リジェクトの提案
「……ここなら問題はないでしょう」
彼らはしばらく歩き、誰にも気づかれなさそうな場所へと出る。一花はリジェクトから借りた上着を羽織っていた。庭園のローズマリーが月に照らされ、白く光る。
「……では、先ほどの話の続きをしますね」
リジェクトはローズマリーを撫でる。
「今日僕があなたに話しかけたのは、ある提案をするためです」
リジェクトは一花の前に立ち、一花を見つめる。海のような瞳が、月夜に照らされ明るく輝く。
「……僕と結婚をしませんか?」
その言葉を聞いた瞬間、一花はぴくりと手を動かした。
「政略結婚ですよ。僕はある目的を果たしたいんです。そのために権力が欲しい」
リジェクトはぴくりと動いた一花の手を逃さずに見る。
「それに……これは教会を失脚させるチャンスですよ」
「教会を、失脚……」
一花が呟く。北風がびゅうと二人の間を通り抜け、葉っぱとぶつかりけたたましい音が響いていた。
「そうです。婚約破棄をされてしまったあなたは今後、王家に近づくことが難しい状況になる……」
リジェクトは事実をひょうひょうと話す。
「ですが僕と結婚することであなたは王家、あるいは教会にも接触でき、証拠を集めることができる」
彼は一花に手を差し伸べた。
「教会に復讐をしたくありませんか?」
過去のバレッタなら即決するはずの提案に一花は黙っていた。いや、することができなかった。
手を止める一花にリジェクトが面食らっていると、北風とともに、ローズマリーの匂いが二人を刺激する。
『いいですか。一花。あなたは葉山の所有物なのです。定まった伴侶以外の男と恋人の関係を築くなど言語道断です』
母の声が浮かぶ。同時に、婚約破棄という言葉が浮かぶ。
(……伴侶以外の男と恋人の関係を持ってはいけない……結婚も恋人の関係になる……?……でも、婚約破棄をしなければ葉山に戻れない……)
頭のなかできんきんと母親の声が聞こえた。
視界が色褪せていく。白いローズマリーも、明るく照らす黄色い月も、紫色のドレスも、すべてモノクロになっていく。一花の身体はせきを切ったようにぶるぶると震え始めた。
「大丈夫ですか?」
リジェクトが汗を浮かべながら声をかけると、一花は彼を見上げる。
不思議と、モノクロの世界に色が見えた。海のような深い瞳。彼女の耳にゆったりとした波が押し寄せ、ざあざあとさざ波の音が聞こえる。昔、一花が見たテレビに映っていた海の音だ。
暗い部屋でテレビ台に手を乗せて、海を見つめていた。どんか表情だったかは思い出せない。
その波の音が母親の声を吸いこんだ。
「………………」
「……わからないんです。どうすればいいのか」
ぽつりと、一花はそう打ち明けていた。なぜそうしたのかは彼女にもわからない。ただ、どうしようもなく頭が説明のできない異常に支配されていた。
「……どうしてですか?」
リジェクトは怪訝な顔を浮かべる。
「家に尽くすことが、私の存在価値だからです」
やはりこの状態でも一花は笑みを浮かび続けている。こいつは何を言っているんだというように、リジェクトの顔はさらに歪む。
「家族の期待に応え、女として子どもを産むことが私の義務だからです」
その言葉に彼は目を見開いた。彼は直感的に確信した。彼女は、本当にそれが正しいことだと思っている。目が同じだ。過去の彼の目と。脳裏にある光景が回想される。
リジェクトの喉がぎゅっと詰まり、胃から込み上げる何かを口で抑えた。同時に、生理的な嫌悪が湧き上がる。
(……アイゼンベルグがそういう家とは知らなかった)
これが本来の彼女の姿なのだろうかと、リジェクトは表情を曇らせる。
「……あなたは」
ドサッ
リジェクトが何かを言いかけたとき、一花は糸が切られた操り人形のように膝から崩れ落ちた。
「……え」
たらりとドレスから流れる血を見て、リジェクトは汗を流した。
「もしかして、その状態で歩いていたんですか!?」
リジェクトは瞳孔を開き、一花に詰め寄るものの、ずっと笑う彼女を見て、本当にこいつは頭がおかしいのだと頭を抱えた。
「……失礼しますよ」
リジェクトが一花を背負う。その表情は先ほどとはまったくの別人だった。一花は妙に温かかい背中が感じ取っていた。彼女は何も言わず、リジェクトの背中に体を預けた。
リジェクトはしばらく歩いてベンチを見つけ出し、そこに一花を座らせた。
「ひどい怪我ですね」
リジェクトはスカートを少しだけめくる。一花の右足にあざが広がっていた。特に赤黒く変色した場所には痛ましく血がどくどくと流れている。
「……どうしてこんなに我慢してたんですか?」
リジェクトは眉をひそめる。その表情には怒りがにじんでいた。
「義務のためには、私自身がどうなろうと関係ありませんから」
一花は当たり前のようにさらりと答える。それに彼はため息をついた。
「……狂ってますよ。まともな価値観じゃない」
リジェクトは目を伏せ、慣れた手つきでハンカチを巻く。しばらくの間、北風が吹く時間だけが流れた。
「終わりました」
彼は丁寧にハンカチを巻いた。白い布には赤い液体が染み込んでいた。
「……さっきの話の途中ですが」
「義務や家を抜きにして、あなたはどうしたいんですか?」
少し間を置いて、リジェクトは一花に聞く。ただ聞かずにはいられなかった。
「……わかりません。家族に尽くすのが義務ですから」
わかっていた。彼が想像していた通りの返事だ。その言葉を聞いて、リジェクトはぎゅっと目を瞑る。
(……アイゼンベルグの令嬢は記憶をなくしている。頭がおかしいものの、以前のように感情的でもない)
リジェクトの頭に数々の光景が浮かぶ。何度も毒を送り込まれ悶え苦しむ様、貴族に教養不足を何度も馬鹿にされたこと、そして恩師の顔。
(……もうあんな真似をできないようにしてやる)
リジェクトは覚悟を決めたようにゆっくり目を開く。そこに先ほどまでの彼の姿はなかった。
「……ですが、このままではあなたは義務を果たせなくなりますよ?」
一花の指がぴくりと反応する。リジェクトはそれを逃さない。
「あなたには障害が多すぎる。はっきりと言いますが、この騒動が起こってから、あなたには味方がいなくなった」
「家族の期待に応えることは難しいでしょう」
ひょうひょうとした笑みで彼は答える。
「……家族の期待に、応えれない」
一花は下を向き、無表情でポツリと呟く。
薄気味悪く笑う母親と、一花をお膳立てする祖父と祖母、にこやかに笑う弟。葉山家の面々。その顔が浮かぶ。
バレッタと一花は別人だ。リジェクトは公爵のことについて言及している。一花の家とは関係ない。ただ、どうしても一花にはその言葉が自分自身に言われているような気がしてならなかった。
「そうです。ですがそれを解決する方法があります」
「僕と結婚して、教会の闇を暴くことです。そうすれば噂も消え、悪い印象も払拭し、家族の期待にも応えることができる」
こういう性格は家族をダシにすれば扱えると、リジェクト自身にわかりきっている。先程と違い承諾をするだろうと、彼は鷹をくくった。
「……駄目です」
その言葉にリジェクトは表情を変えることはなかったものの、代わりに革靴を地面にこする音が聞こえた。
「……どうしてですか?」
「伴侶以外の男性と恋人の関係になってはいけないと教えられているからです」
「…………」
一瞬だけリジェクトは眉をぴくりと動かす。
「……契約上の関係ですよ。恋愛関係ではありません」
一花が数秒体を止める。そして、何かを考えるかのようにゆっくりと瞬きをした。
「わかりました」
一花が返事をする。革靴をこする音が、そこでようやく止まった。
「……契約成立ですね」
リジェクトは口元を緩め、複雑そうに眉間にシワを寄せた。
「それでは、戻りましょう」
リジェクトが手を出そうとする前に一花が立とうとするのをリジェクトが慌てて止め、再びおんぶされる形で会場に戻った。
その間、石と靴がコツコツとぶつかる音だけが響いていた。リジェクトの顔は植物の葉に隠れ、表情はわからなかった。
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