002 ゆるふわ執事さん
ライバルであり親友である一橋一世の家に勉強会でお邪魔している上下志郎。
そこで一橋家に仕えているであろう執事さんに一目ぼれしてしまった志郎だったが、もちろん会話することなく一世との勉強が始まる
一目惚れしてしまった志郎。
もちろん勉強が手につくことはなかった。
突然目の前に現れたゆるふわ系美女。
でもそれは一橋家に仕えている執事。
恋愛に発展なんて、そんなアニメみたいなことあるわけないか…なんてことを心の中で思いながらも、さっき目に焼き付けた執事さんの姿を想像する志郎。
それに対し、とんでもない集中力でペンを動かす一世。
志郎が集中してないことに気づいかないくらいの集中力である。
執事さんのことが頭から離れず、全くペンが動かない志郎であったが、一世の発言にはなんとか気づくことができた。
「志郎。何位目指すんだ?俺、またお前と競えるの楽しみなんだ。」
残念ながら、一世の夢は叶わないのだろう。
もうすでに二人の実力差が開いているのは明確だ。
「どうだろうな…」
なんとも言えない志郎。
一世、俺が集中していない間にこんなに…と心の中で少し焦る志郎。
でもある意味、昔からそうだった。
一世は才能はあるにはあるが、志郎には及ばなかった。
そう、一世はどちらかというと努力型だった。
とはいっても一般人にくらべたら一世はもちろん天才だ。
対して志郎は才能派だった。
ある程度こなせばできるタイプの天才。
中学ではある程度すらこなせず、いつしか落ちこぼれになっていったというわけだ。
「ま、やってみねーと分かんねえか!お前ってさらっと高得点取るからな~」
小学生時代と同じにしないでくれ。と言いたい志郎であったが、苦笑いで終わってしまった。
「ちょっと、トイレいいかな?」
「ああ。場所は…多分執事さんいるから、連れてってもらって。」
来たー!志郎は大歓喜だ。
狙ったわけではないが、これで執事さんと会話ができるかもしれない。
トイレに行くだけなのにワクワクな志郎だった。
志郎は一世の部屋を出た。
するとすぐ近くに階段があり、そこを下ると、執事さんがいた。
「あ、あの、すいません。トイレ、借りてもいいでしょうか。」
これが志郎と執事さんの初めての会話だった。
「トイレですね。こちらです~」
やっぱり語尾がなんだかふわふわしている執事さん。
横を歩く執事さんを身で追ってしまう志郎。
「どうかしました?」
視線を感じた執事がいう。
「あ、え、いや、なんでも。」
志郎は焦る。執事さんとは真反対を向く。そんな志郎の頬が軽く赤らむ。
志郎は、心の中で思っていた。
話すなら今がチャンスだと。
二人きりの今、話すならいいタイミング。
だが、もうトイレは目の前。
「ここでございます。」
「あ、ありがとうございます。」
最初のチャンスを逃した志郎であった。
短いトイレの時間で、志郎は考えた。
どうすれば執事さんと話せるか。
トイレでの一人の静かな空間。
執事さんのことで頭がいっぱいな自分に、志郎はやっと気が付いた。
まだ、恋かは分からない。
でも、間違いなく執事さんが気になって仕方がなかった。
トイレを出る志郎。
すると、出た先に執事さんがいた。
一応、志郎のことを待っていたのだ。
「すいません。待ってくれ…」
なんか言え志郎チャンスだ!そう心の中で反復する志郎。
「いえ、わたくしの仕事ですので~」
やっぱり最後に伸ばし棒がつく口調な執事さん。
その伸ばし棒は真っすぐでははなくて、波線の伸ばし棒だ。
何喋ればいいかな。
年齢?いや失礼かな。名前?いや、きもいか?
そんな葛藤が志郎の中で広がる。
「大丈夫ですか?」
「え、いや、じゃあ…」
今しかない。志郎は一息ついた。
「名前…なんていうんですか?」
長考の末、に志郎が編み出した質問はこれしかなかった。
「名前…ですか?どうして?」
志郎は自分が名乗らないのに先に聞くのは失礼か?と考えた。
「俺は、志郎。上下志郎っす。」
緊張で手汗が止まらない志郎。
「覚えておきますね。」
執事さんに認知してもらえてたかもしれない。
志郎は一仕事達成したかもしれない。
だが、執事が自分の名を言うことはなかった。
この執事にとって、名前にはあまりいい思い出がなかった。
そんなこと知らない志郎は何も考えず聞いてしまったわけだが。
「大丈夫か?志郎。」
返って来るのが遅い志郎を心配して一世が部屋を出てきた。
名前を聞けないまま志郎は一世の部屋に戻った。
そうして、また勉強。
さっきよりは集中できた気がした志郎であった。
いつしか日は暮れて、帰る時間。
一世の部屋を離れて、一橋家を離れようとする志郎。
外に出るまでやはり執事さんを探してしまう志郎。
玄関の前に、いた。
それだけで、胸の鼓動が早くなるのを感じる志郎。
「お、お邪魔しました!」
志郎はそう言ってお辞儀をした。
「またいつでもいらしてくださいね。志郎さん。」
執事は笑顔で手を振った。
顔の横で最小限手を振る。
執事さんがしてそうな手の振り方、
志郎は名前を呼ばれたことに嬉しくなり、勢いよく一橋家を出て行った。
ーーーーーー
葉加瀬花夜奈
それが彼女の名前だった。
彼女というのはもちろん一橋家に仕えている使用人のことだ。
葉加瀬は幼いころから親から見捨てられていた。
最低限いきれる程度の食べ物を与えられてはいたみたいだが、ずっと家に引き込もり。
幼稚園や保育園なんてものにも入れてもらえなかった、
感情なんて言葉すら葉加瀬にはなかったかもしれない。
幼いころの葉加瀬にとって、生きるというのは、ただ時が過ぎるのを待つだけだった。
両親が家を留守にしている時、葉加瀬は家を出た。
小学生くらいの年齢だろうか。
空腹に耐えられなくなったのだ。
歩き方も不安定なまま、アパートを出ていく。
部屋が一階なのが幸いだった。
階段で転落するなんてことはなかった。
外に出たはいいもののどこに行けばいいのか分からない葉加瀬。
葉加瀬にとって、初めての外の景色だった。
小さいながらも、外の空気のおいしさを感じた。
ひたすらに歩いた。
楽しかったのだ。
どこまで行ったのだろう。
そのくらい歩いていた。
道中は転んでばかり、ひざや腕からは、血が出ていた。
痛かっただろう。
でも、楽しいが勝った。
泣くなんてこともなかった。
そもそも家で泣くということがほぼなかった葉加瀬には突然泣くことはできなかったのかもしれない。
そして、また転ぶ。
ついに、体が立ち上がるのを拒否した。
葉加瀬は初めて泣いているという実感をこの時初めて感じた。
そして、そこを一橋家に拾われたのだ。
これが、葉加瀬花夜奈の人生の転機だった。