8-6 キャロットケーキ
その日、ゴシップ記者のフランクは複雑な気持ちで家路についていた。
理由は腕に抱えたパティスリー・シュガーポットのお菓子だ。
あそこの店主とフランクは、お世辞にもいい関係とは言えない。理由はフランクが彼女の不幸を新聞記事に使ったからだ。
当時、うだつの上がらない記者だったフランクは、家族の生活を守るために必死だった。
自分の書く記事はどれも面白みがないと言われ、このままだとクビになりそうだった時に、フランクは風に吹かれて飛んで来たとある新聞を読んだ。
ゴシップ紙だった。
内容は最低も最低で、人のプライベートに踏み込んで、ある事ない事を書き立てる。
そして違っていても小さな記事で謝罪すれば良い――そんな気持ちが伝わって来る新聞だった。
吐き気がした。フランクは子供の頃からそういう新聞が大嫌いだった。
だから自分は記者になって、本当の事を記事にしたいと思い、その道を選んだのだ。人を陥れるのではなく、誰かを助けられるような、そんな記事を書く記者に。
♪
フランクがジャンニーニ家の事を知ったのは偶然だった。
とあるバーで安い酒を飲んでいた時に、
「ジャンニーニ家のお貴族様は本当にお人好しだったなぁ」
なんて会話が耳に飛び込んで来たのだ。
ジャンニーニ家についてはフランクも知っている。製菓事業を行っているお人好しの貴族で、困った人間を助けているのだそうだ。
その時フランクは『何がお人好だ』と心の中で悪態を吐いた。
だって、そのお貴族様は困っている自分達は助けてくれないじゃないか。
もちろんフランクだって、それが単なる八つ当たりなのは分かっている。
それでも、どうにもならない現状に苛立つ気持ちを、誰かにぶつけなければ気が済まなかった。
そんな気持ちで、耳に入って来る会話に勝手に心の中で相槌を打っていたら、
「だからころっと騙されてくれたぜ。まーだ信じていやがる。こりゃあ没落もそう遠くはないだろうなぁ」
と続いて、飲んでいた酒を拭き出しそうになった。
――騙された? 騙した? こいつが?
驚いて酔いが一気に醒めた。
動揺を悟られないように努めて静かに話を聞いて行くと、どうやらそいつはジャンニーニ家のお人好しさに付け込んで、融資という名で金を騙し取った上に、多額の借金まで肩代わりさせたそうだ。
フランクは震えた。こんなネタ、きっと他の誰も掴んでいないと思ったからだ。
これを記事にすれば、きっと大騒ぎになる。
そして――そして、ジャンニーニ家だって騙されたと知れば直ぐに動いて何とかなるかもしれない。
貴族に伝手のない自分が言ったところで信じてもらえないが、世間を動かせばきっと伝わるだろう。
――そうすれば自分はヒーローだ!
フランクは連中の話をすべて盗み聞きすると、直ぐに記事を書いて提出した。
上司は「お前もやれば出来るじゃないか。これは売れるぞ!」と褒めてくれた。
いい気分でフランクは家に帰り、新聞が発行されるのを待った。
しかし世間の反応は、自分が考えていたものとは違うものだった。
詐欺師に騙された馬鹿な貴族。それが多くの人間の反応だった。
おかしい、自分はそんな風に書いた覚えはない。慌てて新聞を読むと、自分の書いた記事が手直しされて載っていたのだ。
ぎょっとして新聞社へ駆け込み、上司に抗議をすると、
「ちょっと面白くしただけじゃないか。読者の怒りを搔き立てる方が売れるんだよ。よかったな、これで臨時ボーナスが出るぞ~」
と笑って肩を叩かれた。フランクは絶句した。
――私のせいじゃない。私が悪いんじゃない。
手直しをしたのは上司だし、結果的にお貴族様の耳には入っただろう。だから大丈夫。大丈夫だ。
自分にそう言い聞かせながら、消しきれない罪悪感を抱えて、もらったボーナスで娘の好きなお菓子を買いにパティスリー・シュガーポットへ向かった。
ここのキャロットケーキが娘は好きだったし、何よりもこの店はジャンニーニ家が経営している。
だからフランクは足を運んだ。何も問題ないのだと、自分の目で見て安心したかったのもあるからだ。
しかし。
「え……?」
そこで見たのは店の前には新聞記者が詰めかけていて、従業員達が対応に苦心している姿だった。
その中にはジャンニーニ家の当主の姿もある。
記者達は好き勝手な質問を、心無い言葉を彼らに投げかけていた。そこから少し離れて市民達も様子を見ている。
「何だ、これ……」
心配する市民は確かにいた。
しかし好奇の視線を向ける者、あざ笑う者も確かに存在した。
「何だこれ」
フランクは数歩後ずさりながら震える声で呟く。
こんな事をしたかったんじゃない。
こんな事になってほしかったんじゃない。
「私は」
私はただ、自分の記事で誰かを。
その時、ジャンニーニ家の当主と目が合った――気がした。
とたんにフランクは声なき悲鳴を上げてその場から逃げ出した。
――違う。違う。違う。違う!
心の中で必死に叫びながらフランクは走った。
それからしばらくの間の記憶は、フランクの頭からごっそり抜け落ちていた。
♪
落ちるのはあっという間だった。
一度自分の名でそんな記事が出れば、世間のフランクに対する評判もまたそうなる。
低俗なゴシップ記者――あの日からフランクはそうなってしまっていた。
特にジャンニーニ家に助けられた者達、慕う者達からの視線は冷たいものだった。
妻からも、
「あんたね! 何であんな記事を書いたりしたの! ジャンニーニ様は、お貴族様にしてはいい人だって評判だったんだよ!」
と激怒され、当時は離婚ギリギリの状態だった。
今もその時の事が尾を引いていて、少々ギクシャクした関係が続いている。
これはフランクが、そういう記事を書くのを止めないから、というのもある。
人間とは不思議なもので、一度経験してしまえば後はするりと次へ手が伸びる。
そのおかげでフランクは家族とそれなりに裕福な暮らしが出来るくらい稼げるようになった。
ただ、あの日感じた罪悪感だけは、消えてはくれない。
「……ただいま」
そんな事を考えながら、フランクは自宅のドアを開ける。
「あっ、お父さん! おかえりなさーい!」
「おっと。マリア、飛びついたら危ないだろう」
「えへへ、ごめんなさーい! あれっ、シュガーポットの袋だ!」
「あ、ああ。たまにはお菓子でもと思ってな。……これ、その店の人がお前にって」
「やったー! 嬉しい! ありがとう、お父さん! お母さん見て見てー!」
持っていた袋を手渡すと、娘は大喜びしながら妻の方へと走っていく。
フランクもコートを脱ぎながら、そちらへと向かった。
「シュガーポットのお菓子、お父さんが買って来てくれたの! あっキャロットケーキもある!」
「こら、マリア。跳び跳ねないの! 食事の後にいただこうね」
「うん! 私、手を洗って来るね!」
そんな会話の後、再びパタパタと小さな足音が聞こえる。
うちの子は元気だなと思いながら、フランクはダイニングへ向かった。妻と目が合う。
「ただいま」
「おかえりなさい。……シュガーポットへ行ったの?」
「そう訝しんだ目を向けないでくれ。……ちょっと気になったから、ただ立ち寄っただけだよ」
「……そう」
フランクの言い訳を聞いて、妻は呆れたようにため息を吐いた。
記事の一件で、フランクの妻もジャンニー二家に罪悪感を抱えている。店の近くを通るたびに、彼女が申し訳なさそうな顔をしているのを、フランクも知っていた。
それから彼女はシュガーポットの袋を開けて中を見て、少しだけ目を開いた。
「……あの頃と同じキャロットケーキだね。ニコレッタ様、頑張ってらっしゃるのね」
「……ああ。頑張っていたよ。眩しいくらいに」
ニコレッタ・ジャンニーニはどん底に落ちても、諦めずに這い上がろうとしている。
その姿があまりにも自分と違い過ぎて、口の中に苦いものが広がった。
「……私は」
「何だい?」
「いや、何でもない」
思わず呟きかけた言葉に反応した妻に、フランクは首を横に振る。
それから「着替えて来る」と言うと自分の部屋へと向かった。
「…………」
――私は一体何をやっているのだろう?
そんな先ほどの続きを、心の中で呟きながら。




