練習
「ではお嬢様、サロンで練習をいたします」
マリーは化粧室のドアを開き、一歩足を進めた。パーティ用の靴に替えた一花は、カツンと靴を鳴らす。
「まずは基本のリズムから確認いたします。記憶を失っていても、身体が覚えているかもしれませんから」
いつの間にか居間には姿見が用意され、中央のテーブルが片付けられていた。
マリーはひんやりとした鍵盤を楽譜も見ずに鳴らす。
音楽が奏でられる。聴いたことのないリズムだったが、一花は身体が自然と動かされていた。
後ろ目でマリーは一花の足や挙動をじっくりと見る。
音が止んだあと、マリーはピアノの席を立った。
「見た様子ですと、基本的な部分は達成しているように思えます。振り付けは問題ないでしょう」
「ですが視線を落とすところや体の傾け方など、癖が見受けられます」
マリーは一花の体をちらりと見る。
「まずはこの癖を矯正します」
「手本として私の踊りを見せます。私はもとは貴族の出でございますので、ダンスには自他ともに自信があります」
マリーは胸に手を置き、目を瞑る。
「私の動きを真似すれば、問題はないでしょう」
そう言ってマリーは音もなく動く。その瞬間、空気が変わった。
本当に音楽が鳴ったかのようだ。
指先まで繊細でしなやかな動き、本当にドレスを着ているかのような立ち振る舞い、まさに貴族のように気高く美しかった。
一花は瞬きをせず、マリーの姿を脳裏に焼き付けた。
(……真似をする)
一花にとって取るに足らない、簡単なことだ。
マリーが動きをやめたあと、一花は手先を広げ、しなやかに動き出した。
「え……」
動きがマリーそのものだ。指の動き、リズム、ほんの微細なずれも出さない。
一花は鏡をとらえ続け、まるで機械のように自分の癖を正す。姿見にマリーの姿が映った。表情はわからなかった。
ズキッ
毒の痛みが一花を刺す。しかし何事もなかったかのように体を回転させた。
マリーは目を丸くし、下働き時代に何回か見ていた過去のバレッタを思い出していた。
使用人と目が合っただけで難癖をつけ、髪を引っ張っていたバレッタ、商人が毎日のように大荷物を抱えバレッタの部屋に入っていく様子。
(……少し驚いてしまった)
お嬢様はいくら評判が悪いとはいえ貴族だ。このくらいできて当たり前に決まっているだろう。
(性格がいきなり変わったから、いちいち反応して驚いてしまう)
……きっと、記憶喪失で混乱しているのだろう。
目覚めたあとのお嬢様の笑顔を思い浮かべる。
だとしたら少し可哀想かもしれない。誰も味方がいないこの家で、何も分からないまま過ごすのは。
私はお嬢様の顔をちらりと眺める。何も知らずに踊り続けるお嬢様に、少し胸が痛くなった。
(……だけど、私には関係ない)
いくら没落した貴族であろうと使用人と貴族の間には絶対的な壁がある。そこを踏み越えてまで考えることではない。
『お前はただ淡々と接していればいい。情を持つな』
公爵の顔がマリーの脳裏に浮かんだ。
マリーは表情を戻し、踊り終わった一花に近づいた。
「……お嬢様、完璧でございます」
マリーはパチパチと手を叩く。
「ティータイムのお時間ですのでダンスは後日行います」
機械的な声でマリーは居間全体を見上げる。
「本日は通常の生活ではありませんでしたが、動いても問題はなさそうですので明日から通常の生活に戻らせていただきます」
そう事務的にマリーは言った。
その後、マリーはティータイムで一花に紅茶と軽食を差し出した。一花はバレッタに教えられた所作でカップを持ち、サクサクのスコーンをつまんだ。マリーは一花をちらりと見て、少し目を伏せる。
無言が続き、粛々とティータイムは終わった。
そして、その後の夜ご飯は部屋で食べ、バレッタとしての二日目は終わった。
「おはようございます。お嬢様」
昨日と同じ時間に一花は目覚め、マリーは義務的に一礼をする。
「昨日宣告したように通常の生活に戻らせていただきます」
「このあと、公爵様たちと朝食をとる予定でございます」
マリーは手早く一花の顔を洗ったあと、そそくさと化粧室へと連れて行った。
「お嬢様、どちらの色がよろしいでしょうか?」
マリーは黄色と緑のドレスを用意し一花に聞く。
昨日は露出があまりない服だったので気にしていなかったが、今日のマリーの選んだ服は露出が多かった。
(……肌を露出させるのはふしだらだ)
一花の母親の言葉が頭のなかで繰り返される。
「……別の露出が低い服はありますか?」
一花は静かに尋ねた。
「昨日のドレスは療養用として着たものでであり、クローゼットの奥にしまってあった数少ないものです」
「それにこのドレスはお嬢様が好んで着ていたものでございますが」
マリーの言葉には説得も困惑も混じっていなかった。
「……露出が低いものでなければ、駄目なんです」
先ほどと同じトーンで一花は繰り返す。決められたルールになぞるように。
そこには自分の意思などなかった。
「……畏まりました。旧式ですが公爵家の名として恥じない上質なドレスを用意いたします」
マリーはそれ以上何も言わない。マリーには踏み込む領域ではなかった。
マリーは淡々と持っていたドレスをクローゼットにしまい、別のドレスを取り出す。紺色のレースがかかった、厳粛なドレスであった。
「それではお嬢様、食堂へ参ります」
着替えが終わったあと、一花はマリーに導かれるようについていく。
控えの間を出て重厚な回廊を踏み出し、中央階段を降りていく。
シャンデリアが階段の大理石を照らし、花の甘い匂いが一花の鼻をつつく。
階段を降りてしばらく長い廊下を歩いていると、数十人のメイドが一切の乱れもなく横並びに整列し、頭を下げた。
「「お嬢様、おはようございます」」
メイドたちは一斉に挨拶をするものの、一花はメイドに目もかけずにマリーのあとをついていく。
メイドの視線が一花の姿、紺色の露出が少ない服に釘付けになる。
ざわめきも何も起きなかったが、確かに空気が変わっていた。
「お嬢様、ここが食堂でございます」
マリーは部屋の前で止まった。装飾がされたドアが荘厳に輝いている。
男性の使用人が部屋のドアを開け、一花は足を踏み入れた。
(……どこに座ればいいんだろう)
一花に広がったのは、長テーブルに椅子が何個も置いてあった光景であった。椅子には二人の人物が座っている。
一人は公爵、もう一人は黄金色の目をした、ブロンドヘアの公爵によく似た人物であった。公爵ともう一人の人物は一花の服装をちらりと見る。
「……お前にしては珍しい服だな」
公爵は無表情で一花に語りかける。ブロンドヘアの人物はバレッタを一瞥したあと無言で視線を戻した。
「はい」
一花は貼り付けた笑みで答える。そこには感情など籠っていなかった。公爵は凍りつくような冷たい表情を浮かべる。
「……まあいい。早く座れ」
公爵はテーブルに視線を戻す。使用人が椅子を下げたあと、一花はそれに従うように座った。
その後、使用人が黙々と皿の音も立てずに銀の皿を一花たちに運ぶ。
蓋を取ると、カリカリのベーコン、ハムエッグ、さまざまな料理が一花の前に並び、鼻を刺激する。
公爵たちは音を鳴らさずに料理を食べ始めた。
一花も同様に丁寧に食事を食べる。張り詰めた空気だけがのこっていた。
食事を食べ終わったあと、公爵はすぐに部屋を出る。部屋にはブロンドヘアの男と一花が残った。
一花は公爵に続いて席を立って部屋を出る。ブロンドヘアの男は、部屋を出ていく一花を睨んでいた。
食堂を出ると、廊下にマリーはいなかった。一花は先ほど通った道を機械のように辿る。
周りにはメイドも誰もおらず、朝日が明るく回廊を照らしていた。しーんと布をこする音だけがする。
「待て」
そこに、ブロンドヘアの男が静寂を打ち破った。一花は振り向き、男の顔を見る。
「お前、今度は何を企んでいる?」
淡々としたものの刺々しい声で男は話す。ブロンドヘアの髪が照らされ、美しく輝いていた。
「前にもこんなことがあったな。あの女の真似をして、父上に叱られていた」
男は呆れた視線を向ける。静寂のなかに、男の声だけが響いた。
「それに、わざわざ死なない程度の毒を飲み、周りに構ってもらえるとでも思ったのか? さらには記憶喪失などと……」
「あの女の血は確かに受け継いでいるらしい」
男はふっと皮肉の笑みを浮かべる。瞳が影に隠れる。その言葉を聞いても、一花は瞬きをせずに笑顔で男を見つめ続けていた。
「……なんだ、お前?」
(いつもはここでヒステリックを起こすのに……)
ただいつもより演技が凝っているだけだろうと思い、男はため息をついた。
「……まあいい。とにかく、これ以上余計なことをするな。俺は一切関わらないからな」
男は一花に近づく。
「こんなことをしようと、お前は誰にも愛されないんだよ」
男は当たり前のようかに告げた。回廊の向こうから足音が聞こえてくる。
「お嬢様」
マリーだ。ヴィルバートはマリーを一瞥する。
「話は終わりだ。バレッタ」
男は回廊の奥へと足を進めた。特に一花は気にすることもなく、振り返ることはなかった。
「大変申し訳ございませんお嬢様。記憶喪失だというのにご家族の説明をするのを忘れていました」
サロンに戻ったあと、マリーは頭を深く下げた。
「先ほどの方はヴィルバート様でございます。お嬢様のお兄様であり、アイゼンベルグ公爵家の跡取りでもあります」
マリーはティーテーブルの椅子を引き、一花を座らせる。
「今から説明いたしますが、お嬢様のご家庭は少し複雑で……」
「厳密には、ヴィルバート様とは異母兄妹の関係なのです」
マリーはヴィルバートが前妻と公爵との子供であること、前妻との離婚後、公爵と再婚したのがバレッタの母親であると説明した。
「お嬢様のお母様は流産で亡くなり、公爵様の子供はお嬢様とヴィルバート様だけでございます」
マリーは気まずそうに目を伏せ、くるりと仕事机まで近づく。
「それではお嬢様、仕事の時間です」
ーーーその後はあっという間だった。マリーに教えてもらいながら仕事を片付け、午後のレッスン、夜を繰り返す。昇っては沈んでいく太陽に規則正しい生活。まるで嵐の前の静けさのように、平穏に一週間は過ぎていった。
そして、パーティ当日
小説を書くのは難しいですね。特に時間スキップの描写が何気に難しい気がします。あと、予告ですがパーティでヒーロー登場します。物語が一歩先に進みますよ。
読んでくれてありがとうございます




