ただいま
夏生のいないクレインマジックは、妙に静かだった。
別に夏生が普段騒がしいわけではない。だが理彩と高見沢も普段はしょっちゅう言い争いをしているのに何故か控えめだ。
夏生の笑い声がないことがこんなに雰囲気を変えるなんて、悠には想像も付かなかった。
「四本さん、帰ってきませんね」
「それを今言わないでよ」
高見沢の心配そうな声に、妙に弱気に聞こえる理彩の声が応えたのは、夏生が休み始めてから3日目のことだった。
「うめ咲の料理長って、頑固で有名な人ですよね」
「あー、そういえば前にテレビで見たことあるかも。四本さんとは似てないわよね。……有名料亭の跡取りにって望まれてるなら、そっちの方が料理人としては名誉なんじゃないかしら」
「でも勘当されてるんですよ?」
「勘当を解くから戻ってこいっていうんじゃないの? わざわざ会いたいってメールを出してきたって事は、少なくとも話がしたいってことよね」
「梅崎の名前は出してなかったから、『うめ咲の名に泥を塗るな』ってクレームじゃないでしょうし」
「雛子、速水」
高見沢と理彩の会話を遮ったのは桑鶴だった。女性ふたりは同時に桑鶴に不安が滲んだ顔を向ける。
「君らが言い争いに発展せずに、仕事中にそんなに長く会話を続けたのは初めて見た」
責める響きがない桑鶴の言葉に、ふたりは逆に身を竦めていた。
「不安なのは分かるが、ナツキチを信じて待とうぜ。そもそもここはあいつのために作った会社だから、戻ってくるに決まってるさ。……もし仮にあいつが別の道を選んだとしても、俺は責めないけどな」
悠は黙って3人の言葉を聞いていた。
夏生を送り出すときには彼を応援する気持ちしかなかったし、戻ってくると信じているが、やはり日を重ねるごとに不安が募ってくる。しかも、夏生からは一切連絡が来ないのだ。
特に夜になると静けさが気になってしまい、それは悠を憂鬱にさせた。
上京してからはひとりが当たり前だったし、実家にいたときだってひとりで過ごすことが多かった。夏生と暮らすようになってからは1ヶ月足らずだったが、世話焼きな彼の存在は悠の自覚以上に膨らんでいたらしい。
朝食も夕食もひとりで食べて、コーヒーは自分で淹れる。「ハルくんもコーヒー飲む?」と柔らかな声で尋ねてくれる年上の友人は今はいないのだから。
朝食はパンをかじるばかりだったが、毎日夕食はそれなりに作った。冷蔵庫の中に生鮮食品があったからだ。腐らせるのは辛い。
クレインマジックのアプリで、夏生の手が作る料理胴がを見ながら、それを真似して料理を作る。
ひとり分きっちりに仕上がるレシピに、妙に寂しい気持ちが湧き上がってくる。
案外防音の効いたマンションなので、夕方を過ぎると静けさがひたひたと悠に迫ってくる。
気を紛らわす為にテレビをつけて、ニュースバラエティを見ながら悠がぼんやりと今日の夕食は何にしようかと考えていると、カチリ、という音が玄関で響いた。
「ただいま」
響いた低音の声に、身体が埋もれるクッションから悠は苦労して立ちあがる。
「夏生? なんで今まで連絡くらい入れられなかったんだ?」
「えっ? 連絡してたしハルくんも返事を……うわあああ! 間違えて剣持さんにメッセージ送ってた!」
玄関で靴を脱ぐ前に崩れ落ちた夏生を見て、思わず乾いた笑いがこみ上げてきた。
随分情けない理由で、これは責めるに責められない。
「ごめん……言い訳だけさせて……。剣持さんとハルくん、アイコンがすっごい似ててさ。最初間違えて送って、返事が来たから続けてそこに送っちゃって。
しかも口調も似てるんだよね! 文字だけだと余計!」
剣持も口数があまり多くないし、自分のことを「俺」と言う。
夏生の事情は知らないだろうが、「お父さんと会えたよ」なんて送ったら「そうか」と悠と同じような言葉を返すだろう。――夏生にとっては不運でしかなかったが。
「あー、今日は意外にまだ蒸し暑いね」
「いや、あんたが焦ったからだろう」
「うう……」
顔を真っ赤にした夏生は、汗の滲んだ額を拭った。
「それもあるけど、ちょっと急ぎ足にしたら汗掻いちゃったよ。先にシャワー浴びていいかな。その後でゆっくり話したい」
「ああ。何か飲むか?」
「麦茶がまだあったら飲みたいな」
「わかった」
ボストンバッグを開けて洗濯物を仕分けている夏生の横を通って、冷蔵庫から冷たい麦茶を出す。
クレインマジックに初めて行ったときにも飲んだこの麦茶は、大麦を粒のままで焙煎した夏生一推しの麦茶だった。夏生が作っていた分は飲みきってしまったので、昨夜悠が自分で煮出したものだ。
喉を鳴らして麦茶を一気飲みした夏生は、悠に向かってにこりと笑う。
「あー、冷たくて美味しい。これ、ハルくんが自分で作ったんだね」
「わかるのか、麦茶なのに」
「わかるよ。煮出す時間と粗熱を取る時間が僕は決まってるし、いつも飲む僕の味と違うからね。ふふ、なんだか嬉しいな。帰ったところに友達がいてくれて、自分以外が作った麦茶を美味しいって言って飲めるのが」
間近で微笑まれて思わず笑い返す。この様子では話し合いは上手くいったのだろうと悠にもわかった。




