8ー5 隠れ鬼
いつも追われる側だったから、追いかけるのは新鮮だ。
相手はなんてことのない高校生男子で、自分は人であることを捨てようとしている半人前の吸血鬼だ。
灯りをつけて自転車をこいで、バイクを追うのはいいハンデかもしれない。
神経を高ぶらせた血の匂い。忘れられるものか。
逃してなるものか。責任をとってもらわなければならないのだ。
ーー何の責任を?
ふと思考が立ち止まる。
けれど自転車はとまらない。
ただただ、殺したい。それだけだ。
鮮美深紅が人として死ぬことを拒絶するなら、その落とし前をつけてほしい。
このままだと死ぬしかないのに、死ぬなというなら、生きろというなら聞いてやる。
「……だから死ねってば」
対向してきた、白バイに、怒りをぶつける。
片手で、鞘ごと抜いて、生身の部分を打ち据えた。
無関係の警察官だけれど、職務質問をかけられたかもしれないから、芽をつんだということでいい。
頭が重い。
どこに隠れてもいい。けれど、見つけ出してやる。
「詰めがあめーんだよ」
バイクが歩道に乗り捨てられている。大手企業が撤退した営業所ビルに入っていこうとする人影が見えた。
警備シールが張られていないところを見ると、侵入者には優しい場所であるらしい。
自転車を止めて、建物全体を見上げる。
明かりも人の気配もない、死んだ建物。
「もう終わりか」
深呼吸して、鮮美は後を追いかけた。
バカになった鍵が幸いだった。ドアは簡単にあいて、埃っぽい建物にも構わずがむしゃらに進む。
ここから人がいなくなって何年もたつ。当初は戻ってくる予定だったのだろうか。廊下を歩いていると。部屋にはスチール製のデスクやロッカー、本棚、ファイルなども残されていた。
ひとまずここで小休止。そんな考えは甘かった。
冷気が伝わってきたのだ。誰かが追いかけてきたに違いない。
エレベーターは使えない。とにかく奥へ。奥の奥へ。携帯のライトを頼りに傾斜が急な階段を駆け上がる。
たわんだブラインドから月の光は見えない。
画面がひときわ明るくなった。誰かからの着信。
「くそっ!」
音が鳴るのはまずい。発信者の確認もせず、機械的に切った。
次いでマナーモードに設定する。
最上階である5階。そこの一室に、団はすべりこみ、壁に背中をついた。
ずるずると落ちていく。
身体が暑い。呼吸を整えて、持っている荷物をわきにおろす。コートの前をあけ、クールダウンさせながら、携帯の画面を確認した。
「……は、」
履歴は鮮美と思われ携帯で一杯だった。音が鳴ることを期待したのかもしれない。
「メリーさんかよ」
がしゃん、という音が階下から聞こえてくる。派手に物を壊しているようだ。
のんびりしてはいられない。
団は立ち上がり、あたりを見回した。
屋上へ出るための入り口は固く塞がれている。いや、行けたとしても屋上へは出るべきじゃない。遮蔽物がないのだから。
あとは非常階段。
逃げ道は、非常階段くらいか。
ノブを回しても鍵がかかっている。金具があれば突破できるだろうか。
そんなときだった。
同じフロアで、鈍い音が響いた。
荷物を掴み、比較的背の高いロッカーの陰へ身を隠す。
続いてガラスが砕け散る音。本棚あたりをへこませたあと、灰皿でも叩き落としたか。
肩かけバッグをきつめにかけ、もう1つの荷物を握って、息を殺す。
こっそりと様子を伺うと、黒いなにかは室内を物色していた。
そして跳躍した。
デスクに乗った鮮美は、顔だけを動かして周囲を伺っている。
「小原……?」
彼女の携帯電話が、位置を知らせてくれている。
電話をかけてきているらしい。
「…………」
ため息をついて、鮮美は立ち上がり、また跳躍した。
団が潜むロッカーを飛び越えるくらい。それでもなお余裕を持ったようで。
がつんと音をたて、鮮美は墜落した。
「った、」
飛びすぎたらしい。
その隙をついて、スチール性の机の影へと移動した。
彼女は歩き回り、おざなりな探索を続けている。
静かな足音だけが床に響いていた。
やがて立ち止まり、諦めたかのように足音が遠退いていく。
助かった。
息を吐いた。
…………1、2、3。
聞こえた踏み込み音は、多分3つだ。
月が姿をあらわし、光が届く。
床を蹴り、デスクに飛び乗り、団の潜むデスクまで移動。
それと同時に、抜刀、構え、振りおろし。
きらめいたのは、真剣。
ダッシュで飛び退くと、先程まで団が潜んでいたところに、躊躇なく刀が降り下ろされていた。
鮮美の目は、赤い。
「……っ!」
理屈じゃない。団は弾みをつけて、竹刀を振るった。
一振りで竹刀は折れる。
「………勝てると思ってんの?」
声が届いたときには、柄でしたたかに腹を突かれた。
「う……」
思わず崩れ落ちると、首もとに刃があてられる。
「ただ逃げてるだけか」
それは事実だから、返すことばもない。
「ちょっとは策があるのかな、と思ったから時間かけたんだけど」
背中を踏みつけられ、額を床にぶつける。
幸いにも、窓の近く。そして、頭上に高く掲げられたのか、首もとから離れる刀。
「つまんねえや」
首を切断される前に、団は鮮美の足をしたたかに打った。真剣できられ、切断面が鋭利になっている代物だ。黒いタイツでは、ダメージは防ぎきれない。
「いっ……」
怯んだ隙に、跳ね起きてダッシュする。
団は窓に突っ込み、そのまま身を投げた。