8ー9 抜け
「おまえは、甘いよ」
正面の人影は瞬く間に消えた。また透明に、なったのか?
考える暇は与えられはしない。背中に殺気を感じて、団は横に思いきり飛んだ。
ブンッ、と刃が空気を切り裂く音が聞こえる。首を捻ってみると、体を崩すことなく着地している鮮美が目に入った。
背後に回り込んでジャンプ、その勢いで振りおろし。か。
「ぼーっと突っ立ってんじゃねえよ!」
鮮美の居合いが炸裂した。
片手持ちのまま、刃を斜めに倒して受け止める。一撃が重い。
「っつ」
「間違ってもこんなんで終わりとか思うなよ」
間髪入れず、一歩ずつ前進しながら打ち込んでくる。剣道部での練習のように、上からまっすぐに振りおろしてきている。こちらも定石どおり、刀を真横に倒して受け止めたいが、うまくいかない。
右手のみでの防御は疲れてきた。
「その左手はなんのためにあるんだよ、使えねえなあ!」
確かに彼女は両手を自在に使って刀を操っている。
「おら、体がお留守だぞ」
単調な攻撃が続いていたからかもしれない。胴に打ち込まれそうになることに、反応が遅れた。
打ち込まれて痛いというだけではすまない。竹刀ではなく真剣なのだし。
だが、避けることはできない。
咄嗟に刀の柄を両手で持ち、ゴルフのスイングのように勢いをつけて迎え撃った。
高速の刃を完全に止めるには至らず、コートは裂けた。
しかし生きてはいる。
「やっぱ、予測がつかないって、いいわ」
心底楽しそうに、鮮美は笑っている。
殺そうとすれば一撃で済むはずなのに、そうしなかったのは、理性が勝っていたのではない。
遊ぶため。
「やっと反撃らしいのしてきたじゃん。もっとみせてよ、小原流の刀の使い方」
相手はすでに距離をとっている。そして優雅に納刀して、鮮美は勝手に希望を述べてくる。
「鮮美みたいな剣豪に向かっていっても、カウンターされるだけだろ」
「半分正解だけど半分間違ってるよな、それ」
風を感じたときには、すでに暖かいものの感触があった。
切り傷はすぐに熱くなったが、顔をしかめないようにした。今しがた走り抜き様に斬りつけていった、背後にいるはずの彼女を確認するため振り返る。
「攻撃は最大の防御だよ?なんにもしなかったら死ぬだけ」
鮮美は刀をなぞり、付着しているわずかな血を指につけていた。
「防戦のみのスタイルもありだと思う。時間稼ぎで勝てるならいいよ。けれど、こっちは時間との戦いしてるんだから、あたしはそのやりかたには乗れないわ」
細長い指が口許に運ばれていった。
頬があつい。べとついた感覚は、斬られた箇所からの出血が続いてきたからだろうか。
鮮美が指を加えている光景は、なぜだか綺麗だった。
「…………」
刀を納めると、彼女はゆっくりと歩きだし、近づいてきた。美しい微笑みを浮かべていたから、もしかしたら通過儀礼は終わったのかもしれない。
鮮美に笑いかけた。彼女も笑った。
唇の端があがり、スカートのベルトに挟み込まれている鞘がくるりと回転し、あっという間もなく腹から肩口へと切り上げられた。
ヘソから胸の辺りまで。コートの前を開けていた部分、衣服での防御力が低い部分を狙い撃ちされた。
痛みに呻きそうだ。
「あたしさ、この逆袈裟斬りがわりと好きなんだ。真横に払うのも、上からきりつけるのもいいけど、これが一番爽快」
赤くなった刃と瞳で目が覚めた。
「抜けよ小原」
膝をついた途端に軽く袈裟斬りをされる。
肩口に痛み。
「そうしてくれないと、おまえはすぐ死ぬじゃん」
腹に刃が突き刺さる。
浅く刺さったのは、鮮美の躊躇だろうか。
「手を抜くのも、いい加減疲れたしさ。もうお腹減って仕方がないんだわ」
ずぶずぶと深く沈んでいく。
遅効性の致死毒みたいに。
見上げると、吸血の喜びはそこまで浮かんでいなかった。
大好きな女の子は、一人ぼっちでたっている。
大切だったから大事にしたかった。傷つけたくなかった。
でもそれこそが、鮮美を一番傷つけていた。
「鮮美」
「なに」
「…………ごめんな」
自分だけきれいなままでいようとするのはもうやめよう。
鮮美が親しい人間を傷つけて、苦しみ苛まれたなら、自分も鮮美を傷つけて、同じ思いを味わおう。
感覚を共有して、荷物を少しでも背負おう。
右手の力を振り絞って、鮮美の体に真剣を突き刺した。
刃は太ももにずぶりと入り込んで、その結果、たらりと赤い血を流している。
鮮美はきょとんとした顔をして、状況を把握したのか、団の右手に左手を添えた。
「やっと抜いてくれて嬉しいよ」
痛みがあるだろうに、彼女は笑った。
どうしてだか泣きたくなった。けれど、鮮美がそうしていない以上はできない。
手には鮮美の体を傷つけた感触が染み付いている。しばらく包丁を持って、肉や魚を切りたくないと感じた。