3-1 ジャミー・ビスケット
ダンテと正式に婚約してから数日後のこと。
ニコレッタはいつも通りフェイ診療所へアルバイトにやってきた。
ドアを開けて中へ入ると薬草の香りがふわりと漂う。こういう診療所は、消毒液の匂いや薬の匂いが強い場所なのだが、ここは比較的マイルドだ。
このあたりはフェイが「小さな子供もいるからネ」と気を遣っているからである。
もちろん掃除も、診療所内の消毒もきちんと行っているため、清潔さは他とも変わらない。
「おはようございます、フェイ先生! 今日も素敵なお天気ですね!」
「やあ、おはようニコレッタ。キミは今日も元気だネ」
「元気ですよ~? ニコレッタ・ジャンニーニは、元気と丈夫さが取り得ですから!」
えっへん、と胸を張って言いながら、ニコレッタは荷物を置いてエプロンを身に着けた。白地に花の刺繍が施されたこのエプロンが、ニコレッタの仕事着だ。
そうして身支度を整えるとニコレッタは仕事を開始した。
まずは待合室の椅子やテーブルの拭き掃除である。
よし、とニコレッタが布巾を手に取った時、そう言えばフェイに、ダンテとの婚約について、話をしておかなければと思い出した。
「そうそう、フェイ先生。ご報告があります」
「ん~? 何?」
「私、婚約をしました」
「ぐっ! げっほ、げっほ!」
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫、大丈夫……」
フェイは飲んでいたお茶を噴き出しそうになるのを何とか堪えて、ずれた眼鏡を指で戻しながら、怪訝そうな目をニコレッタへ向けてきた。
「そんな世間話みたいに報告する内容じゃないヨ! 一体どういう風の吹き回しダイ?」
今までそういう相手がいる素振りを、微塵も見せなかったニコレッタである。
そしてフェイは、ニコレッタの結婚願望が薄いことを知っているので、訝しんでいるようだった。
さすが、フェイは自分のことを良く分かってくれている。
もちろんニコレッタも、フェイまで騙すつもりはない。そもそも付き合いの長い彼に、そういう嘘を吐いたところで無駄である。
今の言葉は、説明前の軽いジャブのようなものだ。
「実は、つい先日決まったばかりなのですよ。何なら出会いも数日前です」
「……キミ、それ大丈夫? 怪しい人におかしなことを言われたら、拳で鼻の横をぶん殴って逃げろって、僕は言ったよネ?」
フェイは据わった目でそう言った。おおよそ医者が言う台詞ではない。
ただ、その声は呆れ半分、心配半分という雰囲気だった。
「それで相手は誰? 僕の知っている人?」
「たぶんご存じだと思いますよ。結構有名な方ですから」
「有名~?」
まだまだ怪しんでいるフェイは目を細くした。いつも浮かべている薄っすらとした笑顔も今は消えている。
もともと糸目なフェイだから、こうして真顔になると実に迫力がある。
そんな感想を抱きながら、ニコレッタは彼の質問に答えた。
「ダンテ・アルジェントさんです」
「はい? ……あの騎士の名家の?」
「ですです」
「…………熱でもあるカイ? 今日は休ム?」
「何故、そんな反応に……」
正直に答えたのに、フェイから本気で心配されてしまった。
解せぬとニコレッタは半眼になる。
「高熱を出した時に見る幻覚の類だネ……ちょっと熱を測ってくれル?」
「心配してくださって嬉しいですけれど、先生の中で私は、一体どういう扱いなのですかね?」
そう聞くとフェイは「冗談、冗談」と苦笑した。
「ニコレッタが、悪い奴に騙されているんじゃないかって、思っただけダヨ。その様子だと大丈夫そうだネ」
「先生……」
それを言われてしまうと、ニコレッタは弱い。
だって詐欺師に騙された結果が、今の自分なのだ。
ニコレッタは肩をすくめて、フェイにダンテと婚約した経緯と状況について説明する。
フェイ最初は相槌を打って聞いてくれたが、最後まで話すと呆れ顔になって、
「いやぁ、ジャンニーニの血筋というか、実にキミらしいネ……」
と、しみじみと呟いていた。
「しかし、なるほどネ。変な相手だったら、キミのご両親に申し訳ないところだったケド……。まぁ、アルジェント家の坊っちゃんなら、誠実そうだから良かったヨ」
「そうなんですよ、ダンテさんってすごく誠実なのです。婚約した日から、ずっとうちの店のお菓子を買いにきてくれているんですよ」
「いや、それはただのお客じゃナイ……?」
するとフェイから再び訝しんだ目を向けられてしまった。
実のところ、これに関してはニコレッタも同じことを思った。
しかし、お店の売り上げに貢献してくれるのはありがたい。
それにダンテは、ニコレッタが軽い気持ちで提案したことを、律儀に守ってくれているのだ。真面目で良い人よね、とニコレッタは思っている。
「でも、ジャンニーニ家の復興の協力を断るところは、本当にニコレッタらしいネ」
「大事な部分を他人任せにしてはいけないと、痛いほどに学びましたからね!」
「うん、いいことダ! それじゃあ、生活にそれほど変化はないのカナ? アルバイトはまだ来てくれル?」
フェイは少し上目遣いにそう訊いてきた。
むしろそこは、ニコレッタからお願いしなければならないところなのだ。
それなのにこうして、ニコレッタの意思を尊重しようとしてくれるフェイは優しい。
「はい! 同じように雇っていただけるとありがたいです!」
「いいヨ! ニコレッタは働き者だから、僕が助かるし、キミ目当てで来る患者さんもいるからネ。急に辞めたら、ニコレッタに何をしたんだって、僕が詰め寄られちゃうヨ」
「そんなことは……」
ないと言いかけたが、仲良くしてくれている患者さん達の顔を浮かべると、ちょっと自意識過剰ではあるが「あるかも……」と思ってしまった。
「あ、ほら、お菓子目当てでもあるんじゃないですかね? うちのお菓子ってば美味しいし!」
照れくささを隠しつつ、ニコレッタがそう言えば、フェイはからからと明るく笑った。
「良く分かっているネ~。ちなみに今日のおやつはなーに?」
「ジャミー・ビスケットです!」
「ラズベリー! 最高だネ!」
フェイはパチンと指を鳴らして喜ぶ。彼はベリーを使ったお菓子が大好物なのだ。
だからニコレッタも、週に一度はベリー系のお菓子を持って来ることにしている。
「フェイ先生」
「何ダイ?」
「ありがとうございます。大好きです」
「んっふふ。こちらこそだヨ!」
ニコレッタがお礼を言うと、フェイはにこっと笑って片手を挙げた。
そんなフェイを見ながらニコレッタは、さあ、今日もお仕事を頑張ろうと気合いを入れたのだった。