたら点あげるって約束はしたけど…」

「……そう」


 絞り出した声は低かった。真由ちゃんは益々顔を青ざめる。


「…っでも違うの! 私は点なんか関係なく美緒ちゃんと友達に…、…っ美緒ちゃん!?」


 もう、いい。

 これ以上聞きたくなくてアタシは腕を振り切って逃げ出した。真由ちゃんの言葉が真実であれ、今は正当化する建て前にしか聞こえなかった。そんな言葉は聞きたくない。

 走って、走って。いつ靴に履き替えたか覚えてないぐらい急いで、普段バスで通る道をただただ走って。

 息が苦しくなって咳き込んだ時にはもう家の近くだった。家が遠くに見えてほっとしたのか身体から少し力が抜けて電柱に寄りかかる。

 帰る。寝る。とりあえず何も考えたくない。寝たら全部解決するような気がする。そうだ、寝たらきっと。


「…美緒ちゃん?」

「っ!?」


 下げていた顔をバッと上げると叔父が立っていた。隣には恋人もいる。叔父はアタシがアタシだと分かった瞬間焦って駆け寄り、身体を支えた。


「どうしたんだ体調でも悪いのかい!?」

「…い、え。別に、それより、叔父さん」


 どうして叔父がこんなところにいるのか分からない。叔父達の家は反対側だ。近くにもスーパーなんてない。寄るとしたら、アタシの家に来るぐらいしか用が…。

 ……え。まさか。


「今日はね、また一緒に住まないかと誘いに来たんだ」

「……は」


 叔父は至って真面目な顔をしてそう言った。言いやがった。


「やっぱり美緒ちゃんに何かあっては兄さんに申し訳が立たないと思ってね。妻の事は気にしなくて大丈夫…いや自分の母親だと思っていいんだよ。最近は物騒だと聞くし…」


「ちょ、ちょっと待ってよ」


 さすがに意味が分からなくなって、電柱にもたれるのもやめて叔父に近寄った。

 確かに叔父が再婚するから、という理由であの家を出た。でも再婚相手に悪いからというわけじゃない、これ以上いたたまれなくなるのが嫌だったからだ。ただでさえ居候の身で居心地が悪いのに、新婚のど真ん中にいるなんて冗談じゃないと思って出たのだ。

 それが何だ、兄さんに悪い? 母親と思っていい? 最近物騒だから? お願いだから馬鹿な事言わないで欲しい。


「アタシはあの家に居たくないと思って出たの。その人に気なんか使ってないの!」

「いやでも美緒ちゃん」

「いい加減帰っ…」

「あーもう」


 叔父の背中を無理やり押して反対側を向かせて帰らそうとした時、今までずっと黙っていた叔父の再婚相手がはじめて口を開いた。目が合ったのもはじめてのような気がする。


「だから言ったじゃん、その説得じゃ無理だって」

「いやしかしな…」

「ねぇもう面倒くさいから正直言うわよ?」

「……、なに?」


 再婚相手は私に向き直る。本当に心の底から面倒くさそうに頭をガリガリ掻いて、まずため息をついた。


「近所の人が噂してんのよ、うちは再婚したから預かった子を追い出したって」

「は?」

「つまりね、アンタが出てったことで世間体が悪いっつってるのよ。だから帰ってきてもらわなきゃ困るの」

「………」


 なに、それ。

 なんなのそれ。

 いたら邪魔で、いなかったら迷惑かけて。


 それじゃあ、アタシは。

 アタシの存在は。



「これ以上お前は余計な事を言うんじゃない。全く…」

「…って」

「ん? なんだい美緒ちゃ…うわっ!?」


 気味の悪い笑顔を貼り付けた顔を近付ける叔父に、アタシは持っていた鞄をぶんと振り回しロクに息も吸い込まず叫んだ。


「帰ってよ、帰って! どっか行ってよ!」

「ちょ…美緒ちゃん!」

「五月蝿い五月蝿い五月蝿い! 二度と来ないで!」


 叔父が2、3歩後退した隙に、アタシはアパートへと逃げた。止める声も聞かず、迷惑であることも考えずカンカンと甲高い音をたてて階段を上り、部屋へと入った。入ってこないようすぐに鍵を閉め、扉から離れる。しゃがみこんで耳を塞ぐと、くぐもってはいるが叔父がアタシを呼ぶ声が聞こえ、やがてしばらくすると静かになった。


「………っ、」


 息を漏らす。息切れしてるからだと思ったが、床に落ちた雫を目にしてはじめて嗚咽であることが分かった。

 頭がグチャグチャする。真由ちゃん、担任、叔父、再婚相手、色々な声が混ざって不協和音。

 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。


 …死にたい。




 ゴン。

 壁が強めに叩かれた。しゃがんだ態勢から横を向くと、腕がグーの状態で壁にくっつけられていた。

 …そうだ、コイツなら。そう思って手を伸ばし、その腕を握る。


「…ねぇ、アタシさ、ちょっと勘違いしてたみたい。真由ちゃんは担任から言われてアタシと友達になったんだって」


 腕に力が入ったのが振動で伝わった。同情でもしてくれたのだろうか。


「あとさ、さっき叔父が来たよ。アタシがいないと近所からの評判が悪くなるんだって。…ねぇ1つ聞いていいかな」


 痛いくらい腕を握り、顔を近付けて首に持ってきた。腕は体温を感じたのかピクリと跳ねて、けれども動かずじっとしている。アタシはそれを確認して、次の言葉を吐いた。


「アタシさ…生まれて来なきゃ良かったんじゃないかなぁ…」


 腕はアタシが何をさせたいのか分かったようで、振り払おうと暴れ出した。アタシは必死にその手を掴んで首にあてる。


「お願い殺してよ! 壁ガンガン叩けるんだからアタシの首ぐらい絞めれるでしょう!? もうアタシ生きたくない! 存在したくなんかなかった!」


 目からボッタボタと留めなく落ちてくる涙を拭いもせずに、ひたすら腕に食いつく。それでも腕は簡単にはアタシの自殺を手助けしてくれない。この腕なら誰も罪にならず、アタシもちょっとは安らかに逝けそうなのに。

 考えれば、最低な人生だった。器用な性格でもなく器用な生き方も出来なかったから、アタシはとこでも邪魔者扱い。分かりやすい嫌悪の表情と、上辺だけの優しさ。小さい頃からそんなものに慣れた。

 お父さん、お母さん。どうして置いてったの。連れて行ってくれたなら、アタシは1人にされて泣くこともなく邪魔者扱いされることもなく幸せに逝けたのに。


「こんな人生もう嫌なの…。こんな、ひとりぼっちで生きる世界なんて、耐えられない…」


 気が付けば腕は暴れるのを止めて、ただじっとしてアタシの涙で濡れていた。決意してくれたのか、その腕は握っていた拳をゆっくりと開いた。アタシは改めて首を近付け、目を閉じる。


 さよなら真由ちゃん。

 さよなら叔父さん。


 ありがとう、腕。

 …どうせならなんか、名前でも付けてあげれば良かったなんて今更思った。でももう関係のないことだ。

 腕はゆっくりと近付きアタシの首に触れ−−






「さよな……、ぶへっ!?」



 −−ることはなく、何故か強烈なビンタがアタシの頬に炸裂した。苦しくなる準備は出来ていても打撃を与えられる準備は出来ておらず、アタシは吹っ飛んで情けなく床に倒れた。

 何が起こったのかすぐには分からずしらばらく呆然と床にうつ伏せになり、とりあえず殴られたことは分かってガバッと起き上がった。


「なっ…にすんのさ! アタシが! 珍しく! こんなに頼み込んでんのに…むう゛!?」


 起きたら起きたで頬を抓られた。しかも尋常じゃなく痛い。抓られ死するんじゃないかと思うほど痛い。何をそんな怒ることがあるのかと、言いたいけど言える状況じゃない。


「ひた、ひたひっへ! ほめんほめん…っ、ごめんって言ってるじゃんかぁ!」


 いい加減にしてくれと、大声で怒鳴りながら手を払いのけた。

 その時。


「…っ、……?」


 腕は抓っていた頬に手をべたっとくっつけた。またビンタされるんではないかと一瞬怯んだが、そうではなかった。手はただ添えられているだけ。ただそれだけなのに、いつも冷たい手があったかく感じて何も言えなくなり、また涙が溢れてきた。


「……何、さ、自分がいる、とでも言いたいわけ…?」


 返事の代わりに添えられた手がアタシの涙を掬う。ただの水なのに、その手に乗った涙は異様に綺麗に見えた。


「ほん、とアンタ、腕しかないくせに、お節介すぎ。馬鹿みたい」


 その腕に毎日起こった事を話して、今も殺してなんて頼んでるのはどこのどいつだと我ながら思った。案外お互い様なのかもしれないアタシ達。

 頬に添えられた手に自分の手を重ねた。そうしたら、何かが満たされた気がした。


「でもそっか、考えてみりゃ…アンタがいる、か。…ふ、かなり不本意だけど」


 そう言うと、腕は軽く頬を叩いた。それでやっと張り詰めていたものが抜け、力んでいた身体を緩めた。長いため息のような深呼吸のような空気を吐き出して、前を向く。


「あーあ仕方ない…、アンタがいる限りは生きてみようかな…」


 その瞬間コンコンとドアが鳴った。また叔父が来たのかと条件反射で力んだが、向こうから聞こえた弱々しい声に拍子抜けてずるっと身体が傾いた。この今にも昇天しそうな声は間違いなく大家さんだ。

 腕を放して立ち上がり、ドアを開くと心配そうな顔をして肉じゃがが入った器を手にした大家さんが立っていた。


「だ、大丈夫かい?」

「え?」

「すごい慌ただしく帰ってきたと思ったら部屋では大声が聞こえるしで心配で心配で…目も赤いし、何があったんだい?」


 そういえばこの壁薄いんだった。声が筒抜けな事を完全に忘れていて、ちょっと恥ずかしくなる。正直に自殺しようとしてましたなんてはもちろん言えず、笑ってごまかした。


「あはは、ちょっとありまして…」

「………、なぁ橋田さん」

「はい?」


 大家さんは手にした器をアタシへと寄せて、心配そうな顔で微かに笑った。


「話せないなら話さなくていいさ。でもな、せめて困り事があったならおいで。肉じゃがでもなんでも作ってあげるさ」

「………」

「それは食べといてくれ。じゃあまたね」


 震えた身体で引き返し、階段を降りていく大家さんをじっと見た。小柄で今にも折れそうなその背中は、何故だかたくましく見えた。


「………、お腹空いた」


 静かにドアを閉め、肉じゃがをテーブルに置いた。箸を掴んでとりあえず一口食べた。ぶら下がった腕を見ながら、もぐもぐとただ咀嚼して飲み込む。


「…おいし、」


 アタシはまた泣いた。



***



 前日がどれだけ怒涛の日だとしでも今日は来るわけで。つまり今日も今日とて学校なわけで。


「美緒ちゃんあの…っ!」

「真由ちゃん」


 教室に着くとすぐに真由ちゃんが気まずそうに話しかけてきた。アタシの名前を呼んだはいいけれど何て切り出せばいいのか困っているようで、それ以降真由ちゃんは押し黙ったままだ。

 アタシはそんな真由ちゃんに可笑しくなって、いつもの通りに笑った。


「おはよう、真由ちゃん」

「……っ、お、おは………、…っごめんねぇ!」

「うわっ!?」


 突然真由ちゃんはぶわっと泣き出してアタシにしがみついた。どれだけ悩んでいたのだろうか、気付けば真由ちゃんの目にはクマが出来ていた。アタシはクラスメートの視線が痛いことも気にせずに抱きしめ返した。

 泣きながら真由ちゃんが言うには、確かにアタシに話しかけたきっかけは担任に『橋田を周りになじませるようにしてくれ。できたら平常点を上げてやる』と言われたからではあるけれど、話すうちにそんな約束は忘れ去っていたらしい。前までのアタシなら、そんなの信用できないとバッサリ言っていただろうが、今は信じることができた。…信じたかった。


「私最低だね…ごめんね…」

「ううん。じゃあ仲直り、でいいかな」

「うー…ごめんね…ごめんね…」

「大丈夫」


 大丈夫、なんて腕に聞かれたら笑われるだろうなと内心笑った。

 さて、仲直りしたとあの腕に言ったらアイツはなんて返すだろう。なんとなく想像はついた。


 …きっと。

 きっと、見せるのはあの馬鹿みたいな渾身のグットサイン。

 想像したら、ちょっと笑った。


結局、腕はお化けなのか何なのか?

寂しい思いをしている人の家に現れる、都市伝説のようなものだと思ってくださればありがたいです。


ちなみに腕はこれからもしばらく美緒にお節介を焼き続ける予定です。



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― 新着の感想 ―
[良い点]  文章レベルが高い [一言]  腕おばけのキャラが好きです。ホラー作品かと思ったのですが、いい意味で期待を裏切られました。
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