診察
「お嬢様。お医者様を連れてまいりました」
マリーが部屋に入ると同時に、一花は反射的に笑顔を作った。
「お嬢様、無事で何よりです」
医師は手を胸に置きぺこりと頭を下げる。
「それでは、さっそく診察を行っていきたいと思います」
しわがれた声で医師は、マリーの案内で一花に近寄る。マリーはドアの側で、医師と一花を監視するように立っていた。
「では、最初は脈拍を測らせてもらいます」
医師はポケットからずっしりとした懐中時計を取り出した。
カチカチと規則的な音を立てる懐中時計を見つめながら、医師は一花の腕をとる。
トクン、トクン、と一花は驚くほど一定の脈拍をとった。
「……ふむ。昨日と同じく、脈拍は問題ないですね」
次は瞳孔の状態を確認しますと言って、医師は一花の目を覗いた。
医師が近づいたら普通の令嬢はたじろぐはずなのに、一花は表情を崩さなかった。
「……特に問題はありませんね」
少し寒気を感じた医師は、一花の笑顔から顔を背けカバンからヘラのようなものを取り出した。
「口を開けてください」
医師は口を開けた一花の舌にヘラを置き、喉をまじまじと見る。
「……喉の状態も異常なし。このまま安静にしていれば、体は快復するでしょう」
医師は一式の道具をポケットやカバンにしまい、カルテのようなものに書き付けた。
「では、本題の記憶喪失の状態について確認します」
医師は一花の反対のソファに座り、一花の顔を見る。
「今日が何年で、何日だかわかりますか?」
「わかりません」
「この屋敷のことや、ご家族について覚えていますか?」
「わかりません」
「マナーは特に問題はないとマリーさんからお聞きいたしましたが、どの程度覚えていますか?」
「日常生活のマナーならわかります」
このような質問を繰り返し、一花はわからない、や少しならわかるという返答を繰り返した。医師は最後の質問ですといい、一花に尋ねる。
「……では」
「なぜ倒れたか、覚えていますか?」
一花はぴくりと反応した。どう答えるか迷った一花は、沈黙を貫く。
そのとき、暖炉の火花がバレッタの瞳の色に変わったように見えた。
『記憶喪失だということにしてください』
バレッタの顔が浮かぶ。
「……覚えていません」
一花は微笑んだ。
「……そうですか」
診察は以上ですといい、医師はマリーを呼ぶ。
「結果をお伝えしますが……特に精神的な異常や身体的な異常もありませんでしたので、薬は鎮痛剤だけで十分でしょう」
「そして記憶喪失の原因として、おそらく、神経毒のショックで記憶喪失になったものだと思われます」
「では、記憶を取り戻すために、何をなさったらいいでしょうか」
マリーは医師に質問する。
「そうですね……いきなり思い出させるのも悪化の原因になるので、まずは外出や散歩をすることで気分転換をし、精神的にリラックスさせたほうがいいでしょう」
「また、屋敷やご家族のことも覚えていないということなので、屋敷の案内や……ご家族との交流も改善に繋がるかもしれません」
医師は一花の顔をちらりと見て、気まずそうに答える。靴がカチカチと大理石にあたる音が、部屋全体に響いていた。
「かしこまりました」
マリーは一礼をする。窓の外を見ると、太陽が南に昇っていた。
「もうこんな時間でしたか……」
医師は次の診察があるということで、居間からぎいいと重い音を立てて出ていく。医師が出ていったあと、一花の頬に冷気がひやりと伝わった。
「では、お嬢様」
「私は公爵様に呼ばれているので、失礼いたします」
マリーはあとで屋敷の案内をすると言い、ぺこりと一礼をして出ていった。窓からさす光が、一花の顔を包む。ぽつんと一人きりになった一花は、日の光をまばゆいとも思わず、ただ無表情でからっぽに座っていた。
公爵家。当主の控えの間
「どうぞこちらへ」
執事が重厚なドアを開けると、ギイイとけたたましい音が鳴った。
「バレッタの様子は?」
重低音が響き渡る。そこには年齢が若くとも、威厳を感じさせる貫禄がある男性がいた。
「記憶喪失について、特に嘘をついている様子はありませんでした」
マリーは淡々とした様子で答える。
「ですが……現在のお嬢様は、以前のお嬢様とまったく別人のように豹変したかのように思われます」
インクの匂いがマリーの鼻をつく。
「どういうことだ?」
公爵の眉がぴくりと反応する。金色の瞳は、まるですべてを見通すかのようだ。
「マナーは完璧ですが歩き方や所作が以前と全く違います。また、メイドに礼を言ったりと、性格の面でも全く違うのです」
「それに……」
「ずっと笑っています。医者が近づいたときも何も反応せず、ずっと笑みを浮かべ続けているのです。まるで……」
人形のように……
マリーは怒りっぽくプライドが高い、以前のバレッタを思い返していた。
「……そうか」
公爵は紙をぺらぺらとめくり、仕事をし始めた。
「それなら問題はないだろう。マリー、バレッタをパーティに出席させろ」
ちょうどボルトン伯爵家のパーティがあると言い、紫色の招待状をマリーに手渡す。マリーは何も言わずに受け取った。
「聖女の件は揉み消したが噂が立っている。このまま家に籠もらせている状態では、余計に噂が立つだろう。それに、医師からも体の問題はないと聞いている」
本棚の古書の香りが漂う。マリーはかしこまりましたと、一礼をしてそそくさと去っていった。
マリーが去ったあと、公爵はバレッタを回想していた。
聖女の事件の後、バレッタは自分はやっていないと必死に暴れまわっていた。その鬼気迫る表情は、バレッタの母親と正反対だった。公爵はバレッタそっくりの女性を脳裏に呼び寄せる。
(大方、演技をしているだけだろう)
ため息をつき、公爵は淡々と仕事を続けた。閉め切ったカーテンがひらりと強い風で揺れ、日の光が差す。公爵はそれを、煩わしく思うだけだった。
一花が待って三十分くらい経ってから、マリーはガチャリと居間のドアを開けた。マリーは一花のもとに近寄る。
「……お嬢様。突然ですが一週間後、ボルトン伯爵家の夜会パーティへの参加をすることになりました」
パーティと言う単語を聞き、一花はぼんやりと葉山家で主催されたパーティを思い出す。和食が長い机にずらりと置かれ、大人たちがお酒を飲み合っていた。
(お母様がいっていた……パーティで自分の恥部を晒してはいけないと……)
一花は、母親の言葉を反復する。そこに自分の意志は混じっていなかった。
「一週間後と期間が短いため、今日から準備を始めます。そのため、屋敷の案内はパーティが終わってから行います」
「では、まずはリハビリも兼ねて、ダンスの確認をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「……参加できません」
(……そんな時間、ない)
一刻も早く婚約破棄をしないといけない一花には、そんな何も関係なさそうなパーティに参加する余裕などなかった。
「え?」
マリーは目を丸くする。目が覚めてからバレッタが断ることなどなかったからだ。
「ですが……パーティにはもう出席をすると返信を送ってしまっていますので……」
「なぜ参加できないか、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
一花は、どう答えればいいのかわからなかった。一花が黙りこくっていると、マリーは少し動揺しながら言う。
「それに、パーティに行くことでお嬢様の記憶喪失を改善できるかもしれません。以前から親しかったボルトン伯爵夫人や、よく交流があった王家のご子息の一人であるリジェクト様も……」
あっとマリーは口を塞ぐ。
(しまった、うっかりして失言をしてしまった)
今の状態のお嬢様に地雷である王家の話をすれば、記憶を刺激して暴れ出すかもしれない。
(リジェクト様……王家の一人……)
どうすればいいかわからなくてにこやかに笑っていると、バレッタの声が浮かんだ。
『王家と関わりを持ちなさい』
影がゆらりと揺れる。
「わかりました。参加します」
先ほどとはうって変わって態度を変えた一花に、マリーは少したじろぐ。
「……そうですか。では、ダンスの練習をさせていただきます」
バレッタとマリーは化粧室へと戻る。居間の外の木々が、強風でごうごうとけたたましく窓を叩いていた。
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