私の義務
少年が完全に白くぼやけたとき、一花は目を覚ました。一花は、夢を覚えてなどいなかった。
(……痛くない)
昨日飲んた鎮痛剤の影響で、バレッタの体から痛みは和らいでいたが、そんな些末なことは気にせず一花はベッドから起き上がった。
「お嬢様、おはようございます」
マリーはカーテンを開けたあと、一礼をする。
「お医者様から安静にしているようお達しがあったため、今日は静養と、記憶喪失の簡単な診察をさせていただきます」
マリーは淡々と告げる。
「本来なら顔を洗い、歯を磨きますが……歩けますか? もし歩けないなら飛ばしますが……」
マリーは一花の顔に視線を向ける。
(アイゼンベルグさんの言ってたとおり……)
一花は、バレッタから貴族のマナーや、貴族の生活習慣、やることを教えられていた。
一花はにっこりと笑い、ベッドから立ち上がる。
「歩けます。それに、痛みも全く無くなったので、もう外に出れます」
一花は貼り付けた笑みで答える。
ずきり
体にはやはり少し痛みが残っている。しかし、その目には婚約破棄という工程をいち早くでも達成しなければという脅迫的な義務感があった。
「……そうですか。わかりました。公爵様にはそうご報告いたしますが、一旦様子見ということで、今日は身体の状態を確認させていただきます」
マリーは一花にガウンを羽織らせた。一花はマリーの指示に従い、側にあるウォッシュスタンドで顔や手を洗い歯を磨く。
顔を洗い終わったあと、マリーは寝室のドアを開けた。
「様子見や部屋の確認というのも含めて、今日もお嬢様の部屋で朝食を取っていただきます」
マリーはバレッタを寝室のドアから連れだし、化粧室を通る。
マリーは化粧室のドアを開け、またさらに奥の部屋に連れて行った。
その部屋は、朝日に照らされたいくつかの机、大理石に敷かれた美しい模様のカーペットがあった。
「お嬢様、居間の説明をいたしますね」
「この部屋では、お嬢様は窓際にあるライティングデスクでパーティの招待状や手紙の返信をします」
「真ん中のティーテーブルでは、朝食や、招待した方と食事をともにする場所です」
マリーはあちこちと指を指し説明をする。息は一切切れていなかった。
「ーそして、最後に壁際にある机がオケージョナルテーブルであり、あそこで本や花瓶などを飾ります」
説明が終わったあと、マリーは一花をティーテーブルに座らせ、そのまたさらに居間の奥の部屋に行った。その後、一分もしないうちにトレーを持ってきた。
「お待たせいたしました」
マリーはトレーを重厚感ある、この部屋の雰囲気に似つかわないマホガニーのテーブルに乗せた。
「今日の朝食は野菜のスープとキュウリのサンドウィッチ、マフィン、ベーコンとスクランブルエッグでございます」
マリーはトレーから様々な皿に盛り付けられた食事を机に置く。
ありがとうございますと言って一花はスプーンを握る。一花は無意識に皿を手で持ち上げようとするものの、手を止める。
(皿を持ち上げない……)
一花はバレッタから、簡単なマナーを口頭でしか伝えられていなかったが、もともとマナーを身につけていた一花には、そのうちの数個を覚えるだけで十分であった。
マリーは不審そうな顔で一花を見つめるも、一花は丁寧な所作、綺麗な姿勢でスープを口に運ぶ。
もう一花は、以前の世界の料理との味の違いを感じることなどなかった。
朝食を食べ終わったあと、一花はマリーに連れられ、先ほど通ったあの部屋、化粧室に戻った。
「このあとはお医者様が詳しい検査をするということなので、ドレスに着替えます」
化粧室でマリーが合図を送ると、控えていた数人のメイドが音もなく入ってきた。メイドたちは目を合わせることもなくドレスを広げる。
マリーはネグリジェを脱がし、シミーズ、ドロワーズなどを着せた。
メイドに囲まれ、何も感じず言われたまま服を着る一花は、まるで着せ替え人形のようだった。
「コルセットを緩めにしますが、少し苦しくなります」
マリーは一花の体にコルセットを通し、紐を締める。紐を締めると、一花の呼吸が浅くなった。
その後もペティコートを重ね着し、ようやくドレスに手を通すことができた。
一花は、鏡に映った着込んだ自分の姿、正確にはバレッタの姿を見つめる。
その後、髪をブラッシングしアクセサリーをつけると、ようやく着替えが終わった。マリーはメイドに外に出るよう合図を送る。
「お嬢様、お医者様を連れてきますので、居間で少々お待ちください」
マリーは居間へと入るが、一花はマリーについていかず、そのまま鏡を眺めていた。
「お嬢様?」
マリーが一花を呼ぶと、一花は居間へと入っていった。
そして、マリーは一花を暖炉の側のソファへと座らせたあと、部屋を出ていく。
(はやく婚約破棄をしないと……)
ソファに座った一花は暖炉を見つめる。重いドレスは一花を鎖のように縛った。
彼女はバレッタから指示された婚約破棄の方法を思い返す。
あの寝室でバレッタは、円形のテーブルに紅茶を置いた。
『まず、私の冤罪の件はしばらく時間が経ってしまっているかつ、かなり大々的な事件を起こしたので、証拠はすべて破棄されたと考えるのが自然でしょう』
バレッタは一花に視線を向ける。
『ですが、別の悪事の証拠を集めることは可能です』
バレッタは指を口に添える。バレッタの目には、ある男が映っていた。
『今からカイル様について説明します』
カイルとは、エラルド王国の王太子でバレッタとの婚約を破棄した人物だ。
『あの方が聖女と交流を持つようになってから、性格が別人のように変わりました』
バレッタは自身の記憶をたどり始めた。
『温厚な性格でしたが、急に震えだしたり、怒りっぽくなるようになり……』
『当時は交流が少なく、教会を危険視していなかったのでただの風邪だろうと気にも留めていませんでした』
ですがと続けて、バレッタはティーポッドを注ぎ紅茶を淹れ直した。
『死んでから話していくうちに頭が冴えたのか、気づいたことがあるのです』
バレッタは冗談のつもりで言ったのか、ふふっと笑う。
『カイル様が前に小瓶を飲んでいるのを目撃したことがあるのを思い出しました。そして、その瓶に教会の紋章があったことも……』
『おそらく、カイル様は聖女に何かの薬を盛られたのでしょう。聖女はいつも聖水をカイル様に贈っていたと聞いたので……』
バレッタはこほんと咳払いをする。バレッタの目から、本心を感じ取ることはできなかった。
『とにかく、あなたには教会の闇について調べ、証拠を集めていただきたいのです』
バレッタは椅子を立ち、にこりと笑い一花の髪を撫でつける。
『あなたはカイル様の小瓶を回収し、偽物とすり替えてください。偽物の瓶はカイル様が捨てた瓶を回収すれば手に入れられるでしょう』
バレッタは一花の耳にささやく。一花から表情は見れなかった。
『期待してます。葉山一花さん』
バレッタはくすりと答える。その言葉が、一花の耳に残った。
暖炉の薪の火粉がバチバチと跳ねる。一花はそれを、無表情でずっと眺めていた。




