序章の始まり
アイゼンベルグ公爵家のバレッタの部屋。薔薇の香りが重苦しい。
パーティが終わってから二日後。一花は療養のためにベッドから出ることを禁止されていた。
一花はぼーっとベッドで窓の外の景色を見続ける。鳥がぴいぴいと音を立て飛び立つと、枯れ葉がひらひらと落ちた。
「失礼いたします」
そこに、ドアの向こうからマリーの声が聞こえてきた。一花がマリーへ顔を向ける。マリーは花束と書簡を抱えていた。
「お嬢様へお見舞い品が届きました。リジェクト・エラルド様からです」
マリーは花束とともに持っていた書簡を一花に渡す。
「あなたが再び歩けることをお待ちしています」
一花が書簡を開くと、このような言葉が綴られていた。花束には黄色や白、オレンジ色の色鮮やかな薔薇がまとめられている。
「…………」
一花はじっと書簡を見続けていた。文を指でそっとなぞる。なんとなくあの夜の波が聞こえたように感じた。
そして、しばらくしてマリーへと顔を上げる。
「ありがとうございますと伝えてください」
だが、特に反応することはなかった。一花は社交辞令をなぞるようにマリーに書簡を返す。
渡すときに一花の手が触れ、マリーは目を若干細めた。
ダンス練習の一週間、
『本当に休憩をとらなくてよろしいのでしょうか?』
マリーは一花に語りかける。四時間弱、休憩をとることなく、一花はダンスを踊り続けていた。
一花は汗で濡れた髪を拭い、にこりと笑う。
その笑顔は一花の疲労を感じさせることがないほど完ぺきだった。
『私には、これをすることしかできませんので』
一花は静かに、微かに乱れた呼吸でそう言う。マリーはその姿に口をわずかに開けた。
(……シンディ)
マリーは、かつての自分の家で何時間も勉強に勤しみ、ダンスに失敗して叩かれても屈託なく笑う、マリーとよく似た栗色の少女を思い浮かべていた。
「……お嬢様」
一花がマリーの方向を向く。その目には、少しの恐怖心と、飢えに苦しむ弟妹の姿を浮かべていた。
「私からも、お嬢様の回復を心からお待ちしております」
マリーはぺこりと頭を下げて出ていった。一花は彼女の後ろ姿を無表情で見つめていた。
部屋の中に、軽やかな薔薇の匂いが微かにあった。
♢ ♢ ♢
アイゼンベルグ公爵家執務室で、公爵はパラパラと書類を見ていた。
その書類の一つに、パーティの招待客リストが綴られ、公爵は目を留める。その中にはリジェクトの名前があった。
公爵はリジェクトの名前を万年筆で指し、肘を机に置きあごを手に乗せる。
(……よろしく、か。さらに見舞いなど、殊勝なことだ)
公爵は冷徹な視線でじっとその名前を見て、この私生児をどうしようかと頭でこねくり回す。
聖女の事件で失った多くの資産。公爵はそれをなんとしてでも取り戻さなければならなかった。
……バレッタ
脳裏にバレッタの姿が浮かび、公爵は眉をひそめる。
公爵の唯一の失敗の象徴であり、問題行動を起こす、格式高いアイゼンベルグの汚点。
万年筆がミシミシと音を立て始める。公爵はコーヒーを口に流し込んだ。そして、コーヒーの苦みが公爵を冷静な思考へと引き戻す。
(ーー決めた。あの私生児を操り、あいつの代わりにする)
ただ、警戒も必要だ。何が牙を剥くか、わかったものではないからな。
コーヒーの苦味が、妙に公爵の口に残っていた。
♢ ♢ ♢
(とか、公爵は考えているだろう)
王室離宮内、リジェクトは自室で腕を組んでいた。小綺麗なものの、どこか古臭い匂いが漂う部屋だ。
(アイゼンベルグ公爵家。軍事や様々な産業にも手を出している、大きな影響力を持った貴族家。まあ、あの令嬢のせいでその影響力は落ちてきているが……)
リジェクトはパーティで会ったバレッタの姿を思い返す。なんとも雰囲気が全く違う、不気味な女になっていた。
「リジェクト様」
そこに、ノックの音が聞こえ男が入ってきた。リジェクトは穏やかな笑みを浮かべる。
「聖女様がお越しになられました。お話することがあるそうです」
「そうですか。それではこちらにお通しください」
リジェクトは待っていたかのように、余裕そうな笑みで目を閉じた。
「お久しぶりです。リジェクト様」
ミルクブロンドの髪をした、愛らしい顔の少女が、おしとやかな所作でぺこりと一礼をする。
青と紫色の大きな紫陽花の髪飾りが太陽に反射し、キラキラと美しく輝いていた。
「ええ、婚約パーティ以来ですね。相変わらずお元気そうで安心しました。これも信仰の賜物でしょうか」
リジェクトはくすくすと嘲るように笑う。聖女はティーカップを静かに置き、にっこりと口を緩める。
「それで、その聖女様の私への用件とは何でございましょうか」
聖女はその言葉を聞くと、瞳を右下にやり、気まずそうに汗を浮かべた。
「実は三日前、リジェクト様が……バレッタ様と踊りになさったと聞いて」
聖女が気まずそうにバレッタの口を聞く。聖女の従者は、その名を聞いて顔をしかめた。
「私、あの人の様子が聞きたいのです。あの件も、何か誤解があったからなのではないかと……」
聖女は拳を握り、目をぐっとこらえて頭を下にやる。従者はたまらず聖女に駆け寄り、ハンカチを渡した。だが、リジェクトは冷たい目でそれを見る。
「……そうですね。あくまで僕からの視点でしかないのですが」
「記憶喪失で、すべてを忘れ去ってしまっているようでした」
聖女は目を見開き、顔を上げた。
「じゃあ、記憶喪失だという噂は本当に……!」
「ええ、本当のようです。混乱しているようで、まったくの別人のようになっていました」
「別人……?」
聖女は息を呑む。リジェクトはティーカップを持ち上げ、目をつむった。
(まあ聖女の事件で煽った時、わずかに反応したから記憶を無くしているかはわからないけど)
(ただ、あの性格は到底演技で出せるものではない。記憶喪失でないのだとしたら、あれが何なのかは、説明がつかない……)
「ーーそれで、どのようなお話をされたのですか?」
リジェクトがはっとする。どうやら考え事に夢中になっていたようだ。
「……大した話ではありませんよ。向こうは僕のことを全く覚えていなかったので」
「ですが、公爵家のパーティに招待されたと聞きました」
リジェクトはぴくりと手を動かす。
(その話はまだ誰にもしてないんだけどな)
まるですべて見据えているかのように、聖女の目は光り輝いていた。
「ああ……あの人がひどいケガをしたので、僕が介抱をしたんです」
「それで公爵様に気に入られたのか僕をパーティに」
「そうですか……」
聖女は手を胸に置き、息をついた。
「記憶喪失なのは心配ですが、バレッタ様の様子が聞けて安心しました」
「今度パーティで会ったら、私が心配していたことを伝えてくれませんか?」
リジェクトは聖女の顔を見つめる。
「……随分と心配なさるのですね。兄がそんなことを聞いたら、嫉妬しますよ?」
リジェクトがからかうように笑う。聖女は口を開け、また笑みをこぼした。
「ーー当たり前ですよ」
そよそよと風が揺れ、聖女の滑らかな髪が流れる。
「私はバレッタ様の、唯一の親友ですもの」
聖女は紅茶を飲み終え、椅子から立ち上がる。
「私、そろそろ行かなければならないようです」
「遅刻してしまう未来が、見えたもので」
手を口に隠し、くすくすと聖女は笑う。頬がピンクに染まり、なんとも愛らしい。
「それではありがとうございました」
聖女はぺこりと一礼をしたあと、部屋から出ていった。
聖女が去ったあと、リジェクトはため息をついて顔を天井に向けて手を置く。
聖女の件、バレッタの件、今後の計画、リジェクトは多くのことを考えなければならなかった。
リジェクトは頭を戻し、手のひらを見つめる。
(……やはりあの人のようには上手くいかないか)
拳を握り、リジェクトはぎゅっと目を瞑る。離宮の庭で、緑色の長髪が風に揺れていた。
(絶対にあいつらの思い通りにはさせないから)
ぐっと拳の力を強め、リジェクトは拳をおでこに置いた。
♢ ♢ ♢
あのパーティから三週間後の夜、公爵家はざわめきに包まれていた。
そのパーティ会場とは別に、公爵、リジェクト、そして一花、三人がソファに向かい合っていた。
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