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そんなタバスコがないものだろうか

作者: 仲瀬充
掲載日:2025/12/26

「お待たせいたしました」

ウエイトレスがパスタと粉チーズの缶をテーブルに置いた。

「タバスコは?」

「ございます。お待ちくださいませ」

ウエイトレスが去ると僕は不満をたれた。

「気がきかないな。刺身にワサビ、パスタにタバスコはつきものだろう」

しかし笙子(しょうこ)は3年ぶりにばったり会ったというのに最前から窓の外に顔を向けたままだ。

まあ、それも当然と言えば当然なのだが。

店の前の通りの向こうには狭い川が並行して流れている。

その川に沿った桜並木を透かして木造モルタル造りの2階建てアパートが見える。

古びた壁面が夕映えの残照に染まっている。

「今はどんな人が住んでいるのかしら」

ぽつりと笙子が言った。


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


「ねえ、心が太いって書いて何て読むの? しんた?」

食器を洗いながら僕は顔だけ振り向けた。「ところてん」

「ほんとに? あ、それでいけそう」

正座して座卓(テーブル)でクロスワードパズルを解いている笙子の後ろ姿は宿題をしている小学生のようだ。

ただ、足の裏はたくましく(ふち)は白くささくれ立っている。

仕事で立ちっぱなしのせいだろう。

コンビニのバイトから戻って僕に夕食をつくり夜はファミレスで深夜0時までのシフトに入る。

そんな無理を重ねるのはヒモ同然の僕を司法試験の勉強に専念させるためだ。

「当たるといいな」

にこりと笑ってパズルの応募はがきを掲げて僕に示した後、笙子は窓辺に行って横座りに座った。

そして開けた窓のレール上に両腕を組んで置いて頬を横たえた。

「葉桜もきれいね」

アパートに面した通りに等間隔に植えてある桜の枝が2階からは目の前に見える。

桜並木沿いに狭い川が流れていて川向こうが繁華街、こちら側は住宅街だ。

春には川岸に菜の花が咲き少し遅れて桜が花を開く。

故郷の景色に似ていると懐かしがりながら笙子は春はおろか正月も帰省しなかった。

ただひたすら僕の合格発表を楽しみに待っている。


雲の切れ間から急に西日が差しこんできた。

これは吉兆か?

スマホを取り出して時刻表示を見るとちょうど5時。

司法試験は先月の4日間にわたって論述試験とマークシート試験が行われた。

2本立てのうちのマークシートの合否発表が6月の今日、午後5時。

第一関門のこれを突破しないと9月の最終発表に向けて論文は採点もしてもらえない。

僕は震える指で法務省のホームページを開いた。

……西日は吉兆ではなかった。

表示されている合格者の受験番号を未練がましく何度も確認した後、スマホを閉じた。

笙子は窓辺で腕に顔を横たえたまま寝入っている。

しばらく休んだら川向こうのファミレスに疲れた体でまた働きに出るのだ。

そんな笙子に僕はどんな顔をして試験の結果を告げられるというのか。


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


「お下げしてよろしいでしょうか」

「うん、いいよ」

皿を片付けていったのは料理を運んだウエイトレスだった。

「おかしな子だなあ。今度はタバスコを置きっぱなしで行っちゃったよ」


「制服、ずっとかわってないのね」

「懐かしいかい?」

「懐かしいって言えば」と笙子は川向こうのアパートに目をやった。

「夜遅くまで部屋に明かりがついてるのを仕事の合間に見るのが好きだったわ」

「あの頃は君に苦労のかけどおしだった」

「ううん全然。でも突然いなくなるんだもん」

笙子はとがめるような目で僕を見た。

「試験に落ちて合わせる顔がなくて。とうとう弁護士にはなれなかった」

笙子の表情がいっそう厳しくなった。

「やっぱり何にも分かってなかったのね、私あの頃が一番幸せだった。それに行政書士だって立派な資格じゃない」

そう言うと薄暗くなった窓の外に視線を移してまた黙りこんだ。


話の接ぎ穂もなく僕はテーブル上のタバスコを見るともなく見ていた。

ふと思いついて財布から10円玉を1枚取り出した。

そして紙ナプキンの上に置くとタバスコの瓶を手に取って蓋を開け数滴垂らした。

10円玉はみるみる新品の輝きを取り戻していく。

そのさまを見て笙子は先ほどまでの不機嫌な顔を一転させて目を見張った。

「きれい! 話には聞いてたけど見るの初めて!」


店を出て川向うのアパートに目を向けた時、二人で住んでいた部屋にちょうど明かりが灯った。

立ち止まった僕の顔を笙子が覗きこんだ。

「どうしたの?」

「2階の角部屋だったね」と僕はアパートを指さした。

「灯りがついてるわね、ちょっと寄ってみようよ」


アパートに向かう道すがら笙子がそっと腕を絡めてきた。

その遠慮がちな動作がかえって僕をとまどわせた。

笙子はよりを戻したいのだろうか。

しかし、一番幸せだったと笙子が言う「あの頃」には戻れまい。

ブランドものの靴を履いている笙子の足はもう白くささくれ立ってはいないだろう。

バイトのかけもちで疲れてうたた寝をすることもないだろう。


アパートはもうすぐだ。

かつての通いなれた道を歩いていると当時の生活が脳裡によみがえる。

切ないほどに笙子のことが愛しかったあの頃から3年の時間が流れた。

また一緒に暮らすとしたら僕たちが(つむ)ぐ時間は今度はどんなものになるのだろう。

腕を組んでいないほうの手の指先がズボンのポケットの中で硬貨に触れた。

さっきの店で財布から出した10円玉だろう。

やり直す人生を昔と同じように(きら)めかせてくれる、そんなタバスコがないものだろうか。

そう思いながら僕はポケットの10円玉を指でまさぐり続けた。

タバスコを片面にしか掛けなかったことが非常な手抜かりのように思われた。

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