チャプター1 ④
テレビ画面を通り抜けた俺は、得体の知れない不安に思わず目を閉じた。生温いゼリーの中に全身を沈めたかのような、妙な感触。それはすぐに消え去り、今度は身体が落下していく感覚に襲われて目を開いた。
「うおお⁉」
俺は本当に落下していた。周りの様子が見えたのは着地するまでのほんの一瞬だが、どこかの建物内だとわかった。
次の瞬間。
「ひゃッ⁉」
俺は眼下で声を上げる女の子を見、落下。視界がブラックアウト。顔全体をクッションのようなもので覆われて息ができず、
「――ぷは!」
呼吸のために顔を上げると、そこにはBカップくらいのお胸様がおわした。ぷにぷにとしたクッションみたいな感触の正体はこのお方だ。
夢でも幻でもなく、俺は安倍のアパートから別の場所に移動したらしい。
「どこを、触ってんのよぉおおおおおおおおおおおおお‼」
俺の顔に、お胸様の主様のグーパンが炸裂。防弾チョッキ込みで体重八十キロ近い俺の身体が軽々吹っ飛ばされた。
超痛い! なにこの展開⁉
俺は屋内から外の通りまで飛び、路駐してあった乗用車に身体をしたたかに打ち付けた。
けど、運よく防弾チョッキがクッション代わりになって、鼻から少し血が出た程度で済んだ。
「今日は非番だったのに、朝から脱走犯の相手させられた挙句にヘンタイが降ってくるなんて、わたしってどんだけ不幸なのかしら」
聞き覚えのある、澄み渡るような声に俺は顔を上げる。
俺がたった今いた屋内から、コツコツとブーツの足音が響き、一人の女性が出てくる。
細く引き締まった身体を、紺色を基調とした半袖シャツ・カーゴパンツという組み合わせの機動隊出動服で包む彼女は、
「署長、聞こえる? わたしがさっき吹っ飛ばした奴が店の瓦礫に埋もれちゃったみたいだから、あとで掘り返すの手伝って!」
苛立たしげに言って、片手に握った無線機をバキバキと握りつぶしてる!
彼女が出てきた店は、何らかの理由で破壊された、工具やらガラス片やらが混在して滅茶苦茶の工具店と見える。
なにかと不必要に物をぶっ壊しながら犯人をとっちめるやり方で彼女の右に出る者はいない。
「どうしたら天井から降ってくるのか知らないけど、今度やったら手加減しないわよ?」
葡萄酒色のおさげ。宝石のように煌く紫の瞳。パーツの一つ一つが精巧に整った小顔を白い肌が覆う。美少女然とした若々しいその人は、しかし俺より一つ年上だ。
「なに人の顔見て固まってんのよ。あんた所属は?」
「ッ⁉」
そのあまりの可愛さに呼吸すら忘れて見惚れる俺に、彼女が言った。
間違いなく彼女だ。俺の憧れ。警察官を志した俺の原点。
この人の名前は、幕明・M・鈴!
この映画――【フォース・オブ・ウィル】の主人公!
「夢じゃない……⁉ あれもこれも、本当だらけだ!」
誰に聞くでもなしに、俺はそう漏らす。
「さてはあんた新米ね? 警官が|戦い(、、)に巻き込まれたくらいで動転してちゃダメよ」
眉尻を下げた鈴が、俺に手を差し伸べてくれた。
俺は鈴に引っ張り起こされながら、頭の中を整理する。
一つ、どうやら俺は本当に映画の世界に入り込んだということ。
二つ、不覚にも安倍の姿を見失ったこと。
三つ、憧れのキャラクターである鈴と、面と向き合って会話していること。
四つ、鈴は、警察官のフル装備を身に着けた俺を同僚と勘違いしていること。
四つ目に関しては、この映画の舞台は東京にモチーフを得ているだけあって、作中の警察官の制服も、実在する日本警察のものと酷似していることが理由だろう。
「――大丈夫だ。こっちこそ、急に落っこちて済まない。指名手配犯を追ってたんだ。俺が来る前にもう一人、痩せた男が落ちてこなかったか? 服装は確か、白い半袖のシャツに黒い長ズボンだったはずだ」
と、俺は鈴に情報を求める。憧れのキャラクターとこうして対面できたのは純粋に嬉しい。
けど今優先すべきは、警部補に託された、警察官としての仕事だ。
「もう一人? もしかして、さっきそこの工具店から、『運命は僕の味方だ!』とかって叫びな
がら出てきた奴のこと?」
「そう! そいつだ!」
「ヤク中かと思って裏拳食らわせたらそこのお店の中に吹っ飛んだわ。まだ|戦闘中(、、、)だったし、巻き込まないようにしたつもりだったんだけど」
――だそうだ。
鈴の話を聞いて合点がいった。俺がテレビ画面を通って落っこちた工具店は、何かが激しく突っ込んで来たかのように大破していた。その原因こそ、鈴の裏拳を喰らって砲弾の如く吹っ飛んだ安倍に違いない。
で、その|戦闘(、、)とやらが片付いて、鈴が様子を見に工具店に入ったところへ、俺がダイブしたという状況だろう。
つまり俺がやるべきことは二つ。まず、工具店の瓦礫の中から安倍を発掘して身柄を拘束。次に、元の世界へ戻る方法を聞き出して帰る。以上。
思わぬ形で決着がついたことに、俺は肩透かしをもらったような、安堵に胸を撫でおろすような、何とも複雑な心境になる。
そうしてそこで、違和感に気付いた。
「|戦闘(、、)って?」
鈴が口にした戦闘という単語に、だんだんと嫌な予感がしてきたのだ。
「びびって見てなかったわけ? |巨人(、、)をやっつけてたのよ。木でできたやつ」
と、鈴。この映画のジャンルは異能アクションだ。そんな世界で活躍する主人公の鈴が戦闘と表現するなら、それはもう――。
俺は周囲の状況を素早く確認する。眼前に広がる片側二車線の通りで、往来していたと思われる多くの車が大破し、雲一つない青空へ向かって黒煙を上げていた。
この通りは、片や街はずれの【外壁】へ、片や高さ一〇〇〇メートルを誇る、針のような外観をした首都統括センタービルが建つ都心部へと伸びている。
都心から少し外れているものの、周辺の建物は首都だけあって地上五階建てくらいのものがザラだ。
歩道には人っ子一人いない。大破した車のドライバー含め、一般市民はみんなどこかへ逃げ果せている。
市民がいない代わりに、都心部の方向へ伸びる大通りを塞ぐようにして、無数のパトカーがバリケードを構築しており、その陰に大勢の警察官たちが隠れていた。
「ジャンベリク! 我々の戦力は思い知ったはずだ! これ以上ぶちのめされたくなければ、とっとと投降しろ!」
と、パトカーの向こうから拡声器を通じて、指揮を執っていると思しき警察官の野太い声が
響いてきた。
もしやテロでも起こったのかと、何も知らない人が見れば思うだろう。
だが俺はこの光景を知っている。鈴の発言も含め、見立てが正しければ、【フォース・オブ・
ウィル】第一作目にあたる冒頭のシーンと同じ状況だ。
俺が着ている半袖の夏服だと涼しい点から見て、季節は春か秋。第一作目は確か、秋の設定だったはず。
【外壁】の方角へ通りを二十メートルほど行ったところに、一際酷い瓦礫の山が築かれていた。砕けたコンクリートやひん曲がった信号機、そして原型を留めていない車の群れが積み重なるその山は恐らく、鈴の言う戦闘によって生じたもの。
木でできた巨人は、他の警察官たちでは手がつけられず、異能課のエースたる鈴が呼び出されたと見える。
「その、木でできた巨人は、どうやって倒したんだ?」
俺は尋ねた。
「いろんなものを一気に持ち上げて投げつけようとしたから、懐に潜り込んで本気の一発を叩
き込んだわ。それで、持ち上げた物の下敷きになったところよ」
「……なら早いとこ掘り起こして《対異能用手錠》をかけた方がいい。でないとまずいぞ!」
「え?」
「その巨人は、また暴れだすって言ってるんだよ!」
俺がそう警告した直後、
「幕明ぇええええええええええええええええええええええええええええええッ!」
件の瓦礫の中から、猛獣が唸るかのような、ドスの利いた声が響き渡った。
そして、無数の木の根っこ――それも太くて長いやつが瓦礫の間から飛び出し、次の瞬間、
積み重なったコンクリートや車を吹き飛ばして、背丈およそ五メートルの木の巨人が現れた。
木の幹――もとい胴体は、電柱を束にしたみたいに太い!