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正しい死に方        :約6500文字 :死後

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/08/29

 夜だった。

 とあるアパートの一室で、男は大きく息を吐いた――人生最後の息を。

 部屋の照明は点けておらず、ただ習慣で点けていたテレビの画面だけが場面が切り替わるたびに明滅していた。

 ドアに背を預けたまま、男はゆっくりと腰を落としていく。

 喉にぐっと圧力がかかった。ドアノブと首を結ぶ延長コードが張り詰め、首の肉に深く食い込みながら気道を塞いで呼吸を奪っていく。

 しばらくそのまま俯いていた。やがて胸が空気を求めて大きく上下し、腰がびくんと跳ねた。尻は床からわずかに浮いており、両足は投げ出されている。踵が床を擦るたびに、乾いた音がかすかに響いた。腕はまだ動かせるはずだが、手の甲がことりと力なく床についていた。

 無意識に開いた口から漏れるのは、行き場を失ったように喉の手前で鳴る、ひどく頼りない音だけだった。

 苦しい――。だが、これまで味わってきた苦痛に比べれば大したことはないと思えた。ようやく終われる。その安堵のほうがずっと大きかった。

 額の奥で蠢くあの不快な感覚も、胸を締めつける痛みも、まとわりつく不安、焦燥、嫉妬、過去への羨望――自分をずっと苦しめ続けてきたものすべてがもうすぐ終わる。もう何かを恐れる必要も、誰かを羨む必要もない。そう思うと心は軽かった。

 やがて顔がじんわりと痺れ始めた。耳鳴りが遠く反響し、視界の輪郭が薄暗い膜に覆われたように少しずつ滲んでいく。手足はぼわりと宙に浮かぶような感覚に包まれ、首から上だけがやけに温かく感じた。

 自分の身体が自分のものではなくなっていく――その感覚の中で、男は大事に抱えていたものを手放すように力を抜き、そっとまぶたを閉じた。


 ◇ ◇ ◇


 気がつくと、男は市役所のロビーのような場所に立っていた。

 天井は高く、白い蛍光灯のような光が空間全体を均一に照らしている。カーペット張りの床には糸くず一つ落ちておらず、壁にも目立つ汚れは見当たらない。静かで妙に清潔で整然としているせいか、どこか現実味が薄かった。

 周囲には人影がいくつかあり、いずれも呆けた顔で立っているか、ベンチに腰掛けて虚ろな目で正面を見つめていた。誰一人として会話しておらず、足音や小さな物音さえ聞こえない。息が詰まるような奇妙な静けさで空間が満たされていた。

 男がぼんやりと周囲を見渡していると、正面の窓口から手招きされた。訳がわからないまま近づいていくと、窓口の向こうには小柄で額の広い男が座っていた。

 小柄な男は人当たりのよさそうな笑みを浮かべて軽く会釈し、男もつられて小さく頭を下げた。


「お疲れ様でした」


「……どうも」


 男は短く返した。そこで初めて自分の喉を無意識にさすっていたことに気づき、はっと目を見開いた。

 ない――首に巻きついていたコードが。だが、確かにあった。あの圧迫感と苦しさは。


「あの、ここは……」


「死後のちょっとした手続きの場です。ここで亡くなった方の行き先が決まります」


「なるほど……」


 男は思わず安堵の息を漏らした。どうやら無事に死ねたらしい。夢の中にいるようで頭はぼんやりしているものの、胸の奥に小さな達成感がぽっと灯った。

 これで終わった。おれはちゃんとやり遂げたのだ。

 ようやく解放されたのだという実感が腹の奥からじわじわと込み上げてきた。ただ、その一方で不安もするりと這い寄ってきた。

 自殺した人間は、ここでどう扱われるのだろうか。死んだあとのことなど考えたことがなかった――自分の死体が部屋の中で腐っていく様子なら想像したことはあったが、死んでしまえば自分には関係のないことだと思っていた――。

 もともと天国や地獄の存在など信じていなかった。しかし、いざこうして死後の世界らしき場所に立ってみると話は別だ。死んだあとにも続きがあるということは、天国や地獄が本当に存在するのかもしれない。そして、やはり地獄行きか――。

 そう考えた途端、男の顔がわずかに強張った。だが――。


「えー、それではお帰りください」


 小柄な男はこともなげにそう告げると、軽く頭を下げた。


「……は?」


「あなたには現世に戻っていただきます」


「えっと……どうして?」


 しばし呆然としたあと、男はそう尋ねた。


「死に損ねたってことですか? でも、うまくいったはず……」


 確かに、ドアノブを用いた首吊りは一般的な方法より難しいのかもしれない。しかし、事前にやり方を調べ、何度も体勢を調節していた。一人暮らしで突然訪ねてくる者もいない。念のため深夜に実行したので途中で邪魔は入らなかったはずだ。それに、現にこうして死後の世界にいるではないか。

 男は納得がいかず、首を傾げた。


「確かにやり方は間違っていませんでしたよ」


 小柄な男は机の上で手を組み、穏やかな口調で言った。


「でも、死に方が違ったのです」


「死に方が違う……?」


「はい。人にはそれぞれ定められた死に方というものがあります。まあ、運命と言ってもいいかもしれませんね」


「運命……」


 男は眉をひそめた。


「じゃあ、人間は生まれたときから死ぬまで、何をやるかが全部決まっているってことですか?」


「いえ、そこまで単純な話ではなくてですね……」


 小柄な男は困ったように笑い、こめかみのあたりをぽりぽりと掻いた。『説明したところでなあ……』と言いたげな表情だった。


「とにかく、首吊りはあなたの死に方ではないんですよ。ですからお戻りください」


「いや、そんなこと言われても……。じゃあ、僕の正しい死に方って何ですか?」


「申し訳ありませんが、それをお伝えすることはできません。規則ですので」


 小柄な男はまた困ったように笑った。


「それと、ここで見聞きしたことは他言無用でお願いしますね。じゃないと……死後、地獄に落ちて舌を抜かれちゃいますよ。なーんて、はははは!」


 小柄な男は椅子の背にもたれ、大げさに笑った。

 男はただ顔をしかめた。


「ではお帰りください」


 小柄な男がすっと姿勢を正し、真顔で言った。

 次の瞬間、男の意識は途切れた。


 ◇ ◇ ◇


「はっ……は……」


 気がつけば、自宅の床に倒れていた。肺が空気を求めて痙攣し、男は激しく咳き込みながら何度も息を吸い込んだ。首にはまだ絞められた感覚があり、喉の閉塞感も消えない。全身にはまだ痺れが残っており、手足を動かしてみても、自分の身体なのにどこか感覚が遠かった。

 しばらく荒い呼吸を繰り返したあと、男はようやく上体を起こした。額には冷たい汗が滲み、髪がべっとりと張りついている。

 男は震える手で喉元に触れ、それからゆっくりと振り返った。

 ドアノブには延長コードが結びつけられたまま垂れ下がっていた。ただ、途中でちぎれており、切れた部分が床に落ちていた。断線した箇所からは銅線が剥き出しになっており、薄闇の中で鈍い光を返していた。

 火事場の馬鹿力……というやつだろうか。無意識に暴れて引きちぎった。あるいはコードが劣化していて、負荷に耐えられなかったのかもしれない。

 論理的に説明するならそれしか考えられなかった。だが、いくら現実的な理由を並べても男の脳裏からあの市役所のような場所の光景が離れなかった。


 ――正しい死に方って……なんだ。


 翌晩、男はマンションの屋上にいた。柵の外側に立って街を見下ろすと、無数の灯りがはるか遠くまで散らばっていた。車やバイクのライトが細い光の線となって流れ、まるで一つの巨大な生き物が脈動しているように見えた。

 この高さなら確実に死ねるだろう。足が震えているのは恐怖のせいなのか、それとも奇妙な高揚感のためか、あるいは吹き抜ける風の冷たさのせいか。

 その風が肺の奥まで流れ込み、空っぽの胸の内側を叩き、乾いた音を立てているように感じられた。

 男は短く息を吐いた。『もういらない』というように。

 そして、無へと一歩踏み出した。



 ◇ ◇ ◇



「お戻りください」


「……は?」


 気がつくと、男は再びあの市役所のロビーのような場所にいた。

 天井も整然と並んだベンチも、前回と何一つ変わっていない。違っていたのは、居合わせていた人々の顔ぶれくらいだった。もっとも、いずれも呆けたような表情を浮かべていた。

 そして、またあの小柄な男に手招きされ、男は窓口へ歩み寄った。

 目の前まで来ると、小柄な男は深いため息をついた。


「前回も申し上げましたが、正しい死に方をしていただかないと、現世へお戻りいただくことになるんですよ」


「いや、だからその正しい死に方って何なんですか」


「それはお教えできません。規則ですので」


 小柄な男は静かに机に両手をついた。


「ではお戻りください」


「いや、待ってくださいよ。戻るったって飛び降りたんですよ? 下はアスファルトでしたし、あの高さからじゃ、もう――」


「お戻りください」


 その声の直後、男の意識は暗転した。


 ◇ ◇ ◇


 気がつくと、男は病院のベッドの上にいた。おそらく落下した際の衝撃音を聞きつけた住人か通行人が通報したのだろう。無傷というわけではなさそうだが、それでも確かに生きていた。いや、戻された。

 問答無用というわけか――男は小さく咳き込みながら笑った。その掠れた声は薄暗い病室にかすかに響き、すぐに消えていった。


 それからしばらく経ち、退院した翌晩。男は電柱によじ登っていた。枝切りばさみの柄を口に咥え、足場に足をかけて必死に身体を持ち上げていく。

 手足が震え、何度か足を踏み外しそうになったが、それでも男は登り続けた。ここで落ちて死んでも、また現世に戻されるだけだ。そう思うと妙な笑いが込み上げた。

 時間をかけてどうにか目的の高さまでたどり着くと、男は枝切りばさみを構え、電線に刃を伸ばした――。


「お戻りください」


 再び現世へ戻されてからしばらく経ったある深夜。男は橋の欄干に胸を擦りつけながら、外側へ身を乗り出していた。眼下では黒々とした水が街灯の光を砕きながら流れている。

 男は息を整える間もなく、そのまま頭から飛び込み――。


「お戻りください」


 昼。男は駅のホームにいた。快速列車が轟音を立ててホームへ滑り込んでくる。

 男はタイミングを見計らい、線路へ身を投げ出し――。


「お戻りください」

「お戻りください」

「お戻りください」


 縊死。転落死。感電死。溺死。轢死。窒息死。焼死。中毒死、凍死、熱中症死、失血死――。

 男は首を吊り、マンションから飛び降り、電線に触れ、川へ飛び込み、列車へ身を投げ、ビニール袋を頭からかぶり、灯油を浴びて火を放ち、洗剤を飲み干し、裸で冷凍庫の中に閉じこもり、大量に服を着込んだうえで電気ストーブで自らを囲み、包丁で自らの首を切りつけ――。


 もはや執念であった。男は思いつく限りの死に方を次々と試みては、そのたびに現世へ追い返された。何をしても、今度こそ終わったと確信しても、気づけばあの市役所のような場所に立たされ、小柄な男からいつもの言葉を告げられるのだ。

 早くこの生き地獄を終わらせたい。男はただそれだけを考え、何度失敗してもあきらめずに別の方法を探し続けた。


「あとは圧死くらいか……どうやって……バスの下に滑り込むか。いや、それは轢死か……」


 ある夜。暗い部屋で男はテレビの前にひとり座っていた。

 画面をまともに見るでもなく、ただそこから放たれる光を浴びながら、取り憑かれたようにぶつぶつと死に方を呟いていた。


「あっ」


 だが、あるニュース映像が流れた瞬間、男は思わず声を上げた。


 ――そうだ、この死に方があったじゃないか。


 男はゆっくりと口角を吊り上げた。そして――。



「会談を終えた大統領が今、車に乗り込もうとしています。今回の会談で政府は――あっ。今、花束を持った男性が近づいてきました。大統領が警護を制しましたね。どうやら受け取るようです。えっ! あ! さ、刺されました! 今、大統領が首を刺されました! 警護が銃を抜き、男性に、あ、あ――」


 迎賓館の前で、乾いた銃声が連続して轟いた。

 花束を抱え、とある国の大統領に近づいた男はその陰に隠していた包丁を抜き放ち、大統領の首へ突き刺した。

 大統領は首を押さえ、よろめきながら後ずさった。すぐさま警護が一斉に銃を構え、躊躇なく引き金を引いたのだった。

 銃弾を受けた身体が大きく揺れ、色とりどりの花びらが宙に舞い上がった。まるで何かを祝福するかのように。

 そうして男は死んだ。行き先はまたあの場所――。


 ◇ ◇ ◇


「お疲れ様でした」


 窓口の向こう側からあの小柄な男が身を乗り出した。そして男の手を両手でそっと包み込むと、満面の笑みを浮かべた。 


「いやあー、お見事でした。本当に」


「まあ、他に思いつかなくてね」


 男は少し誇らしげに答えた。


「銃撃死。それが正解だったんだろう?」


「ええ、まあ。ははは」


 小柄な男は笑い、目を細めて男を見下ろした。


「車椅子で近づくというのは実に見事でした。油断させたところで、隠し持っていた包丁でグサッ。いやー、痛快痛快」


 小柄な男は興奮した様子で腕を突き出し、包丁を突き立てる仕草をした。


「彼はノーベル平和賞が欲しくて欲しくて、もう仕方がなかった人ですからね。あなたのような人に優しくすれば、いいアピールになると思ったのでしょう。ちょうど支持率も落ち始めていましたし――」


 小柄な男は急に顔をしかめ、手で口元を覆った。


「うっぷ、すみません……少々吐き気が。いやあ、しかし、ひどいもんですねえ」


 小柄な男は顔を逸らしながらも横目で男の全身をじろじろと眺め回した。

 全身に重度の火傷を負い、皮膚は赤黒く爛れて、焼け縮んだ部分が硬く引きつっていた。ところどころに薄い滲出液がにじみ、乾いた箇所にはひび割れた痂皮が張りついている。髪はほとんど失われ、かろうじて残った毛も頭皮の下に埋まっていた。身体の大部分が麻痺しており、両脚は膝から下を失い、指は何本も欠け、片方の眼球は潰れ、残ったほうの眼も腫れたまぶたの隙間からわずかに覗いているだけ。頭部は大きく変形し、顔は腫れと傷跡が幾重にも重なり合い――。


「ひどいもんですねえ」


 小柄な男はしみじみと繰り返した。


「どうでもいい……」


 男は吐き捨てるように言った。首を絞められた鶏の鳴き声のように掠れていた。


「それで、おれはどこへ行くんだ? 人を殺したんだ。地獄か? いや、そもそも自殺は地獄行きなのか。いや、最後のは他殺になるのか……」


 そこは今よりひどい場所か? 男はぽつりとそう呟いた。

 だが小柄な男は目を丸くし、大きく首を横に振った。


「いえいえ、地獄だなんてとんでもない! こちらとしてはあなたに深く感謝しているんですよ」


「……感謝?」


「ええ。いやー、あなたが殺したあの人、近いうちに戦争を始める予定だったんですよ。自身のスキャンダルを誤魔化すためにね。ほんと、アレな人ですよねえ」


 小柄な男はこめかみを指さし、人差し指をくるくる回した。


「戦争なんて始まったら死人が山ほど押し寄せてきますからね。対応するこちらは大変なんですよ。今でさえドンパチやっているというのに、これ以上は勘弁してほしいところです。書類は増えるし、手続きは山積みになるし、もうてんやわんやですよ。いやあ、本当に助かりました。なあ、みんな! 拍手!」


 小柄な男は振り返り、大声で呼びかけた。すると窓口の内側からどっと拍手が巻き起こった。何人かの職員は立ち上がり、口の前で手を筒状にして「ありがとー!」と叫び、指笛まで聞こえた。

 小柄な男も激しく手を叩き、何度も頷いた。


「おかげさまで、ようやく課の慰安旅行が実現しそうです! いやあ、ありがとう!」


 男はぽかんと口を開け、ただ呆然と立ち尽くしていた。しばらくしてようやく小さく呟いた。


「そ、そんな理由で……」


「お礼に現世へ戻して差し上げますね」


 鳴り止まぬ拍手の中、小柄な男は顔を寄せ、耳元でそう囁いた。


「大丈夫、神様は気にしちゃいませんから。寝てばっかりなもんで」


 そして、いたずらっぽく微笑んだ


 ◇ ◇ ◇


 男は現世へ戻された。

 それからしばらくが経ち、独房の中。男は壁に背を預け、薄暗い天井をぼんやりと見つめながら考えていた。


 ……おれは死刑になるらしい。それは当然だ。あんなことをしでかしたのだから。

 だが――。


 本当に、おれは死ぬことができるのだろうか。

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