3-2 ジャミー・ビスケット
そうして仕事を始めたのだが、今日はいつもよりも患者の数が少なかった。
お昼休憩もゆっくり取ることが出来たし、午後の患者もまだ二人だけだ。
以前にフェイが診療所は暇なくらいがちょうど良いと言っていたが、確かにその通りである。怪我や病気で苦しんでいる人が少ないのは何よりだ。
「さて、今日はこのくらいカナ? ニコレッタ、お仕事終わりでいいヨ」
「時間にはちょっと早いですよ?」
「いやいや。外でネ、キミを待っている人がいるからサ」
「え? 外ですか?」
ニコレッタが目を丸くしていると、フェイは入り口の方へと歩いて行く。
「そうそう。僕もさっき気が付いたんだけど、しばらく前から、診療所の前をうろうろしているようだネ。どうもそれで、患者さんが近寄りにくかったみたいだヨ」
そしてそう言ってドアを開ける。
するとそこから見えたのは、私服姿のダンテ・アルジェントの姿だった。
ダンテはドアノブを掴もうとしているようなポーズで固まっていた。どうやら中へ入るか入るまいかを、迷っていたところのようだ。
「あら、ダンテさんじゃないですか。どうしたんですか? どこかお怪我でもされましたか?」
「あ、いや、その……」
ニコレッタが尋ねるとダンテは目を彷徨わせた。この様子だと、怪我や病気の類で診療所を訪れたわけではなさそうだ。
まぁ、そもそもアルジェント家の人間であれば、主治医がちゃんといるだろうから、何かあったらそちらを頼るだろうけれど。
そんなことを考えながら見ていると、
「ニコレッタさんが、こちらで働いていると伺ったもので、えっと……」
ダンテは少し照れながらそう言った。
ニコレッタはハッと目を見開く。
「なるほど、つまり浮気調査という奴ですね! いやぁ初めてですね! それでは、張り切ってどうぞ!」
「違いますよ⁉」
「えっ違うの? 残念……」
「どうしてがっかりするんだ……」
肩を落としたニコレッタを見て、ダンテは若干引き気味にそう言った。
「いえ、だって、貴族と婚約をするならば、身辺調査はするでしょう? その一環かなって」
「あなたと俺は、もう婚約していますよ」
「そうでした。順番が前後しましたね。身辺調査はしますか?」
「しません! というか、もう終わっています!」
ダンテは頭を抱えてそう言った。終わっているらしい。
婚約してから数日で済ませているとは、さすがアルジェント家、優秀である。
ニコレッタが呑気な感想を抱いていると、フェイが噴き出すように笑い出した。
「アッハッハ! もう、何なのキミたち、痴話喧嘩?」
「ち、ちちちち、痴話喧嘩⁉」
「とにかく、中に入って。さすがに目立つからネ?」
フェイは、笑い過ぎて目に涙まで浮かべながら、真っ赤になったダンテにそう促した。
するとダンテはハッとした顔で周囲を見回してから、恥ずかしそうな様子で診療所の中へと入る。
フェイは『診察時間終了』と書かれたプレートをドアに掛けて、ドアをそっと閉じた。
「さ、騒がせて申し訳ありません……」
「いやいや。ま、とりあえずそこのソファにでも座ってネ」
「は、はい……」
ダンテはしょんぼりと落ち込みながら、言われた通りにソファへと腰を下ろす。やはり素直な人である。
ニコレッタは小さく笑いながら、彼の隣に腰を下ろした。
「それで、どうしたんですか? 今日はお仕事がお休みですか?」
「はい。その……じ、実は祖父母から、ニコレッタさんと上手くやっているのかと訊かれて……」
「はい」
「それでニコレッタさんの店に、よくお菓子を買いに行っていると答えたら、それはただのお客さんだと言われて……」
「ホラ」
「あう」
フェイにツッコミを入れられて、ニコレッタはうっと軽く仰け反った。
ちなみにダンテの祖父母は二人の婚約が一時的なものだということは知らない。
けれど、ダンテがカルロッタに言い寄られていることは心配していたようで、先日挨拶をした時は、ニコレッタとの婚約を喜んでくれていた。
その二人から今の関係を、心配されているのは少々よろしくない。
カルロッタがまだダンテを諦めていない今は、少しでも味方が欲しいのだ。
ただカルロッタ側も、王命で強引に婚約しない辺り、両陛下はそこまで娘に甘いというわけでもなさそうだ。しかし強く止めてもいなさそうなので、楽観視はできないが。
今の二人の関係がカルロッタの耳に入って「ダンテを大事にしないのなら別れなさい」なんて言ってこられたら面倒である。
と言っても、ダンテに好意を抱いているなら、彼の評判を落とすことはしないだろう。
そうなると狙われるのはニコレッタの方である。
自分だけなら失うものなんてほとんどないが、フェイや診療所の患者の皆、シュガーポットのお客さんに被害が及ぶのは避けたい。
ダンテの祖父母にすら怪しまれているのならば、カルロッタからそう思われるのは時間の問題である。
ならば早急に、婚約者らしいラブラブっぷりを、周囲に知らしめるべきではないだろうか。
ニコレッタはそう思ったのだが……。
(婚約者らしいラブラブっぷりとは、どんなものだろうでしょうか)
ニコレッタは恋愛関係の知識がほとんどない。
何せ初恋だってまだなのだ。働くのに一生懸命で、恋愛小説だって読む時間がない。
どうしたものかとニコレッタが思っていると、
「ですから、その……仕事終わりに、その、どこかへデートに行かないかと、思いまして……」
なんてダンテが言い出した。
その言葉にニコレッタは目を丸くする。
「それはもしや、デートのお誘い……?」
「いや、あの、迷惑なら……」
「いいですね、デート! 実に婚約者っぽいです! デートなんて初めてですよ、私!」
「あ、そ、そう……?」
ニコレッタがテンション高くそう言うと、ダンテは目を瞬いて嬉しそうな顔になった。
すると二人のやり取りを聞いていたフェイがくつくつと笑う。
「ン~、大丈夫かなって思ったケド、意外と問題がなさそうで何よりだヨ。それじゃあ、ホラ、ニコレッタ。早く帰る準備をしておいデ」
「はーい! あ、先生、ジャミー・ビスケットに合うお茶、棚の三番目ですからね!」
「ハーイ」
ニコレッタはエプロンを外しながらそう言って、荷物を取りに奥へと向かった。初めてのデートに浮かれて、ニコレッタの足取りはスキップでもしているかのように軽い。
フェイはそんなニコレッタを、親のような優しい眼差しで見送った。
*
ニコレッタがその場から離れるのを、ダンテが何となく目で追っていると、
「さてさて、ダンテ君。ニコレッタのことをよろしくネ。大体の事情はあの子から聞いているから、僕に出来ることは協力するヨ」
フェイからそう声をかけられた。
「あ、ありがとうございます。助かります」
ダンテはホッとしながら頭を下げる。今の自分の状況で、少しでも味方が増えるのはとてもありがたいのだ。
良い人だな……とダンテが思っていると、
「うん。でもね~、もし、ニコレッタを裏切って、悲しませたりしたら……」
フェイの纏う雰囲気ががらりと変わった。
彼は一度言葉を区切ると、ダンテの方へ予想外の速さで近付いてきた。
えっ、と思う前に、胸倉を掴まれる。
ダンテはそのまま、フェイに力任せに引き寄せられて、
「――男として一生使えなくしてやる」
射殺すような鋭い眼差しと、血の底から聞こえてきたのではないかと錯覚するほどの低い声でそう言った。
言葉も、先ほどまでの微妙にイントネーションがずれたものではなく、妙に流暢だ。
その恐ろしさと言ったら、騎士として危険な任務に就いているダンテも、思わず「ヒッ」と悲鳴を上げてしまうくらいだった。
「も、ももも、もちろんです! 死ぬ気で大事にします!」
これは間違った返事をしてはならない。
ダンテは必死に頷いて誓うと、フェイはその返事に満足したようでパッと手を離した。
「ウンウン。よろしく頼むヨ~!」
そしていつも通りの口調と表情に戻って、明るく笑う。
「は、はい……」
そんなフェイとは対照的に、ダンテは青褪めたまま、引き攣った笑顔を浮かべたのだった。